2.雪と宿と行く先

 私、朝倉奏あさくらかなでは産まれて初めて家出をした。

 自分の家がただただ嫌で、家族か嫌で、自分が嫌で、感情のまま走った。

 気が付くと、駅の前にいた。このまま遠くに逃げてしまうのもありだろう。制服を着たままだから、財布はポケットに入っている。私はそのまま定期券を使って改札に入った。とりあえず学校の方面まで行って、どうしようか考えよう。そうして、すぐ来た時間の電車に乗った。

 大丈夫、なるようになる。私は他のことを考えないようにした。しかし、ダメだった。物事を深く考えてしまうのが私の悪いクセで、いつも先のことを考えてしまう。これからどうしよう。どうすれば私は自由になれるんだろう。

 すると、帰省ラッシュで混んでいる電車の中に、自分と同じ学校の制服を着た人を見つける。その直後、学校の最寄り駅に着いた。決めていたように、最寄り駅で降りる。すると、同じ制服の人も電車から降りた。どうやら男のようだ。私の目線は人混みで遮られていたので、男女の区別もつかなかった。


「ん? ……げっ」


 というか、クラスメートだった。


「朝倉さんよぉ……君の家はこっちと反対方向のはずですが?」

「なんであんたが私の家の方向知ってるの? キモッ」

「うっわ見かけただけなのに酷い言われ様……」


 この男は雪崩健斗なだれけんと。クラスでは完全に浮いていて、別に何かあった訳ではないが避けたり、はぶられたり、いらないちょっかいをかけたりされている。その度にこの男は眉にシワを寄せながら、しかし涼しい顔で受け流す。クラスから浮き始めたのは、友達がクラスに居なくて、さらに根も葉もない噂が流れ、皆がそれを信じ込んでいるのが原因だろうか。言ってしまえば私もその中の一人なのだが。


「そういうお前こそ、家が反対方向なのに何しに来てんだよ。もう十時だろうに」

「そ、それは……」


 こんな男に家出しているなんてばれたくない。しかし、適当な言い訳も見つからなかった。


「ま、どうせしょうもない理由で家出でもしたんだろ?」

「……しょうもないとか、言わないでくれる?」

「そいつは申し訳なかった。でも家出してんのは事実なんだろ?」

「うっ……」

「思いっきり図星じゃねぇか……」


 呆れたような表情をした後、雪崩は口を開く


「あー……オレの家にでも来るか? 親いねぇし、部屋は余ってるし」


 私はこの言葉に逆上した。というか、普通の女子なら誰でも逆上するのではないか。


「は? なんであんたの家になんて行かなきゃいけないの? マジ勘弁」

「親切心で言ったのに酷い言われ様……。はいはいだったらどこへでも行けよ。ここ結構治安悪いから、精々頑張れよ」


 こいつの言う通り、学校の一帯は何故か治安が悪い。こんな所に学校を建てるなと言いたい気持ちはあるが、治安が悪くなったのは既に学校が出来た後なのだから仕方ない。


「……誰も行かないとは言ってないでしょ?」


 そう、現状こいつについていくのが一番現実的なのだ。

「いやてのひら返すの早くね? ……まあ流石に見捨てる程腐ってないけどさ……」


 そう言って、渋々といった感じで雪崩は改札に向かった。その少し後ろを私は歩く。その後、家に着くまで一言も言葉を交わさなかった。


「ほら、上がれよ」


 家に着くと、鍵を開けて私を招いた。靴を脱ぐと「こっちだ」と二階に連れて来られる。

 そう言って連れて来られたのは、階段を上がってすぐ右の部屋だった。割と掃除は出来ている。


「この部屋好きに使って貰っていいから」


 そう言って、雪崩はタンスから布団を出す。


「絶対に他の部屋は見るなよ?」

「別に見ないけど」


 淡々と布団を引く雪崩を眺めながら、部屋を見渡していた。


「そういや、飯は食ったのか?」

「食べたわ。というかあんたのご飯なんか食べたくないし」

「いちいちカンに障る野郎だな……。その部屋内側から鍵かけられるから、出てこないでさっさと寝ろよ」

「言われなくても寝るに決まってるでしょ?」

「本当腹立つな……」


 そう言いながら、雪崩は力強く扉を閉めた。流石に言い過ぎただろうか。家出の直後でイライラしていたのかもしれない。

 特にやることもないので、そのまま布団に入る。疲れているのか、眠気はすぐやって来た。


「あいつ……結構優しいところあるんだ……」


 そんな独り言をこぼして、私は眠気に体を委ねたのだった。




 目が覚めたのは二時間後、日付が変わった直後だった。


「……うっわ、通知大変なことになってる」


 親からの着信履歴が三桁になっている。トーク通知の方も目を背けたいレベルだ。


「もう本当……この家族やだ……」


 結局鍵をかけなかった部屋を出た。なんとなく、一人は嫌。雪崩でもバカにしようと思い、あいつの部屋に向かおうとする。しかし、あいつの部屋がどこにあるのかわからなかった。仕方なく、片っ端から部屋をノックする。


「……あ? なんだよ?」


 あいつの部屋は、わたしがいた部屋から三つ隣の部屋だった。


「えっと……入るよ?」

「わざわざ鍵付きの部屋にしてやったのに自分から入ってくるとか……もう目も当てられないわ」


 部屋を開けると、ベットに座って雪崩がスケッチブックに鉛筆を走らせていた。


「何してるの?」

「寄るな、近づくな。お前みたいな奴には一番見られたくない」


 そう言ってスケッチブックを頑なに見せようとしない。


「……別に構わないけど」


 私は床に座って、雪崩が鉛筆を走らせている様子をずっと眺めていた。


「……なんで家出したの、お前」


 沈黙に耐えられなくなったのか、そもそもの原因を聞いてきた。


「それ、聞くの?」

「……別に。言いたくなかったら構わんが」


 こんな奴に言う言葉なんてない。だけど、何故か口は勝手に動いていた。


「……私の親はさ、私が産まれた時から、とある宗教にのめり込んでるの」


 宗教という言葉に、少しだけ驚いたような顔をした雪崩は、スケッチブックを起き、真剣に話を聞き始めた。


「お父さんに至っては教祖になるくらいのめり込んでてさ……正直呆れる。でさ、三年後くらいにまた新しく教祖を決めるイベントみたいなのがあるの。それに急に私を出すって言い始めてさ」


 それで飛び出してきた、と後から続ける。別に私は熱狂的な信者じゃない。というより、半強制的に入れられたようなものなのだ。それなのに無理矢理教祖になんてされて崇め奉られた日には、もう泣き寝入りするしかない。


「すまん、謝る」


 急に、雪崩が頭を下げた。


「何急に謝ってんの? ていうか、それは何に対する謝罪?」

「今までお前を見下していたことと、家出してきたお前に対してどうせくだらない理由って言ったこと」


 すまない、とまた頭を下げる。正直驚いた。こいつは素直に人に頭を下げるような男ではないと思っていたからだ。


「どうせお前みたいな人間は、適当に人生を生きていたんじゃないかとばかり思っていた。そいつは辛かっただろうな……」

「そんな急に優しくならないでくれる?」


 キモいんだけど、と続けた後に口を塞ぐ。関係のない話を黙って聞いてくれた上に謝りまでされたのに、また暴言を言ってしまった。こいつが言っているように、家内の悩み事があったとはいえ、それを覗けば今までの人生、私は適当に生きてきた。それをこの男は見透かしたのだ。


「……十六年。何の数字かわかるか?」


 唐突に話を切り出す雪崩に、私は戸惑いを隠せないでいた。


「えっと……あんたの年齢でしょ?」

「そうだな……。それと同時に、オレが救いを一度も受けたことのない年月だ」


 独り言だから、と言いながら雪崩は言葉を溢す。


「オレの家は荒れ方が酷くてな……。親父はアル中、お袋は浮気性だった。父親には殴られるし蹴られるし、母親はオレに新しい男を紹介するし……息子にあんなウキウキした顔で男紹介して何になるんだよ」


 そう言って、やけくそ気味にスケッチブックを放り投げた。


「見ての通り、小中学校でも友達なんていなかった。いじめなんかしょっちゅうあったさ。……それで、小学校を卒業する頃、親父がな、死んだんだよ」


 雪崩自身混乱しているのか、所々言葉に違和感を持ってしまう。でも何故だろう。全ての言葉に、重みがあるように感じた。


「飲酒運転で、川に落ちたんだって……笑えねぇ……本当笑えねぇ。オレの心と体を荒らすだけ荒らして、無責任に死にやがったんだよ」


 イライラのせいか、雪崩は貧乏揺すりをやめようとはしなかった。顔は、今まで一度も見たことがない、怒っているような、しかし悲しんでいるような、虚しい表情をしていた。


「それからお袋が体調を崩してな……飯はオレが作って、部屋に持っていく様になってた。だけどな……ある日、オレに何も言わず、いなくなったんだ」


 何があったか、語るまでもないだろ、と私の顔を覗きこんでくる。私はただただ俯いて、何とも言葉を返すことができなかった。


「気がついたら、親父の部屋を荒らしてたよ。タンスをぶちまけ、踏みつけてボロボロにして、中のシャツを破り捨てて、窓ガラスは割ってた。その流れで、お袋の部屋も荒らしに行った。……他の部屋に行くなって言ったのは、片付けてねぇからなんだよ」


 私はゾッとした。何故か背中が凍りつくような感覚に襲われた。「家の環境もクソッタレ、小中高とクソッタレ、どうしろっていうんだか」と雪崩は呟く。これに関しては、私の、いや私達のせいだ。


「その……ごめん」

「お前の言葉で言うなら、そんな急に優しくならないでくれる? キモいんだけど」


 まあ、そう言われるとは思っていた。きっと同じ立場なら私も言うだろう。

 雪崩によってス放り投げられたケッチブックには、絵が描いてあった。素人の私にでもわかるような、芸術的なものだった。右上には太陽、左上には月が描かれ、真ん中には人と、天使とも悪魔とも見解出来ない何かが、ナイフを持っていた。周りには、緋色の水しぶきのようなものが飛び散っている。


「……上手だね」

「そうか? ここまで無価値で下手くそな絵をオレは見たことがないんだが」


 落ち着いてきたのか、雪崩は貧乏揺すりを止めていた。口では憎たらしいことを言ってはいるものの、やはり嬉しいと感じているのかもしれない。

「そう? 上手いって言われたことないの?」

「いやまぁ……あったっちゃあったさ。別に上手いもんでもないと思うけどなぁ……」


 でも、と彼は呟く。


「オレにとって、絵っていうのは全てなんだ。嬉しい時も悲しい時も、暇でやることがない、勉強の息抜き、生きてきた唯一の理由で誇れるもの……そして、勉強も出来なくて運動も出来ない、たった独りで生きていくには広大すぎるこんなクソッタレな世界で戦うことができる唯一の武器……。それが、オレにとっての絵」


 言い終わると、雪崩は少し恥ずかしそうにしながら、何故か申し訳なさそうに私を手招きした。


「どうせなら、もっと絵を見てくれないか? 今まで自慢する相手もいなかったんだ」


 私自身も、雪崩と色んな話をしたからかもう少し雪崩のことを知りたいと思っていた。


「うん、いいよ」


 私は雪崩の隣に腰掛ける。雪崩はスケッチブックをめくりながら、これは自分の中で一番自身のある絵、親父がいなくなった時に描いた絵、生まれて初めて恋をした時に描いたのはこの絵だったっけ、と語ってくれた。私は今の時間が楽しくて仕方なかった。どの絵も生き生きしていて、今にも動き出しそうな、そんなものばかりだった。

 でも、だとしたら何故私はこいつを遠ざけていたのだろうか。周りがそうしていたから、レッテルを張っていた、理由は色々あるだろう。でも、多分、悪いのは私で、私達なんだ。

 すると、今までテンポよくスケッチブックをめくっていた手が、急に止まった。


「……だいたいこの絵を描いた頃からか、自分の絵に自信が持てなくなったんだ」


 再び悲しそうな表情をした雪崩を、私はのぞき込む。


「ストレスのせいか、上手く絵も描けなくて……好きだったはずの絵が段々と苦痛になってきたんだ」


 スケッチブックをペラペラとめくり、一番最初に私が見た絵までページを戻す


「これさ、自殺の絵なんだ」


雪崩はその絵を破り捨てた。私にはそれがまるで自分と憎くて仕方ないような人と縁を切るように見えた。


「近々、オレは自殺する」

「え? どうして……?」


 自殺する、と言われたら誰もがする反応だろう。


「……あの親の血が流れてるオレが生きてるのは許せないんだ。オレは、生きていていい人間じゃない」


 そんなことはない。私は否定したかった。しかし出来なかった。そういう立場だからだ。


「さて……別にお前はそこまで追い詰められている訳じゃない。加減によっては、いくらでも明るい未来があるんじゃないか?」


 お前はどうする、と雪崩は問いかけてくる。私は、どの答えを選べば正解なのだろうか。そして、あの時、その答えを選べば正解だったのだろうか。正しい答えは、きっと彼も私も、誰もわからないことなのかもしれない。


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