奏とホールケーキと その2
幸せな時間と桜並木に癒されながら、目的達成の為に一駅分を歩き続けること30分。お目当てのケーキ屋さんに到着した。
大変な日々をこなしながら、半年前から毎日コツコツ参考書と向き合っていた奏。
本日はその御褒美にと、約束していた「ホールケーキ丸ごと食べ放題!」のターゲットを、一緒に買いに出てきていたという訳だ。
店内は少し冷んやりしていて、歩き疲れて軽く汗を掻いた二人には丁度いい涼しさ。ショーウィンドーには、可愛らしいカットケーキやロールケーキが所狭しと並んでいる。
奏は『わぁ』と小声で喜びを素直に表現し、目をキラキラと輝かせていた。
『ひとさん、あのロールケーキが美味しそうだよ』
「大好きなチョコだな。ここ、ホールケーキもチョコなんだねぇ、どうしよ」
『んん…』
「この苺のやつとか美味しそうなんだよね。タルトやばいなフルーツ沢山だよ」
『んにゃ~』
「美味しそうなのが多すぎるもんね」
真剣に悩む一人と一匹。
時々猫語が飛び出す時は、悩んでいたり怒っていたり拒否しますの合図。今は、すこぶる機嫌は良いみたい。
残念ながら『コレだ!』と目に留まるホールケーキはなかったので、一目惚れしたロールケーキと選びきれないほど美味しそうなカットケーキとを、合わせて五千円分くらい購入することにした。
『ひとさん、そんなにいいの?』
「いいよ。約束だから」
キラキラしている顔を見てたら、ずっと見てたくて、財布の紐も緩むというものだ。
神かよ!レベルの0円スマイルを放つ店員さんから『ケーキは私が持ちます』と大事そうに受け取る奏。その抱えている表情は、今すぐ似顔絵師さんに描いてもらいたいくらい活き活きしている。
普段なら『私にお金を使うなー』と怒られるところだが、今日ばかりは心から幸せそうだ。
昨年のことだった・・・
奏は職場で正社員となり、監禁時間も大幅に増えたことで輪を掛けて大変そうに見えた。
プライベートも、学生時代からの友人に結婚の話題が舞い込み、式の裏方を任され、片っ端から同級生や担任だった先生に連絡を取ったり、忙しいながらも合い間を縫って地元へ足を運び、旧友たちと過ごして帰ってくる時間も自然と増えていた。
そんな結婚式も無事に終え、地元から帰ってきて数日が経っていたある日。
普段と変わらぬ日常を過ごし、普段と変わらぬ夕食後のコーヒータイム。ソファー代わりのセミダブルベッドに二人で腰を掛け、テレビに視線を送る。
『太るもん太るもん』と言いながら、目の前に出されたデザートは残さず『ごちそうさまでした』と綺麗にたいらげてしまう赤コーナーの王者メディキュット奏。
対する青コーナーの挑戦者は、某劇場の受付業務と舞台スタッフを生業としている僕。とある劇団で売れない舞台俳優をしていて、劇団が提携を結んでいるタレント事務所にも所属している。
奏とは出会って6年になり、その間、事務所から頂いた仕事は「ドラマや映画、CMなど映像の仕事」と言えば見栄えは良い。だが実際は「エキストラ俳優」といった肩書が存在するのならピッタリとそれに当てはまる。
下積みとはこんなもの。理解はしているが、そろそろ劇団を辞めようか、事務所を移ってみようか、それとも・・・と真剣に考え始めている難しい時期に突入していた。
カンッ!
マイケル・バッファーのリングアナウンスも終わり、試合開始のゴングが鳴り響いた。
メディキュットは前日の計量をパスした反動で、直前までスイーツを堪能していたのだろう。ごっつぁんです! と今にも聞こえてきそうな重たいフットワークで、明らかに動けないでいる。
この試合は頂きだと直感がそう言っていたが、相手は王者。油断は禁物。
ここはジャブで牽制しながら、焦らず少しずつ自分の距離を測っていく。
1R序盤は、お互いにゆっくりとした立ち上がり。軽くステップを踏む度に、リングが音を立てて弾み、グローブとグローブが軽く重なり合い会話する。実況アナウンサーと解説者の会話がよく聞こえるほど、観客席もまだ静かだった。
だが次の瞬間。長方形のリング上では、観客総立ちの凄まじいKO劇が、繰り広げられていた。
『来年の今頃にさぁ、結婚するか、友人関係になるか決めよう・・・』
意識を取り戻した僕は、眩しすぎるほどの照明を見上げていた。
死角から飛び込んできたレフェリーの顔。必死に呼び掛けられているようだ。微かに聞こえてくるゴングの音。少し遅れて視界に入ってくるセコンドたち。何を慌てているんだ、何が起こっているのか分からない。
完全に油断していた。そんなことを考えていたとは思いもしていなかったし、僕だけが順調だと思い込んでいた。奏の表情は見たこともないくらい沈んでいる。
数秒? 数分? 僕は平常心をすっかり失っていたので、どれくらいの時間が経っていたのかも分からない。
テレビの音を掻き消す程の沈黙だけが、1Kの小さな我が家を支配していた。
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