ひきこさん

増田朋美

ひきこさん

今日も、外は寒くて、ストーブが恋しくなる日だった。製鉄所の利用者たちは、ストーブの上に、水穂さんの大好物である芋切り干しをおいて、炙って食べようかなんて、そんな会話をして、いつもどおりの、日々を過ごそうとしていたのであるが。

「きゃあ!」

と、いきなり大きな声がした。

水穂さんが、

「また彼女ですかね。」

と言った。確かに、何人か、精神的に問題がある利用者がいるが、その中でも特に、状態の悪い利用者がいた。理由はどこにあるかわからないけど、時々、何か思い出しては、大声をあげて叫ぶのだ。これでは、誰も芋切り干しを食べようなんていう気は起こらなくなるものだ。水穂さんが、よろよろと布団から立ち上がって、食堂に行った。すると、一人の女性利用者が、勉強していた本を放り投げて、水穂さんにこういう事を言った。

「水穂さん。助けてください。ひきこさんが出たんです。ひきこさんに顔を見られたら、今度は私が襲われるんです!」

女性は、そういうのであるが、どこにもひきこさんという人物はいない。

「どこにいるんですか。そのひきこさんは。」

水穂さんが、そうきくと、

「あ、あそこに!中庭の、イタリアカサマツのところです。」

と、彼女は言った。

「ひきこさんは、子供を連れて、イタリアカサマツの下に立っています。白い着物を着て、あたしの事じっと見てる。」

そう言われて、水穂さんは、そこを見たが、それは石灯籠で、人が立っているということはなかった。

「誰もいませんよ。あそこにあるのは、石灯籠です。」

水穂さんはそう言うが、

「だから、その石灯籠は、時々、ひきこさんに姿を変えるんです。ひきこさんは、いつでもどこでも好きなように私を狙ってるから!」

と、彼女は言うのだった。他の利用者も、ああ、正代さんは可哀想だなという顔でそれを見ていた。彼女、つまり中村正代さんには、ひきこさんが見えているのだから、本人見えていないと納得してくれなければ、それを曲げることはできないのだった。

「あの、ひきこさんが、次は私を狙おうって、見てるんです。ひきこさんは、そうやって、恨みがある人間を捕まえて、引きずり回して、人間の形をしなくなるまで、ずっとそうするんです。」

何かホラー映画でも見て、そういう事になってしまったのだろうか。現代は、ものすごく映像作品が、はびこっていてみんなが楽しめる様になっているのであるが、時々、こういうふうに精神がおかしくなってしまうきっかけになってしまうこともあるから、あまり映像ばかり流し続けるのも、どうなのかなと思わざるを得なかった。

「大丈夫ですよ。ひきこさんは、弱い立場の人は襲いませんから。」

水穂さんは、そう言うが、疲れてしまったらしく、えらく咳き込んでしまうのだった。水穂さんは、咳き込むのがとまらなくなって、座り込んでしまった。

「ひきこさんは、水穂さんまで襲うつもりなんだわ。どうしよう!」

と、正代さんは、そう言っている。認識の障害というものもあるのだろう。そうやって、怖いと感じたり、嬉しいと感じたりするところが病む病気だから。人間は、目で見て、耳で聞いて、匂いを嗅いで、でで触って、味を感じて、というところ以外にも別のもので感じることがあるようなのだ。正代さんがかかってしまった病気というのは、その別のところが病んでしまうのだと思われた。

「またですか。本当に、こういう発作というんでしょうか。だんだんひきこさんが出たという確率が多くなってきてますね。中村さん、ひきこさんは、松の木の下にはいませんよ。それに、ひきこさんは、いじめられている人を襲うことはないって言うじゃありませんか。」

と、ジョチさんが、彼女の前にやってきてそういったのであるが、

「いえ、私は、いじめられてはおりません、だからひきこさんに襲われる可能性は十分あります。きっとひきこさんは、私を狙って、イタリアカサマツの前で待っているんじゃないでしょうか。私は、直接いじめられたわけではないし、むしろそれを黙ってみていただけなので!」

と、彼女は、そういうのであって、ジョチさんの話が通じないようだった。ジョチさんは、静かに隣の部屋に行き、もしもしと電話をかけ始めた。電話をしているのを、患者さんである人に、見せてしまったら行けないのだった。とにかくまずはじめに、彼女、まさえさんがひきこさんを見ているというのを受け入れなければならなかった。と同時に、水穂さんが、床の上に座ったまま、赤い液体を吐き出したので、他の利用者は、水穂さん大丈夫ですか、と声をかけた。こういう時、ひきこさんが出たと言って騒いでいる正代さんを、責めたり怒ったりする人がいないのが、製鉄所の利用者たちなのかもしれなかった。力持ちの女性利用者が水穂さんを背負って、部屋へ戻そうとすると、

「ひきこさんお願い、水穂さんを連れて行かないでください!」

と、正代さんが泣き叫ぶ。同時にジョチさんが入ってきて、リーダーらしく、

「今、影浦先生が来てくださいますからね。ひきこさんを退治してもらいましょうね。」

と、言った。数分後に、影浦千代吉先生がやってきて、患者は誰ですかと聞いた。ジョチさんが、彼女、中村正代さんですというと、影浦は、

「はじめまして、医師の影浦と申します。あなたの、お話を聞かせてもらうために、今日はこさせていただきました。ひきこさんは、鏡を見せると逃げていくそうですよ。」

影浦は、正代さんに、鎌倉彫の手鏡をもたせた。確かに、伝説上でも、ひきこさんは、自分の容姿が嫌いなので、鏡を見せると逃げてしまうとされていた。

「は、はい!」

正代さんは、鏡をイタリアカサマツの方へ向けた。そこにあるのは、ひきこさんではなく、石灯籠であるのだが。それを、他の人が見たら、何をやっているんだと思うかもしれない。でも、彼女には、間違いなくひきこさんが見えている。だから、それを否定しては行けないし、騙してしまっても行けない。まさえさんが向けた鏡で、光が反射されて石灯籠に、光が当たると、正代さんは、こういったのだった。

「ありがとうございます。ひきこさんは出ていきました。」

影浦は、彼女の腕をすぐ取って、注射を打った。いわゆる精神安定剤である。この注射は、数分で患者を落ち着かせることができる。

「良かったですね。じゃあ、ひきこさんが来ない、安全な場所に行きましょう。そこには鏡がありますから、ひきこさんも、あなたを襲う事はないですよ。」

「わかりました。」

彼女は、素直に影浦の話に従って、影浦と一緒に、あるき始めた。ジョチさんもそれに着いていくと言った。製鉄所の中には、おかしくなってしまった、正代さんを心配そうに見つめている利用者たちと、疲れ切って眠ってしまっている、水穂さんの声だけが残った。

小園さんが運転してくれるワゴン車に乗って、正代さんは影浦医院に向かった。影浦医院に到着すると、完全に薬が回ってしまったのか、正代さんは椅子に座って眠ってしまった。まあ、あれだけ普通の人以上に怖がったのだ。疲れて寝てしまうのも、仕方ないことだ。影浦は、力持ちの看護師を一人呼んで、彼女を、保護室まで連れて行くようにといった。

「状態が落ち着くまで、しばらく入院させます。ご家族には、理事長さんがご説明なさってください。」

と、影浦がジョチさんにいうと、

「わかりました。しかし何が彼女に起こったのでしょう。ひきこさんが出たと騒いでいましたが、あれは理由があると思います。理由もないのに、ああして騒ぐ事は、よほどのことがない限りないでしょう。」

と、ジョチさんが、聞いた。

「ええ。僕達もそれは気になるところです。なにかきっかけになるようなことがあったんだと思います。こういう精神疾患に掛かる人は、嘘は絶対にいいませんよ。事実を、そのとおりだと思うことができなくて、それを、自分で処理しなければならないから、自分の言葉で間違ったやり方で処理しているんです。それを是正させてあげるのが、僕達の役目だと思うんですね。」

影浦も、腕組みをしてそういう事を言った。

「ですが、それをするには、材料というか、彼女にまつわる情報が必要です。彼女は、どのような境遇で生活していたのでしょうか。知っていることだけでいいですから、教えて下さい。」

「そうですね。」

影浦に聞かれてジョチさんは、ちょっと考えながら言った。

「彼女は、一ヶ月前から、製鉄所を利用していましたが、たしかに、問題の多い方でした。普段から、ひきこさんが出ると、話していましたね。ひきこさんは、ホラー映画なんかによく出てきますが、なんでも、子供を連れて、道路を引きずり回し、死に至らしめる妖怪だそうです。昔は、有能な子供だった女性が、顔の傷が原因で怪物化したとか。それで、いじめにあっている人間は決して襲うことはないとも言われてますが。」

「ええ、それは知っています。ひきこさんを撃退する方法としては、ひきこさんは、顔にコンプレックスがあるようですから、鏡でそれを見せると、自分の顔に驚いて退散するともいいますよね。僕は、映画を見たわけではありませんが、ホラー映画が流行って、病院でも話題になったことがありましたので、それは覚えています。まずはじめに、彼女がなぜひきこさんを見るようになったか、を知りたいのですが、病気になる前の彼女の様子を教えて下さい。」

影浦は、医者らしく、しっかりといった。

「わかりました。彼女は、こちらを利用する前には、保育園で働いていたそうです。なんでも、子供の世話をするのが好きなので、保育士になりたいと思っていたと言っていました。それが、保育園で、他の保育士との人間関係に躓いて、それでおかしくなってしまったようで。始めは、皆が笑っているとか、その程度だったんですが、この二三日から、ひきこさんがでるというようになりました。それで、僕も非常に困っていたところだと思うのですが。」

ジョチさんが、影浦に説明すると、

「そうですか。保育士というと、立派な仕事のように見えますが、実は、たいへんすぎるくらい大変で、肝心の子供の世話ができないということは、よく言われますよね。彼女が、本当にやりたいことをできるような社会になってもらうのは、まだ難しいんだと思いますね。」

と、影浦も言った。

「とりあえず、症状が落ち着いたら、カウンセリングなどで、彼女に落ち着いてもらうようにさせます。そして、話がまともにできるようになったら、庭を散歩させてできるだけ早く、外へ戻れるようにさせましょう。」

「すみません。影浦先生。ご迷惑をかけてしまうと思いますが、彼女、中村正代さんのことを、よろしくおねがいします。」

ジョチさんは、申し訳無さそうに頭を下げると、

「わかりました。こういう患者さんは、誰にも手を差し伸べない、居場所をなくしてしまった寂しさ故に、妄想の世界に入ってしまったと思うので、僕達も、そこを気をつけながら、治療をしていきます。」

と、影浦はプロらしくにこやかに言った。こういう事は、餅は餅屋というべきなんだとジョチさんは思った。それでは、よろしくおねがいしますともう一度言って、ジョチさんは影浦医院をあとにした。彼女を入院させるに当たって、法的な手続きとか、そういう事を誰かがしなければならないのだ。

そうして、彼女、中村正代さんが入院して、数日たった。製鉄所では、のんびりと月日が経過していたのであるが、その日の午後、影浦先生が、製鉄所にやってきた。

「どうしたんですか。影浦先生。」

その日、水穂さんの話し相手をしていた杉ちゃんが、影浦先生に言った。

「いえ、ちょっと、困ったことがありまして。」

と、影浦先生がそう言うので、杉ちゃんとジョチさんは、彼を、応接室へ案内した。水穂さんは、眠ってしまっていて、反応しなかった。

「困ったことって、なにかありましたか?」

ジョチさんがそう言うと、

「ええ。彼女、中村正代さんのことです。相変わらず、ひきこさんが出ると言って、まだ、保護室の中なんです。二三日、長くて一週間程度で落ち着くかなと思ったんですけど、彼女はまだ、落ち着きを取り戻していません。それで、彼女が、病気になる前に、重大なことがなかったかどうか、ちょっとお話をお伺いさせてもらえないでしょうか?」

と、影浦先生は言った。

「重大なことって、例えばどんな事?」

と杉ちゃんが聞くと、

「ええ。大きな人生のターニングポイントがあったかどうか、です。例えば、ご両親が離婚されたとか、逆に近親者が死亡したとか、そういうことが、あったのかどうかですね。彼女の口から出すことは、まだ難しいと思いますから、理事長さんなら、なにかご存知なのではないかと思いましてね。」

と、影浦が聞いた。

「そうなんですか。僕達も、彼女の両親から、その話をお伺いしたいと思いましたが、彼女はご両親も健在ですし、ご親戚も多い家庭ですし、彼女の周りで問題が会ったとは思えません。なので、なぜ彼女がひきこさんのことを話題にするのか、僕達も、わからない状態でしてね。お役に立てなくて残念です。」

と、ジョチさんが言った。確かに彼女は、恵まれていない女性ではない。ちゃんとご両親もいるし、ご親戚もいる。経済的にだって、裕福な家庭である。

「でもね、やっぱりね。彼女には彼女の理由があるんじゃないかと思うんだよね。それがなければ、人間変なことは言わないと思うよ。事実がただ事実なんだって、考えることができないからこそ、そうなっちまうんじゃないかな。だから、彼女から、直接話しを聞くしか方法は無いと思うよ。」

と、杉ちゃんは、そういうのであるが、彼女が、ひきこさんのことを口にする理由がわからなかった。なんで、彼女はひきこさんのことを口にするのだろう。

「あの、揚げ足を取るようで申し訳ないですが。」

と、いつの間にか水穂さんがやってきていた。

「彼女が、家庭に恵まれているのなら、それ以外の場所で、なにかあったと考えるべきではないでしょうか。彼女が持っていた交友関係や職場の人間関係など、調べて見ないとわからないと思います。」

「そうだねえ。水穂さんの言うことはたしかにそうだ。だけど、お前さんはまだ寝てなくちゃだめだよ。」

杉ちゃんに言われて、水穂さんは、そうですねと言って、咳をしながら、部屋に戻っていった。

「そうですね。彼女が勤めていた保育園に行ってみましょうか。確か、富士市立の保育園だったのでは?」

「おう。確か、中野保育園というところだと思った。」

ジョチさんがそういうと、杉ちゃんはでかい声でいった。影浦先生もそうですねといい、三人は、小薗さんの車で、中野保育園に行ってみることにした。

中野保育園は、とても小さな保育園だった。最近は少子化で子供が少なくなっているというが、その割に、保育園の数は少ないから、どこの保育園も定員オーバーになっているという。確かに、その保育園も、小さな保育園の割に子供が多かった。園庭で子供が遊んでいるのだが、保育士の人数が少ないためか、保育士たちは、皆苛立って仕事をしているようである。

「すみません。僕は、こちらに勤めていた、中村正代さんの主治医で影浦と申します。彼女について、二三、伺いたいことがあるのですが。」

影浦は、保育園の事務室に行ってそう話してみた。受付係は、こちらへどうぞと言って、三人を、園長室へ通した。

「失礼いたします。あの、保育士の中村正代さんの事で伺います。正代さんは、こちらの保育園で働いていましたね。」

と、ジョチさんが聞くと、園長先生は、それがなにかという顔をした。

「中村さんは、保育士の仕事になにか問題があったとか、そういう事はありましたでしょうか?」

影浦が聞くと、

「いえ、とんでもございません。そのような事はありませんでした。彼女は、一生懸命、仕事をしてくれました。おんぶにだっこも拒否しないで、子どもたちの面倒を見ていました。」

と、園長は、にこやかに言った。

「それでは、中村正代さんの勤務態度に問題はなかったということですか?」

ジョチさんがまた聞くと、

「ええ。歌もうまいし、ピアノもうまくて、有能な保育士として、期待していたんですけど。でも、あんな病気になってしまって、残念なことでした。」

と、園長はしたり顔で答えた。

「しかし、彼女が、妄想を口にしたり、幻覚を見たりすることは、なにか理由があるのではないかと思うんですけどね。僕達は、治療をするに当たって、どうしてもそれを見つけたいと思うんですけど。」

影浦がそこまでいいかけると、

「そういうことなら、ほかを当たってください。この保育園で、問題が起きたとか、そういう事は、まずありません。うちの保育園は、ちゃんとやっていますよ。それは、私達のせいではありませんから。」

と、影浦の言葉を切って、園長先生は言った。影浦やジョチさんが、彼女の勤務態度とか、そういう事を聞き出そうと、あらゆる質問をしたが、答えは見つからなかった。園長先生は、何もうちの保育園では起きていないの一点張りだ。他の保育士から、事情を聞くのもやめてくれという。そんな押し問答をジョチさんたちが繰り広げている間、杉ちゃんは、子どもたちと一緒に、おはじきをして遊んでいた。子どもたちと目線が近いためか、それとも、杉ちゃんの態度が親しみやすいためなのか、よくわからないけど、子どもたちは、杉ちゃんを見て、おじさん遊ぼうよ、なんて言って、彼を、誘うのだ。

「おじさんは、絶対に、僕達のこと、バカにしたりしないよね。」

と、少し抜けた感じのある少年が杉ちゃんに言った。

「一体どうしたんだ?なにかあったか?」

杉ちゃんがそう言うと、

「あのね。桃子ちゃんが、あまりにも泣き続けるので、陽子先生が桃子ちゃんを、引っ張って、廊下で引きずって、外へ出したの。」

おませな感じの女の子が、そういった。

「それは誰か見ていたのか?」

杉ちゃんが聞くと、

「ううん、見てたのはあたしたちだけ。」

別の女の子がそういった。ははあなるほど。こういうことがあってひきこさんが、出てきたんだなと杉ちゃんは思った。

「桃子ちゃんはどうしているのかな?」

もう一度聞くと、

「もう他の保育園に行くって言ってたよ。目が見えなくなっちゃったんだ。」

と、最初の少年が言った。

「僕達、なんか悪いことをしたのかな。」

と、小さな少年がそう言うので、杉ちゃんは、

「大丈夫だ。それを我慢できない大人もいるからね。そういう大人を信じてあげようね。」

と言ってあげた。






  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

ひきこさん 増田朋美 @masubuchi4996

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る