042_memories.兄妹
妹の話をしよう。
俺には妹がいた。
8つも下の妹だから、兄弟喧嘩なんか成立しなかった。むしろ、保護者枠だ。
歳が近い妹がいる友人からは羨ましがられた。
特に年子の兄妹は、殴り合いの喧嘩をするそうだ。子供の頃は女子のほうが成長が早い。ほぼ互角の体格で殴り合う。だが、小さくとも女。形勢不利を感じた妹は父親に駆け寄りこう言うのだ。「兄ちゃんが、いじめるー!」。そして、拳骨を頭に落とされるのは兄貴のみ。妹は父親の背中でニヤリ。「女という生き物の本質を見た」とは友人の談だ。
それはそれで、仲の良い兄妹ではなかろうか、と思ったが当事者でない俺にはなんとも言えなかった。
保育園への送り迎えは俺の役目だった。
父ちゃんは漁師なので海の上だし、母ちゃんは普通に会社勤めだからだ。
おかげで小学生にして、赤ん坊の下の世話に慣れてしまった。
それでも子供の成長はびっくりするぐらい早く、3歳になる前からトイレに行き始めた。ただ、まだ一人でトイレに行くのは不安があったので、俺が付き添った。
俺はそこで、女性がトイレットペーパーを大量に消費する理由を知った。
ちょっとしたカルチャーショックだった。男はうまくやれば、一日一ミシン目で事足りてしまう。小ではそもそも使わないからだ。
女の子の成長は早いもので、3歳の誕生日を迎える前に、俺はトイレの付き添い任務を解任されてしまった。本人に「ついてこないで」と言われたからだ。
妹はすぐに生意気なことを言うようになり、おままごとの相手も演技指導が厳しくなった。
両親は妹のせいで俺が部活動をやっていないと思い込んでいたが、そんなことはない。むしろ、妹の送り迎えを言い訳にして、大手を振って帰宅部生活をエンジョイしていたのだ。
だらだらするのが大好きだった俺は、妹の世話はそんなに苦にならなかった。
ソファに寝転がって妹の相手を適当にしつつ、漫画やテレビをのんびりと見ていた。
俺が中学二年のころ、妹は小学校に上がった。
元気で小生意気な妹だったが、学年が上がるにつれて体が動かなくなっていった。
原因は、先天性の心臓疾患だった。
遺伝的なものだと言われた。父ちゃんの母ちゃん、祖母とも言うが、その人も同じ病気で苦しんだそうだ。俺が生まれる前に死んでいたので、会ったこともないのだが。父ちゃんも心臓に問題を抱えてはいたが、幸いにして重症化することはなかった。
両親は、ふんわりした雰囲気の母親と、すこし厳ついが結構イケメンな父親。
俺はどちらかと言えば、母親似だった。ふんわり系男子と言われてもあんまりうれしくなかったが、幸いにして遺伝疾患もふんわり回避できたようだ。
だが、妹は違った。どちらかと言えばキリっとした顔立ちで所々ふんわりしている。言ってしまえば、美少女だった。ただ、父親の血を色濃く受け継いだせいで、病気まで受け継いでしまったのだ。
満足に動かせない体を抱えながらも、妹はなんとか小学校を卒業した。
その頃の俺は、片道一時間をかけてバイクで大学通いだった。バイトもしており、理系の大学だったので、帰りはいつも夜だった。
そのせいで、妹とあまり話せていなかった。妹の苦しみに、気づけていなかった。
五体満足、思考も明瞭。ただ、身体だけがついてこない。
一階から二階に上がるだけで、息を切らせて苦しそうに喘ぐ。
つらいときは、仰向けに寝ることすらできない。壁に背中を預け、体を立てたまま寝るしかない。
やろうと思えば何でもできる。だが、本人の意思とは無関係に体があっという間に音を上げる。
悔しかったろう。ストレスを溜め込んでもいたろう。
なのに、何も知らない、理解しようともしないクラスメイトからはいじめられていた。
――サボリ魔、病弱かまってちゃん、お高くとまっている。
妹の見た目が拍車をかけたことは間違いない。
シャープな印象で整っているが、ふんわりとした愛嬌も併せ持つ顔。絹のように滑らかな漆黒の髪。ほっそりとした体躯に、病的に白い肌。
そして、日本人には珍しい
浮世離れした美少女と言ってもよかった。モデルをやらないかと何度も打診を受けていたそうだ。
いじめを主導していたのは、クラスの女子だった。
男子は目を逸らすことしかできなかった。そもそも、中学生男子が結託した女子に反旗を翻すことなど不可能だ。下手にからめば、自らが十字砲火の中心に置かれてしまうのだから。
そうして、嫉妬含みの心無い仕打ちに、妹の精神は削られていった。
妹には何の落ち度もないのに。ただ、生まれたときに、ハズレくじを引いてしまっただけなのに。綺麗な顔だって、両親からいいとこ取りでもらっただけなのに。
理不尽な有形無形の暴力に、妹は屈した。
不登校になってしまったのだ。
なんとか中学校は卒業できたが、高校には行けなかった。
勉強もさることながら、不定期に襲ってくる胸の痛みに日常生活すら辛くなっていたのだ。
当然のように、友達などいなかった。
妹は忘れた頃に襲ってくる胸の痛みに怯えながら、孤独に耐えていた。
両親はかさむ医療費を稼ぐために、仕事をやめるわけにはいかなかったのだ。
その頃の俺は、大学を卒業して東京の会社に就職していた。
実家は瀬戸内海の島だ。橋がつながって交通の便が良くなったとはいえ、片道800キロの物理的距離のせいで疎遠になってしまうのは仕方がなかった。
東京で独身貴族生活を謳歌していた俺に、父ちゃんから電話がかかってきた。妹の18歳の誕生日の一週間前だった。
「気の利いたプレゼントの一つぐらい贈ってやれ」
激しく後悔した。
俺は妹の苦しみを理解できる数少ない人間だったのに。一人で逃げ出していたのだと気づかされた。
妹の誕生日に、当時の最新式のVRヘッドセットとVRMMOのゲーム一式を贈った。
妹はたいそう喜んだ。
友達もおらず、一人で時間をつぶすために、ゲームはかなりやっていたようだった。それもかなりヘビーに。
ただ、VRゲームは興味があったものの、初期投資の高さから手が出せなかったようだ。
初めてのMMOということで、俺が一から十まで教えた。
ゲーム慣れしていた妹はすぐにコツを掴んだ。
ただ、他者とのかかわりあいは避けているようだった。
妹は酷く臆病になっていたのだ。
不定期に襲ってくる胸の痛みのせいで、パーティプレイを頑なに拒んでいた。迷惑をかけたくないと言って。
無邪気に笑っていた幼少の頃を思い出し、胸が痛んだ。
俺は妹と二人、仮想世界で遊んだ。
物理身体が伴わない仮の世界で、妹は走れることが嬉しいと言っていた。
少しだけ、笑顔が戻ってきた。
仮想世界に慣れてきた妹は、俺から独り立ちして別のゲームをやり始めた。
同じ時期、俺は『狂乱と閃光の
それから俺たちは、週に一度のペースで一緒に遊んでいた。
もっぱら妹がやっているゲームに、俺がお邪魔するかたちだったが。
妹は相変わらずパーティプレイをしていなかったが、生産職として他者と交流を持っていた。それが無性に嬉しかった。
一緒に遊ぶと言っても、妹の素材採集に付き合うぐらいだ。それでも、妹は楽しそうにフレンドが出来たと言って笑っていた。
ちなみに、妹はイケメンエルフの鍛冶屋だった。ドワーフじゃないのかよと突っ込んだが、生理的に無理と言われてはどうしようもない。
だが、時が経つにつれ、妹は胸の痛みに襲われる間隔が狭くなっていった。
一週間に一度が、数日に一度。そして、日に一度。
さらに、胸の痛みに比例するように、体を動かせなくなっていった。トイレに行くだけで息が上がってしまい、苦し気に胸を押さえるようになってしまったのだ。
痛みは精神を蝕む。
妹の心は静かに、だが確実に壊れていった。
不意な痛みに襲われて泣き叫び、暴れ、ついには自傷に走る。
そして、痛みが引いたころ、自分がやってしまったことに打ちひしがれるのだ。
四六時中痛み止めを飲むわけにもいかない。
だが、痛みだしてから飲んでも効くころには収まっている。
心臓移植希望リストに登録してはいたが、適合する心臓が出てくるのに何年かかるか分からない。
それに、医者には長くて3年、さらに症状が悪化すれば2年の命と言われてしまった。
妹の心は折れた。
悲しみに満ち、すべてに絶望し、生きることを諦めた目で言ったのだ。
「お兄ちゃん、私、もう生きていたくない」
安楽死を認める国はいくつかある。
だが、外国人の受け入れをしているのはスイスだけだ。
それも、認められているのは「自殺幇助」だ。自殺用の薬剤を投入するのは、自分で行わなければならない。
診断書に基づき、自殺幇助団体が審査。明確な意思を表明した人にだけ、措置が施されるのだ。
安楽死が認められる条件は、大きく二つ。
本人の強い希望と、回復の見込みがないこと。
妹は両方を満たしていた。
両親と俺は猛烈に反対した。
だが、妹は諦観に満ちた目で言ったのだ。
「痛みに耐え続けて、じわじわと死ぬだけの時間がとても怖い。だから、自分の心が砕け散る前に、人として死にたい」
結局、妹の意思は変わらなかった。
費用は全部俺が出した。車一台買うぐらいの金だ、どうということはない。
俺たち家族4人はスイスに渡り、最後の家族旅行を楽しんだ。
そして、あの白い部屋で、妹は俺に言ったのだ。
「私を、殺してね」
妹が旅立つ日。
俺は年配の医師と共に妹の部屋に入った。
両親は妹の最後のわがままで部屋には入らなかった。
死にゆく様を、両親にだけは見せたくないと言ったのだ。
親不孝を詫び、産み育ててくれたことを感謝して。
自殺用の薬剤が入った点滴針を左腕に刺した妹に、年配の医師が最後の説明をした。
点滴を止めているレバーを下ろせば、自殺用の薬剤が体に入ること。そして、自分が何をしようとしているのか理解しているのかを確認した。
妹は静かに頷き、理解していることを伝えた。
『先生、私これからとても恥ずかしいことをするので、しばらくこちらを見ないでくださいね』
流ちょうなドイツ語で妹は言った。俺も必死で覚えたので、妹が何と言ったのかは理解できた。
医師は微かな笑みを浮かべ、何も言わずに背を向けた。
その日、妹は痛み止めのモルヒネは打っていなかった。
モルヒネは痛覚を麻痺させるが、意識も混濁させてしまうからだ。
痛みに耐えているのだろう、額にはうっすらと汗が浮かんでいた。
妹は細く白い右手を俺の頬に当てた。
「お兄ちゃんは、ちゃんと生きてね」
俺は妹の手を握り返し、無言で頷くしかできなかった。
「ありがとう、お兄ちゃん。大好き」
「俺もだよ……」
儚げな笑みを浮かべた妹が言った。
「……約束、守って」
俺は震える手で、点滴のレバーを下ろした。
本当は俺がやってはいけないことだ。妹本人がやらなければいけなかったこと。それでも、これは妹との約束だった。
死をもたらす透明の液体が妹の体内に流れていった。
「キスして。私が死ぬまで、離したらダメ」
30秒ほどで、寝言のような吐息を漏らした妹は、深い眠りに落ちた。
そして、3分とたたないうちに心臓が止まった。
俺は目覚めない妹に何度も呼び掛けた。
まだ暖かい妹の手。だが、どれだけ握っても、握り返してはくれなかった。
俺は腰がくだけてその場に尻餅をついてしまった。
俺はなにか、とんでもない間違いを犯してしまったのではないか。
ほんとうに、これでよかったのか?
もっと何かできたんじゃないか?
もっと、もっと、何かが――。
後悔ともつかないとりとめのない考えがいくつも沸いてきては消えていった。
医師は何も言わず振り向いて、妹の瞳孔を見て聴診器を胸にあてて頷いた。
『彼女は、痛みのない世界に旅立ったよ。よく頑張ったね』
そう言って、床に座り込む俺の頭をそっと撫でてくれた。
俺の視界が涙で歪んだ。
「お前の結婚披露宴で……俺の手を小便まみれにした恥ずかしい過去を、暴露してやろうと思って、いたんだぞ……」
妹は安らかな寝顔のまま、何も言ってはくれなかった。
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