第6章:初授業
第97話:意識を奪う初登校
目覚めはだいぶ快適だった。
顔を洗おうと自分のスペースを出たら、ちょうど洗面台のところにサリアが立っていた。
私が起きたことには気づかず、何やら真剣な表情で鏡に映る自分の顔を見つめている。
(……あいさつの、チャンス)
眠っていた身体に、急速に熱い血が巡っていく。
深く息を吸い込んで、サリアに向かって一歩踏み出す。
「おっ……」
はよう、と言葉は続かなかった。
私があいさつを口にする寸前で、サリアがこちらに振り向いたのだ。
「……ッ!」
サリアは私の顔を見るなり、なぜかものすごく恥ずかしそうな表情で、自分のスペースに引っ込んでいった。
「……はよう」
行き場のなくなった言葉の尻をぼそっと呟き、私は洗面台の前に立つ。
サリアのものらしき美容品が置いてあるが、何に使うのか分からないから触れないでおく。
「……うん」
気を取り直して顔を洗い、私は相変わらず良すぎる顔を見つめる。
今日から授業が始まるから、本格的にリリスでの生活が幕を開けるのだ。
校舎に行けば、他の寮生や先輩たち、講師陣からすごい視線の圧を受けることだろう。
心が折れそうになるに違いないけれど、私には友達がいる。
「とにかく、今日を、がんばろう」
一日耐えれば、次の日はみんなも、私も、少しは環境に慣れるはずだ。
そういう日々が積み重なって、きっと五年間耐えられる。
私はグッと拳を握って気合いを入れると、魔力制御のルーティーンをしに、自分のスペースへ帰るのだった。
「いいお天気になりましたね!」
寮を出てすぐ、ソフィアが嬉しそうに空を見上げた。
その手には教科書などが入ったレザーバッグが握られ、腰には杖と、あのゴツイナイフが下げられている。
「春らしくて素敵ですわね。みなさん、昨夜は眠れましたか?」
すっきりした表情のセシリアの金髪が、陽光を浴びてキラキラと輝く。
その手にはソフィアと同じくレザーバックを持っているが、明らかに伝統を感じさせる重厚な造りで、公爵家の紋章まで刻まれている。
「夜にいっぱい食べたからぐっすりだったよ~。おかげで朝は、シリアル二杯しか食べられなかったなぁ~」
「ミーシャの一杯はうちらの二杯やろが! あんな山盛りでよく言うわ!」
ミーシャとカーラも相変わらず元気で、十分眠れたように見える。
動きやすさを重視してか、二人とも手持ち鞄ではなくバックパックだ。
「うぇ~、あたしは普通に寝不足なんだけどぉ! リリスのベッド、寝心地良すぎて逆に無理!」
同じくバックパックのアルサは、腰のあたりをさすりながら「ルシアも寝心地悪くなかった?」と下層階級仲間の私に尋ねてくる。
「別に。私は、どこでも、眠れるから」
しかし残念ながら、私は下層階級ではあっても元冒険者。
硬かろうが、柔らかかろうが、横になれれば問題はない。
最悪、立ったままでも眠れなくもない。
ちなみに私は空間拡張された収納鞄に全部入れてきたため、手には何も持っていない。
「そりゃそっか~、試験で寝てたくらいだもんねぇ!」
からからと笑うアルサに、ソフィアが「ルシア様は寝てたのではなく、術式を練っていたんです!」と謎の抗議をする。
「いやいや、絶対寝てたって! しかも、昼食後も寝てたし! やっぱたくさん寝るからルシアの肌ってこんなツヤツヤなのかな~!」
アルサが私の頬っぺたをするりと触って、「やべぇ~!」と叫ぶ。
「アルサさん! いきなりお顔を触るなんて、ルシア様に失礼ですよ!」
「え~、こんなのスキンシップじゃん! ルシアもいいよね?」
「……別に」
ベタベタ触られまくるのはイヤだけど、ちょっと頬っぺたにタッチされるくらいならいい。
そういうつもりで答えたら、一気に三人分の手が伸びてきた。
「はぅ~、ルシア様のもち肌!」
「朝からこれはやる気出るわぁ!」
「至福だねぇ~」
ぷにぷに、もちもち、ぺたぺた。
そこにアルサも加わって、私は顔面をもみくちゃにされる。
「みなさん! 公共の場でリリス生の自覚が足りませんわよ! そういうのはせめて寮内でおやりなさい!」
ぴしゃっとセシリアに叱られて、四人は「はーい……」と私から離れていった。
「……セシリアも、触っとく?」
「わ、わたくしは遠慮しておきますわ!」
明らかに触りたそうだけど、理性が勝ったらしい。
そんな感じで朝からわちゃわちゃしながら、私たちは混沌街を抜けていく。
この辺りには研究室の他に、ラ・ピュセルの住み込みメイドさんたちの居住区や、研究生の居住区、彼女ら向けのお店もある。
「おっ、もう開いとる喫茶あるやん! 何か買ってくか?」
「さっき朝食を食べたばかりでしょう……」
「んなもん別腹や! ミーシャ、行くで!」
「おう~!」
「あたしも行く!」
駆け出していくカーラ、ミーシャ、アルサの三人を、セシリアが呆れたような顔で見る。
「初登校で買い食いだなんて……」
「貴族的にはあり得ませんが、庶民の間では普通らしいですよ。何でも、教室についてから食べながらおしゃべりをするのだとか……」
「教室は勉強をするところでは?」
「どうやら朝と、授業間の十五分は飲食自由のようなのです」
「そんなことが……知りませんでしたわ」
おそらく師匠にリリスの知識を教わったのだろう。
ソフィアはセシリアを宥めつつ、「紅梅館の喫茶店で朝のお茶をするのもいいかもしれませんね」と貴族的な妥協案を出す。
その間私は、周囲の建物からの視線を受けて、何とも居心地の悪い想いをしていた。
(この辺は、居住区だから……新入生に、興味津々だな……)
カーテンこそ引かれているが、窓の向こうでメイドさんたちが新入生を品定めしている気配は、最初からずっと伝わってきていた。
そんな彼女らの目線は、私が登場した瞬間に一つに収束し、いまだピクリとも動かない。
(とにかく、慣れだ……)
これも修行と考えて、私は三人が戻って来るまで微動だにせず耐え続けた。
混沌街を出ると、いよいよ学生たちの姿が目立ち始める。
特に、初日は余裕をもって登校したい一年生が多い。
みんな、これから始まるリリス生活への期待と不安を表情ににじませ、控えめな声でおしゃべりをしているのだが……。
「やっぱり、こうなるか……」
私の顔を見た瞬間、ピタッとおしゃべりは止み、歩みすらも止まってしまった。
先輩たちが私に向けていた欲望の入り混じる視線とはまた違う、私のことを天上人だと畏怖する特別な視線があちこちから飛んでくる。
同じ一年生なのに特別扱いされるのは、格段に居心地が悪い。
「……って、ヤバっ!」
凍り付いた空気の中、私の顔に耐性のない他寮生が次々と意識を失っていく。
ある者は腰が抜けてその場に崩れ落ち、ある者はゆらっと揺れて倒れ、ある者は白目を剥いてひっくり返り――。
(――あのままじゃケガする!)
私が慌てて魔術を発動しようとした時。
「"風舞"」
「"水流手"」
「"土壁"」
あちこちから魔術が飛んできて、魔女見習いたちを優しく受け止めた。
「……助かった」
見れば、ソレイユ・カレッジの先輩たちが、私の背後に距離を取ってついてきていた。
きっと寮長に頼まれていたのだろう、おかげで初日から顔面良すぎるせいで傷害罪にならないで済んだ。
それに、こんな大量の生徒を一人で助けるとなったら、一年生にしてはあり得ない魔術を使ってしまう所だった。
「ありがと、ございます」
二つの意味で礼を述べると、先輩たちが一斉に胸を押さえて苦しそうな顔をする。
「き、気にしないで、早く行って!」
一人の先輩が鼻血を垂らしながらニコリと微笑むと、他の先輩たちも「ここは任せて先に行って!」と命がけの場面みたいなことを言う。
良すぎる顔面でこれ以上犠牲者を出さないためにも、私は頷いてみんなと再び歩き出す。
「ルシアさんのお顔、改めて凶器ですわね……あれだけの魔女見習いを一網打尽だなんて」
ドタバタ騒ぎをしり目に、セシリアが微笑を浮かべながら肩を竦める。
私の顔の良さを畏怖して崇めるんじゃなくて、良すぎて呆れますわっていう感じの親し気な言い方。
「今からでも、ボクだって気絶できるよ~」
「うちもやで! この顔面伝説神話国宝っ!」
ミーシャとカーラもセシリアのノリに付き合って、私の背中やら肩やらを小突いてくる。
「……気絶は、しないで」
普段なら抵抗するところだけど、私はされるがままになる。
三人がこうやって、「ルシアは顔が良すぎるだけで、普通に付き合える相手なんだぞ!」って、周囲にアピールしてくれるのが嬉しいから。
「やっぱりルシアの顔で閲覧料取ったら儲かるって!」
「それは私が許しません!」
「ソフィアはルシアの何なのさ~!」
「永遠の愛の担い手です!」
「意味不明~!」
そんな私たちの隣で、アルサとソフィアも内容のないやり取りで盛り上がる。
その結果、私の顔に圧倒されて静まり返っていた通学路に、ひそひそ話ではあるけれどざわめきが帰って来る。
「……みんな、過保護」
顔が良すぎるだけで、私だって普通の新入生にすぎない。
そのことを自然にアピールしてくれる友人たちの心遣いが嬉しくて、私の頬は自然と緩む。
「あっ、あちらにもリリス・ムーン様の像がありますよ! 祈っていきましょう!」
そこで、ソフィアがリリス・ムーン像を見つけた。
紅梅館の北東、足下の道が灰色から白色へと変わってすぐに、その場所は位置していた。
「ここは紅梅館の鬼門の方角ですわね」
リリス・ムーン像の前に立ちつつ、セシリアが言う。
「鬼門ってなに?」
「東洋の思想で、悪いものが来る方向のことだそうです。ルームメイトのツバキ・ウエスギさんが教えてくださいました」
「へぇ~、面白い考え方だね! あたしは方角なんて気にしたことなかったよ!」
アルサが感心したように頷き、「今日も守ってくれてありがとうございます!」とリリス・ムーン像に手を合わせる。
(鬼門、か……東洋思想も、面白そうだな……)
師匠と旅をしていたおかげで、私は周辺国の思想や習慣はだいたい理解している。
しかし、海や山脈を隔てた東洋の思想には、ほとんど触れたことがない。
私一人でツバキ・ウエスギと会話するのは絶対無理だけど、セシリアを挟めば色々話を聞けそうだ。
(っていうか、まだ一日なのに、ルームメイトと『鬼門』とかの話ができるって、すごい……)
サリアのツンツンな態度を思い出し、私はため息をつく。
「あれぇ~、ルシアちゃん、悩みごと~?」
隣で手を合わせていたミーシャが、パチッと目を開けて小声で尋ねてくる。
私たち二人はあまり信仰熱心じゃないから、他の四人よりやや後ろに陣取っていた。
「別に……ミーシャは、ルームメイトと、何か話した?」
私もまた、熱心に祈っている友人たちを邪魔しないよう、小声で返す。
「ぼちぼちね~。お互いの氏族の習慣とかをすり合わせたって感じだよ~」
獣人族は氏族ごとに様々なルールがあり、生活の細かなところに関わってくる。
事前にお互いの決まりを知っておかないと、問題になることもあるんだろう。
「ふぅん……」
「その様子だと、ルシアちゃんはまだ上手く話せてなさそうだねぇ~。まあ、顔が良すぎると相手も困っちゃうんだろうけど~」
ミーシャの察しの良さに、私はちょっとびっくりする。
「……どうしたら、いいかな?」
「仲良くなるには? う~ん、諦めないことかなぁ~」
ミーシャはそう言って、祈るカーラの背中に目をやる。
「根気強く話しかければ、そのうち答えてくれるよぉ。ルシアちゃんには、難しいかもしれないけど~」
確かに、私からしたら一回話しかけるだけでも命がけってくらい難しい。
それを何回もめげずにやるなんて、S級クエスト以上の難易度だ。
「やって、みる」
でも、それくらいしなくちゃサリアの壁は砕けない気もしている。
「おぉ~、がんばれぇ~」
ミーシャはちょっと驚いたって表情をしてから笑い、手を握って親指をグッと立てた。
私も同じように握り拳を作って、親指をグッと立てる。
そして、二人で親指同士をくっつけて押し込んでからパッと離した。
「それ、獣人族の誓いやないか! なんの話してたんよ!」
祈りを終えたカーラたちが、振り返ってわらわらとやって来る。
「そりゃあ秘密だよ~。ねっ、ルシアちゃん?」
「うん……秘密」
ミーシャのウィンクに、私はこくんと頷いて返す。
「そんなん言われたら逆に気になるやないか!」
「そうです! ルシア様、私とも親指をくっつけましょう! いいえ、親指と言わず全指を!」
「面白そうだからあたしもやりたい!」
「わ、わたくしも興味がありますわ!」
「え~、どうしよっかな~?」
「秘密は、秘密」
私とミーシャは身を翻し、迫ってくる四人から逃げるように、紅梅館へと向かうのだった。
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