君がゾンビになっても、愛してます以上の言葉を贈りたい。

大河 仁

序章

『ひとさん、忘れちゃうからなぁ』

「うん、覚えられないね。怒られるのも嫌だよ」

 小気味良いリズムが、トントントントンと聞こえてくるキッチン。

 今夜のサラダ用に胡瓜を輪切りしていると、後ろからかなでが優しく抱き着いて来て、邪魔にならない程度に話しかけてくる。

『いつだったら覚えられる? っつってんだ』

「お互いの誕生日とかは?」

『じゃあ・・・ ひとさんの誕生日だな』

「だな」

『ぼちぼちで大丈夫だからね』

 そう言うと奏は、パカッと、だが静かにゆっくりと下顎を下ろして、大きく口を開いた。

 僕の左肩にロックオンをしたその表情は、蛇が卵を丸呑みにする時のようで恐ろしい。そのまま、唇が触れるか触れないかくらいの距離まで近付き、獲物に息を吐きつけるように『ハァ』と音を立てて噛みつく。

 口寂しい時恒例の甘噛みタイム。

『ハムハムハムハム・・・』

「あぁ、そこ気持ち良いかも」

『ほんほ(本当)?』

「うん、右肩もやって」

 近年、結婚願望を強く抱き始めてきた奏が、初めて『結婚』を口に出したのが、この日。

 それ以降、誕生日を迎える度に、

「来年の今頃、仕事が軌道に乗っていたらね」

 と、話し合ってきた。

 いや、正確には逃げ続けてきたのだろう。

 それならばと「ホールケーキを御馳走することで一年延長する」という誓約を交わし、毎年我慢強く待ってくれている奏。

 自分の誕生日にケーキを御馳走とは、何やらおかしな話かもしれない。けれど「理想的な生計じゃないと彼女を幸せにしてやれない!」そう自分の中で決めていた僕は、ここ二年程、結婚を先延ばしし続けていた。

『ぼちぼち』

 そう言って、いつも焦らすまいとしてくれる優しい奏だったが、最近はそんな彼女から少しプレッシャーを感じるようにもなってきた。

『あ! ケーキに立てるポッキー買い忘れた!』

「一緒に買いに行く?」

『いいの?』

「いいよ」



 ・・・・・・

 ・・・またあの夢か。

 ゆっくりと瞼が開いた。最近よく見る夢。奏との思い出。それもハッキリと記憶にあるものが夢となって現れる。

「奏っ!」

 と叫んだ自分の声で目覚めることも頻繁にある。

 部屋の中は、うっすらと明るくなっていた。

 いつもと変わらない朝。いつもと変わらない天井。いつもと変わらないセミダブルベッド。夜中にこむら返りしたふくらはぎが張っていて痛いし、体の下敷きになっていた左腕が痺れている。どういう寝相なんだ。

 体を起こしてカーテンを開けると、スッキリとした秋晴れが広がっていた。

 ずっと布団にくるまっていたくなるほど、もうすっかり朝晩は冷える室内。グレーのパーカーを羽織り、そのまま台所へ向かい、やかんに水を入れてお湯を沸かす。

 奏が欲しがっていた電気式のステンレスケトルもあるけど、買ったまま、まだ箱の中で眠っている。

 洗面所で顔を洗っていると、奏が起きた。

「奏、おはよ」

『んん』

「今朝はよく眠れた?」

『んん』

「寒くなかった? 平気?」


 バンッ!


『んんんんぁぁ』

「ん、今朝も元気そうだね」

 洗面所とお風呂場の間にある折り戸を、奏の右手が叩いた。

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