序章 その2

 どこの家庭にでもあるこの扉は、両側どちらからも、簡単な操作で軽い鍵が掛けられるようになっている。

 きっと簡単に壊れてしまいそうな鍵。いや扉自体が簡単に壊れてしまいそうではある。でも今のところ大丈夫。

 奏は、今日までこの鍵の存在に気付くことはなかった。万が一、何かのきっかけで開錠したとしても、お風呂場側からは、引かないと開かない形状の折り戸。引くという知識はないみたいだし、よほどの力で押し倒さない限り、開くことはない。

 ピィーーーーーーーーーー!

 やかんが悲鳴を上げている。


『ヴァアアアアア!』


 奏の嫌いな音だ。

 彼女の耳は、お湯が沸く少し前のわずかな音を聞き分ける。沸いた時の高音が嫌いだったせいもあって、まるで料理人が、一番ベストな焼き加減の音を聞き分けるかのように、いつも鳴る寸前に止めてくれていた。

「ごめん、奏」

 一緒に京都の清水寺まで足を運んで、帰りに五条坂で見付けた、お気に入りのコーヒーカップ。すりきり一杯ずつ、コーヒーの粉末と砂糖を入れてお湯を注ぎ、仕上げに牛乳を大さじ3杯ほど。毎日好んで飲んでくれていた、特製コーヒーの出来上がり。

「はい、入ったよ」

 折り戸の足元にコップを静かに置いて、換気用の隙間から、香りが入っていくように手で扇ぐ。

 なんとか香りだけでも楽しんで欲しかった。もう楽しむなんて感覚が、失われているであろうことは承知している。それでも、この毎朝のルーティーンは欠かさない。

 アクリル製の磨りガラス越しに、今朝も反応がないことを確認した僕は、朝食を作りに、再びキッチンへ体を反転させた。

 この時季になると必ず僕の身に起こる、温かい布団の中と冷え切った室内との温度差により、引き起こされる鼻水。

 何度も何度も鼻をすすりながら、熱々のコーヒーをすする。


『ひとさん、風邪ひいた?』

「ううん大丈夫」


 また、こんな何気ない会話を交わしたい・・・

 冷蔵庫の中は、ほぼ空っぽに近かった。残っていた2個の卵とハムを2切れ取り出し、カセットコンロにフライパンを置き、油をひいてハムを炒め始める。



 ・・・・・・

 どんなことに反応するんだろうか。

 視覚、聴覚、嗅覚は調べられるだけ調べ尽くした。

 電気を点けたり消したり、カメラのフラッシュを焚いたり、パンッパンッと手を叩いたり。

 奏が好きだったものも試してみた。

 コレサワの「あたしを彼女にしたいなら」を流したり、テレサ・テンの「時の流れに身をまかせ」を歌ったり、トマトクリームカレーを作ったり、味噌バターラーメンを作ったり・・・

 目をキラキラさせながらキュンキュンしていた大好きなテレビドラマや映画も、試せるだけ試した。よく口ずさんでいた曲を中心に、大好きな曲は流せるだけ流した。僕が歌えるレパートリーは歌えるだけ歌った。美味しいっと喜んでくれた料理だって、作れるだけ作ってみた・・・

 折り戸一枚を挟んで、シルエットしか確認できないけれど、毎日一日中観察を続けた手書きのノートが、もう20冊近く山積みになっている。

 座ったり、しゃがんだりすることはせず、終始立ったままであること。

 光をあてても反応しないこと。

 家の中や外から聞こえる少しくらいの音なら、反応しないこと。

 洗面所で話しかけたりすると、扉を叩いたり唸り声を上げること。

 扉を引いたり鍵を開けたり、細かい動作は出来ないこと。

 扉に体重を乗せて、押し倒すような素振りはないこと。

 食事を摂らなくても生存し続けられること。

 そして、コーヒーの香りにも反応しないこと・・・

 よいしょ。

「カチャカチャとごめんね。少しは、食べた気になれた?」

 洗面所に座り込み、サッと作った2人分のハムエッグをペロッと平らげた僕は、立ったと同時に、涙で潤み出した瞳に両手を当て、声をかけた。


 11月11日。

 僕が産まれた日。

 誰にでもある誕生日。

 毎年迎える誕生日。

 それから、ポッキーの日。

 僕は今、最愛の女性ひとを、監禁している。

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