一 無色の出会い
彼女が日記をつけていたので、僕も今日から日記をつけることにしようと思う。
多分こんな日々二度とやってこないだろうから。
今僕の家で日本の大女優が眠っている。
よっぽど疲れていたのか警戒心のかけらも見せることなくすやすやと眠っている。
もちろん僕自身も何かしようというつもりはない。
というか今の彼女の眠っている様子を見て何かできる人がいるなんて思えない。
それほどに触れられない、ガラスのような存在だった。
僕は何もかもなくした。
家族は僕以外を乗せた車で事故にあい、一気に失った。
恋人もそのあとすぐに僕から去っていった。
僕の心のケアばかりさせてしまったから申し訳ないとは思っている。
どうでもよくなって、生きている理由が分からなくて仕事もやめた。
ただ無気力にただ息を吸ってはいて何かを食べて、毎日を過ごしていた。
そんな僕にも好きなものがあった。
それが日本が誇る大女優。その演技力から『無色の女優』と呼ばれている。
どんな役をやっても、まるでその役の人物が本当に生きているように、毎回毎回別人のように演じる彼女に日本中がとりこになった。
僕もその中の一人だった。
バラエティ番組には一切出ず、ドラマの役を演じている彼女しか見たことがない。
それでも彼女の美しさに、多様さに圧倒され気づけば彼女が出ているドラマ、映画は欠かさず見るようになっていた。
そんな大女優が引退を発表したのはちょうど僕が彼女に振られた日と同じ日だった。
本当にどうでもよくなった。何もかも。
そして僕は昨日彼女の代表作の一つである『海の向こうへ』のロケ地である海が見える空き小屋へと向かった。
何か理由があったわけじゃない。
でも一つずつ僕は彼女が演じた場所を回ることにした。
その一つ目がたまたまあの空き小屋だった。
平日で辺鄙な場所ということもあり、人はいなかった。
僕は何を考えるでもなく空き小屋の前でただ立っていた。
そして彼女が目の前に現れた。
僕の目の前に、テレビの向こうの存在でしかなかった彼女が、気づくと僕の隣にただ佇んでいた。
夢か幻かと思っていた。
そう思っている間にいくつか会話を交わした。
何を話したかは覚えていない。
しかしその時の彼女に、妖美な雰囲気の中に確かに儚く消え入りそうな雰囲気が混じっているのを感じて、どうしてか親近感がわいた。
どうやら彼女は寝る場所もなければ泊まる場所すらないらしい。家をなくしたといっていた。
「私に一週間時間をくれない?」
静かに微笑みながらそう言った彼女になぜか僕はOKをしていた。
いつもの僕なら考えられないけれど、彼女にどこか似た空気を感じてしまったからだろうか。
そして彼女は言った。「何もない日常を味わってみたい」と。
だから僕はそれをこの一週間でできる限り叶えてあげたいと思う。
僕が大好きで日本中が大好きな大女優が今僕の家の中で、眠っている。
彼女は「明日何があっても驚かないでね」と一言そう言って眠りについた。
僕はどうにもその一言が気になってまだ眠れそうにない。
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