第18話:師匠の庭はどこかヘン……
馬車は、現れた緑の壁に沿って十五分ほど走った。
やがて、壁の切れ目に鉄柵の門が現れる。
「ここにもスペードとイバラの紋章があるのですね」
門には他にいくつかの女神の意匠が施されており、上部のアーチには『傷なき者のみがこの扉をくぐる』という言葉が、「セストラル語」で刻まれている。
このセストラル語は、現在世界で最も話者の多い言語であり、ラ・ピュセルにおいては基本的にはセストラル語が第一公用語となっている。
「……師匠に会うのは三年ぶりか。少しは丸くなっているといいけど」
私たちの乗った馬車が近づくと、巨大な門が音もなく開いていく。
敷地内に入る瞬間、何かの魔術が私たちの腰の辺りを探るように働くが、特に妨害はされない。
ソフィアは魔術の存在にすら気が付いていないようだ。
「これがシスレー様のおうち……」
門をくぐった先に広がっているのは、夕陽に照らされて幻想的に光り輝く広大な庭だった。
あちこちで枝を広げている木々は青々とした葉をつけており、その足元には澄んだ小川が流れていたり、ベンチが置かれていたりする。
いくつかある道具小屋の壁はびっしりと蔦に覆われていて、四角い緑の箱の中でガラス窓だけがキラリと光っている。
お茶会用のガゼボや休憩用の小屋などにも蔦は繁殖しており、中には紫の花をつけているものもある。
まさに薬草学の大家である師匠の家らしい、緑あふれる豪邸だ。
「なんだか、サルビア連合共和国南部の貴族別荘のような作りをしてますね」
「師匠はあれでも貴族の傍流だから、実家を模したのかもしれないね」
お屋敷の前には大きな白い噴水があり、石畳はそれを囲うように敷かれている。
馬車はその噴水を時計回りに迂回して、玄関前で静かに止まった。
本宅は正面から見ると、三階建てのどっしりとした正方形の箱に、三角形の四階部分が乗っかっているように見える。
四階部分の正面は少し出っ張っていて、それを等間隔に並んだ大理石の円柱が支えている。
壁には緑の蔦が縦横無尽に這っており、魔術灯がなかったら見捨てられた廃墟のようにすら見える。
石畳から玄関口までは横幅の広い階段が十段ほど伸びており、左右の隅には獣を模した彫刻が置かれていた。
「さあ、行こう」
「はい、ルシア様」
グリフォンから降りた時と同じように、私はソフィアをエスコートして馬車を降りる。
夕暮れの穏やかな風が、甘い花の香りを運んでくる。
「……この庭、何か妙な感じがします。ルシア様は感じませんか?」
階段を上っていく途中で、ソフィアがそう言って庭を振り返った。
「魔術の気配は感じないけど……」
私も立ち止まって辺りを見渡すが、脅威になりそうなものは見つからない。
何かしらの魔術が使われている気配もないし、その予兆も感じ取れない。
「あっ……私、分かりました」
ちょっとして、ソフィアがポンと手を打つ。
「なに?」
「このお庭、こんなに広くて草木が生い茂っているのに、鳥も虫もいないんです……」
「言われてみれば……」
緑の壁に覆われた敷地内には小川があるし、本宅の向こうには木々の生い茂る深い森や家庭菜園の小屋も見えている。
花壇には無数の花が咲いているし、赤々と実をつけている樹木もいくつもある。
ここは無数の命を育むことのできる理想的な環境のはず。
それなのに、この庭に満ちているのは怖いくらいの静けさだけだ。
「不気味、の一言だね……いや、あるいはこれも魔術なのかもしれないけれど」
「どんな魔術なのですか?」
「推測でしかないけど、おそらくは――」
――ギィィィ
私が考えを述べようとした瞬間、背後から扉の開く音がした。
弾かれたようにそちらに目を向けると、扉の向こうに深紅色のローブを身にまとった美しい女性が立っていた。
艶のある長い赤髪は腰に達するほど長く、憂いを湛えた瞳は長い睫毛の奥でひっそりと細められている。
豊かな胸の膨らみとくびれたウェスト、肉感溢れる腰回りからすらりと伸びた脚。
誰もが憧れるバツグンのスタイルは、三年前から何も変わっていない。
「……久しぶり、師匠」
私は仮面を外すと、胸に手を当ててその場で軽く礼をする。
隣のソフィアもそれを真似て、胸に手を当てて頭を下げる。
「ますます綺麗になったわねぇ、私の可愛いルシアちゃん」
ラ・ピュセルが誇る七賢者、"沈香"シスレー・アグル・ヴァージニアはそう言って微笑んだ。
ねっとりとした声は蠱惑的で、普通にしゃべっているはずなのに耳元で囁かれているように聞こえる。
「……その子が件のお嬢さんね?」
「っ……はい、シスレー様」
師匠に見つめられたソフィアは一瞬ビクッとなったが、落ち着いた声で返答をする。
「私はソフィアと申します。ルシア様に命を救われ、そのご好意によってここまで連れてきて頂きました」
「そうなのねぇ、あのルシアちゃんが人助けなんて、感動しちゃうわぁ……」
「……師匠、いつまで立ち話させるつもり?」
よよよ、と泣き真似をする師匠に、私は容赦なくツッコむ。
「あらいけない……二人とも入って入って」
師匠はパタパタと身をひるがえすと、笑顔で私たちを手招きをした。
「ようこそ、私の"百花の館"へ。歓迎するわ、可愛い二人の旅人さん」
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