あやしご
まぐろんばすぴす
あやしご
酷く寝苦しい夜でした。部屋に散漫する湿気が茨のように体にまとわりつき、籠る熱も相まって、まるで、地獄の大釜で煮込まれてるかのような錯覚を覚えたのです。
私は、寝苦しさから夜中に目を覚まし、水を飲みに下の階へと踏み出しました。ギシッ……ギシッ……と音を立てる廊下。まるでそれは、古くなった木々が人の重みに耐えられず呻いてるようにも感じられます。
一階へ降り立ちリビングのドアを開けようとしたところ、ドアの向こうから皮膚を激しく掻きむしるような音が聞こえます。こんな時間に誰が……とも思いましたが、一階では夫が仕事をしているはずなので、きっと、夫も水でも求めていたのでしょう。そう思いそっとドアを開けました。しかし、陰も形も見つけられず私は困惑するばかりでした。
仕方なしに水を飲み、部屋に戻ることにしました。冷蔵庫からミネラルウォーターのボトルを出しコップに注ぎます。トットットットッと小気味よい音が静かな室内に流れ込みます。
なみなみに注がれた水を喉に流し込むと乾いたスポンジがそうなるように、体全体に水が、命が行き渡ることを感じます。
流しにコップを置き、一息ついたところでまた先ほどのような掻きむしる音が聞こえてきました。間違いなくこのリビングには私一人しかいないはずなのに……そう思いながら振り返りました。
目に飛び込んできたのは赤ん坊の形をした何かです。何かと例えたのは、私達夫妻には子はなく、無論そのような人形も持っておらず『存在してはならぬ何か』なのです。
オレンジ色の灯りに照らされたその『赤ん坊』は動かず、音も立てず、ただじっと私の方を見つめているようでした。なんとなく目を逸らしてはいけない気がし、私もじっと見据えます。よく見ると『赤ん坊』の瞳は沖縄の海のような美しいエメラルドグリーンをしています。そしてそれは、私に何かを訴えかけているようにも思えました。
いつまでも目を開いているわけにもいかず、三度ほどパチクリと瞬きをしました。その刹那、『赤ん坊』が少し近くなったように感じました。目の錯覚だと自分に言い聞かせ私は『赤ん坊』の元へと歩き始めました。
気味が悪いので近づきたくないのが本音ですが、気味が悪いので片付けたかった、どこかに棄てたかったのです。ジリジリとにじみ寄る私を『赤ん坊』はその美しい緑色の目で見つめています。
残り一メートルほどまで近づいた頃でしょうか。突然、脳内に言葉が流れ込んでくるような感覚を覚えました。しかしそれは、言葉と呼ぶにはあまりに不規則で文章どころか文字としての体もなしていませんでした。
まるで不協和音のような単語の羅列はやがて渦となり、私の脳内で螺旋を描くようになり、形を作り出します。
「どうして」
最終的にその単語だけが形として残り、私の脳内を、いえ、私の頭蓋の中は空洞になりその言の葉だけが舞い落ちて堆積していくようでした。
私は体が重くなり、その場に膝をついてしまいました。頭を抱え蹲(うずくま)る私に再び聞こえてきた、掻きむしる音。目を開くと、私の眼前で『赤ん坊』が必死に首を掻きむしっていました。
その目は先ほどまでの美しいエメラルドグリーンから、ルビーのような赤色を携えていました。そして口を動かしはっきりと「どうして」と口にしたのです。
身の危険を感じた私はなんとか逃げようとしました。しかし彼の眼力に気圧されたのか、まったく体が動きません。そして、どこから取り出したのか、『赤ん坊』はその手に鉈を構えていました。
『赤ん坊』のサイズの割に大きな鉈はあまりに不釣り合いで不恰好、思わず少し笑ってしまいました。そして、今の状況に似た景色を以前にも体験したことを不意に思いだし、私は目を閉じました。
痛みを栄養にし、フローリングに美しい真っ赤なバラが咲いた瞬間、私の視界は冥い冥い海の底のように何も映さなくなりました。
どうして忘れていたのしょう。夫などとうにこの世にいなかったことを
どうして気づかなかったのでしょう。赤ん坊に夫の面影があったことを。
どうして……忘れていたのでしょう。私が……夫の首を切り落としたことを。
あやしご まぐろんばすぴす @masa-syousetsu
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます