アルカデルトの神託
大橋 知誉
アルカデルトの神託
「荒川警部、三人目の被害者も生命に異常はありませんが意識不明の状態で発見されました。」
担当医から事前報告を受けながら、俺は被害者の病室へと向かっていた。
病室に入ると例の臭いがした。なんとも言えない生臭さだ。
手渡されたカルテにざっと目を通す。
吉崎のはら。23歳か…。これまでの被害者の中で一番若い。
この三人目の被害者が出てしまって、この事件が連続性を持っていることがほぼ確定された。
このところ、俺を悩ませているこの事件…。長いこと刑事をやっているがこんな奇妙な事件は初めだ。
被害者に共通する不気味な共通点…。それは顔面に機械とも生物とも判断できない正体不明なマスクが装着されていることだった。
暴走族が付けている悪そうなガスマスクのようにも見えるし、カニのお化けのようにも見える。
こいつはまるで古典SFに出てくる地球外生命みたいではないか。
何度見ても慣れない。ぞっとするほど気味が悪い。
「これは他の被害者にくっついているのと同じものか?」
「はい。レントゲンをとった限りでは全く同様の構造をしています。」
医師がカルテをめくってレントゲン写真を示したのでざっと確認をした。
確かに三つとも全く同じものに見える。
このマスクを調査するためには、レントゲンか外観を目視で確認するほかない。
こいつを傷つけたり剥がそうとしたりすると、首に巻きついている細い管のようなものが自動的に閉まるようになっており、うかつに手が出せないのだ。
よって、このマスクを構成している物質もわかっていない。人工物なのか否か…。
レントゲン検査の結果、面の内側から伸びている爪のようなものが脳まで達し、さらに口の部分からは管のようなものが伸びていて、その管は胃のあたりまで挿入されている様だった。
このマスクは外部からの刺激によって自動的に動くようだったが、レントゲンで見る限りでは動力源と思われるパーツも見つかっていないし、生命活動が認められた器官も見つかっていない。
つまり、これがどうやって動くのか、具体的に何をしているのか、現時点では皆目見当がつかない状態なのである。
これまでの被害者の間に怪しい繋がりは見つけることができなかったが、三人目の出現で共通点をもっと絞り込めるかもしれない。
「失礼します。」
病室のドアが空いて、若い男が入って来た。
「今日付けで配属になりました。元村良介です。」
そうだった。今日から新しい部下が来ると聞いていた。
初日でこんな事件の担当とはついてない奴だ。
「……う…ちょっとこれは…想像以上です…。」
元村良介は入って来るなり顔をしかめて後ずさった。
無理もない。
「刑事課ってこんなのも担当するんですか?」
元村良介が鼻を押さえながら言った。ここに被害者の家族がいなくてよかった。
「いや、俺もこんなのは初めてだ。事件性が認められ我々が担当している。」
俺は振り返って改めて元村良介を観察した。
観察してしまうのは、職業病だ。
元村良介はどこにでもいるような青年だった。
刑事にしては明るめの茶髪。色白で中性的。背はさほど高くない。
確か、少年時代に親族が次々に他界し、最終的には歳の離れた従兄の元に身を寄せたとか。
大学では犯罪心理学を専攻、認定心理士の資格も持っているとのことだった。
見た目よりは頭が切れる奴なのかもしれない。
相手もこちらを観察しているようだった。
いい反応だ。
きっと、50代にしては若い、体は鍛えているようだ、スーツのセンスはよい、などと思っていることだろう。
「事件の資料は読んで来たな。さっそくだが、被害者三名の共通点を洗い出してくれ。マスコミには感づかれるなよ。」
「了解です。その前に…少し被害者を見てもいいですか?」
「ああ、いいが、その変なやつには触るなよ。」
元村良介は頷いて被害者の横たわるベッドに近づいた。
そして被害者に触れないように注意しながらじっくりとマスクとその周辺を観察しているようだった。
様々な分野の専門家に見せて何もわからなかったのだ。こんな新米刑事が見ても何もわからんだろう。
しばらく観察すると、元村良介は被害者から離れて俺が立っている病室の入口までやってきた。
「何かわかったか?」
「いえ…何も…。」
そうだろうよ…と、じっと考え込むような表情をしている元村良介を見下ろしながら俺は思った。
俺たちは警察署に戻るとさっそく被害者の身辺をさぐる作業を始めた。
元村良介が資料を見ながらパソコンを開いて何か調べ始めたので、俺は被害者家族への聞き込みへ出かけることにした。
こういった捜査には女性が同席した方が相手が安心するので、配属三年目の三上佐代子を連れて行くことにした。
吉崎のはらの両親と姉は自宅にいるとのことだった。
被害者のあまりの状態にショックを受け、病院にはほとんど来ていないとのことだ。
自宅で我々を出迎えてくれた被害者家族は、ひとつひとつ丁寧に答えてくれたが、まるで生命力を感じられないほど憔悴しきっている様子だった。
どんよりとした家の中の雰囲気に、この俺も少々不気味さを感じたほどだった。
家族たちは、被害者に特に変わった様子はなかったと口々に言った。
まるでそれを強調するかのように何度もそう言った。
他の被害者の家族もだいたいこんな感じだったが、吉崎のはらの家族は特に閉鎖的な印象を受けた。
家族への事情徴収を終え、車に乗り込むと、三上佐代子がめずらしく、ふぅ~とため息をついた。
「どうした。」
「何だか疲れました。荒川警部は平気だったんですか? 少し奇妙な家族でしたね。」
「そうだな。」
「まるで感情がない…というか、抜け殻のように感じました。」
「家族にあれだけのことがあったのだ。」
「それにしても、ですよ。動揺や悲しみすら感じませんでした。からっぽという感じで…。」
三上佐代子はブルブルっと身体を震わせると、アクセルを踏み込み車を発車させた。
署に戻ると、調べ物をしていた元村良介がタブレット端末をヒラヒラさせながら嬉々とした表情で近寄って来た。
こいつはイヌッころみたいな奴だな…。さっきの家族と正反対だ…。
「何かわかったのか?」
「はい、荒川警部。僕は被害者三名のここ数年のSNSの投稿を洗ってみたんです。」
SNSの書き込みを洗い出すのは捜査の基本中の基本だ。
「一人目の被害者山田つむをがあまり投稿しないタイプで、これまでSNSからはヒントを得られていなかったようですが、今回の被害者は頻繁に投稿するタイプだったので、そこから三人の共通点が何となく見えてきました。」
「でかしたぞ。で、その共通点とは?」
「タイ料理です。」
「タイ料理ィ?」
俺はいささか呆れて元村良介を見返した。
「三人目の被害者 吉崎のはらがSNSに最後にアップしたのはタイ料理の写真でした。そこで一人目、二人目の被害者もその観点から見てみたところ…。二人目の香川たえこも、最後に投稿しているのタイ料理の写真だったんです。」
「なるほど。しかし、タイ料理の写真ではあまりに一般的すぎるな? 山田つむをはどうなんだ?」
「山田つむをはSNSに投稿をほぼしないのですが、これを見てください。」
元村良介がタブレットの画面を見せてきたので、俺は覗き込んだ。
「彼は訪れた場所の履歴を残すために “チェックイン” 機能をよくつかっていました。」
「チェックイン?」
「はい。GPSを使って、例えば、レストランなど公共の場所に来た際に “チェックイン” すると、その場所に来た履歴が残るんです。」
「何のためにそんなことをするんだ?」
「山田つむをはラーメン屋巡りをしていたようです。ほら、関東の有名店はほぼ網羅しています。“チェックイン” を使っていたのは、おそらく、一度行った店の覚書のためと、あとは仲間に行ったことを知らせるためかと思われます。ラーメン好きの人たちってそういうことをしますからね…。」
俺は山田つむをのチェックインした場所を眺めてみた。確かに各地の駅周辺に “チェックイン” を示すマークが集中していた。
「それでですね。山田つむをが最後にチェックインした場所はというと…」
元村良介が画面を操作すると、地図上には一点のマークのみになった。
「まさか…?」
「そうです…ここはタイ料理屋なんです。ラーメン屋ばかりのチェックイン情報をアップしていた彼が、この一軒だけタイ料理屋なんです。しかも料理の写真もチェックイン情報に添えられています。」
「なんだって?」
「それで詳しく調べてみると、吉崎のはらと香川たえこがアップした料理の写真も、この店のものとわかりました。彼女らは店の名前は出していなかったのですが、料理の見た目や食器、テーブルの感じからして同じ店だとわかりました。メニューは三人ともバラバラですけどね。…どうでしょう? 何か関係あると思います?」
俺は高速で脳みそを回転させて元村良介から得た情報を分析した。
なるほど、これは調べてみる価値はありそうだな。
「彼らは料理の写真に何かコメントをつけているか?」
「いいえ。三人ともコメントなしで写真だけ投稿しています。」
「その写真に他の人からのコメントは?」
「どの投稿にも他の人からのコメントはついていません。数件のイイねがついてる程度です。」
「イイねしている奴の中に怪しい奴はいるのか?」
「匿名性の高いSNSのアカウントなのでそこまで調べられなかったのですが、どれも怪しいところはありませんでした。」
「ふむ…。とりあえず、そのタイ料理屋に行ってみるか…。」
俺のその言葉を聞くと、元村良介は嬉しそうに「はい!」と言った。
本当に子犬のような奴だ…。
問題のタイ料理屋は警察署から電車で20分ほど行った繁華街にあった。
見た目はごく普通の店だった。
店内に入ると、食事時には少し早かったので、客はいなかった。
まず、我々は警察であることを伏せて、普通の客として食事をしてみることにした。
席につき、メニューを見ていると、店員の女性が水を持ってきた。
タイ人のようだが、ごく普通の女性だ。
彼女が水をテーブルに置くと、元村良介が自然な感じでおススメのメニューを聞き始めた。
思いのほか肝が据わった奴だ。
俺はその間、店員の女性を観察した。
日本語はさほど上手くはないが、日常会話に支障がない程度。愛想はよく、接客も丁寧だ。不審な点はない。
「SNSでここの店の料理の写真を見て、美味しそうだなと思って来たんですよ。」
元村良介が何気なく言った。
俺は店員の表情に変わりはないかずっと見ていたが、元村良介がSNSという単語を発しても、特に変化は見られなかった。
元村良介が適当な料理を注文し、店員は厨房へと引っ込んだ。
「店員に特に不審な点はありませんでしたね。ひとまず、被害者三人がそれぞれ最後にアップしていた写真の料理を頼んでみました。」
抜かりないな。やはりこいつは見た目以上にできる奴かもしれない。
数分後に料理が運ばれて来た。
料理が並べられると、元村良介は携帯を取り出してカシャカシャと写真を撮った。
「被害者がアップしていた料理はバラバラで法則性は見いだせていないので無駄かもしれませんが…」
元村良介は携帯を素早く操作して何かをしていた。
「ひとまず、匿名のアカウントを作って写真をアップしてみました。」
俺は元村良介が差し出した携帯の画面を覗き込んだ。
ごく自然な形で写真がアップされていた。もちろんコメントなしで。
「じゃあ、食べましょう。」
元村良介がタイ料理をもぐもぐ食べだしたので俺は呆れてしまった。
仕方ないので俺も食べ始めた。
料理はいたって普通。いや、まあまあ美味かった。
「やっぱり何も反応はありませんね。」
料理を食べ終わるころ、元村良介が携帯を見ながら行った。
「ここの店員に被害者の写真、見せます?」
「いや、この店は関係ないかもしれない。も少し明確に事件との関わりが解ってからにしよう。」
俺たちは勘定を済ませて店の外に出た。
出がけにチラッと厨房の中を覗いてみたが、男性の料理人が一人いるだけで、変わったことはなかった。
料理人も特にこちらを見ることもなく、怪しさはなかった。
「どう思う?」
外に出て俺は元村良介に聞いてみた。
「この店は事件の何かに使われている可能性はあるかもしれませんが、料理や店員たちは無関係っぽいですね。」
「だよな。」
「それよりも、僕はこっちが気になってきました。」
元村良介が指さした方を見ると、タイ料理屋の隣の雑居ビルの下に奇妙な看板があった。
それはよくある形の看板ではあったが、真っ黒だった。
店の名前も何も書いていない。
「行ってみます?」
看板のすぐ後ろに続く階段を親指で刺しながら元村良介が言った。
俺は頷いて、階段を上り始めた。元村良介がすぐ後を登てくる。
階段を上ると、二階に真っ黒なドアがあった。
そのドアには奇妙な白黒の模様が描かれていた。
「QRコードですね。」
元村良介が携帯を取り出して、ピロリンと音を出してその模様を読み取った。
「行きましょう。」
元村良介が階段を音を立てずに降りて行ってしまったので、俺も後に続いた。
「すみません。あんまりドアの前に居ない方がいいかと思いまして。あ、ダメです。何かのログイン画面ですね。」
「何のコードだったんだ?」
「ウェブサイトのURLだったんですが、ログイン画面が表示されるだけで、そこから先には進めません。念のために被害者全員のアクセスログをもう一度調べるように今、要請しましたが…」
「それならいい伝手があるぞ。ついてこい。」
正式な捜査許可が下りないとこういったブロックの解除を専門部署に依頼することはできない。
この情報だけでは許可を取るのは難しいだろう。
俺はこういうのが得意で、他言無用で手を貸してくれる奴を一人知っていた。
電車を乗り継ぎ、少し郊外へ出た。
この住宅街に奴は住んでいる。
ボロいアパートの一室のチャイムを鳴らす。あいつは大体家にいる。
案の定、眠たそうな顔をした奴がドアの隙間から顔をだした。
「何だ荒川か…。何の用だ。」
相変わらず愛想の悪い声で奴が言う。
「悪い。捜査の手伝いをしてくれないか、非公式で。」
それを聞いて奴は、いいよ、と言ってドアを開け、我々を招き入れてくれた。
「こいつは俺の部下の元村良介だ。元村、こっちは俺の大学の同期でホワイトハッカーをやっている斉藤忠司だ。」
元村良介は斉藤忠司の肩書を聞くとすぐに奴の役割を理解したらしく、開いてほしいウェブサイトの情報を斉藤忠司に渡した。
斉藤忠司はパソコンに向かってカチャカチャ何かやりはじめた。
それからめずらしく、悩んでいる様子を見せた。
「荒川。これどこで拾って来たURLかな? この俺にも開けられないなんてよっぽどだぞ。」
「ダメなのか?」
「いや…ダメじゃないと思うけど。今日、一日もらえないか?」
斉藤忠司がこんな様子なのは初めてだった。いつもはチャチャチャっと解決してしまう奴なのだが。
これは、ますます、あの黒いドアは怪しいということになってきた。
「このURLに関係していると思われる被害者の情報が必要だったりするか?」
「あった方がいいな…。」
斉藤忠司はボリボリと頭をかきながら言った。
「署のサーバに情報があるはずだ。事件番号はD586N434だ。」
(警部…この人に番号を教えていいんですか?)
元村良介が俺の耳元で言って来た。俺は斉藤忠司の立場を元村良介に教えてやると、奴は安心したようだった。
開かないウェブサイトは斉藤忠司に任せることにして、我々は一旦署に戻った。
「荒川警部、僕、もう少しあのタイ料理屋のことを調べてみます。他にもあそこの写真をアップしているアカウントがあるかもしれません。」
ネット上の捜査は元村良介に任せることにして、俺は被害者の身辺の聞き込みをもう少ししてみることにした。
また三上佐代子を連れて行こうと思ったが忙しそうだったので、ひとまず一人で回ることにした。
証言1:吉崎のはらの同僚A
吉崎さん? とても大人しくて真面目な人でしたよ?
でもちょっと変わったところがあって…。その、週に一度ほど、降りてくる言葉があるとかで、みんなにその言葉を伝えて回っていたんです。
ええ、それが始まったのはここ数ヶ月の間です。
うーん? よく覚えていないんですが「次元の扉が開く」とか「精神の上昇」とか? そういったことでした。
証言2:吉崎のはらの同僚B
ああ、あの子…。なんか最近、はまっていることがあったみたいで。
オンラインサロンみたいなやつで、ああなる前に、オフ会があるとかで、楽しみにしてそうでしたが…。
変なことを言い出したのも、そのオンラインサロンに参加するようになってからだと思います。
いいえ、詳しくは解らないんですよ。同志がいるとか言ってましたけど…。
証言3:香川たえこの近所の人A
もう知っていることは警察の人にも話したんですけど?
香川さんが配っていたカードのことですか? だから気味が悪くて捨てちゃったんですよ。
次元? うーん、なんかそんなようなことは書いてあったかもしれません。
何しろ、近所の人みんなに配っていましたよ。ええ、手作りのカードです。
何でも相談してって言われたんですけど、あなたこそ誰かに相談した方がいいんじゃない? って私は思ってたんですよ。
私? いやですよ。近所で会って少し挨拶する程度でしたから。できるだけ関わりたくないって思ってましたから。
証言4:香川たえこの近所の人B
カード? 確かに貰ったかもしれません。とにかく、ここ最近言動がおかしくなってしましたから。
前にも警察の方に話しましたけど、旦那さんに出て行かれておかしくなっちゃったみたいですよ。
仲間? いや~いなかったんじゃないですか?
証言5:山田つむをの友人A
確かに、ラーメン屋巡りは熱心にやってましたね。でもあんまり俺たちとは一緒には行ってくれなかったな。
ラーメンは一人で食いたいとか何と言って。
おかしな言動? どうかな…昔からおかしなこと言う奴だったからな…。ここ最近で急にってことはないかな。
え? ああ、なんか神がどうのこうとか、次元のはざまでどうのこうのとか言ってたかな…。
聞き込みを終えて俺が署に戻ると、元村良介が少し切羽詰まった様子で近寄って来た。
「荒川警部! すぐに調査した方がよさそうな人物を発見しました。例のタイ料理をアップしていてるのですが…」
俺は元村良介が見せてきた情報を確認した。
H大学の学生を自称しており、Kotona Hirakawa というアカウント名だった。
「大学に確認したところ、この学生は実在していました。しかも、ここ数日無断欠席をしているそうです。ただ、これまでも何度か数日間サボることがあったそうで、まだ誰も不審には思っていない様子でしたが…」
「その子は、ここ最近、おかしな言動をしてたかわかるか?」
「おかしな?」
「被害者の身辺の聞き込みをさらに突っ込んで来たところ、三人の被害者に共通して、次元がどうのこうのといった言動があったようだ。」
元村良介はタブレットで何かを調べはじめた。
「Kotona Hirakawaの他の投稿をざっと見ましたが、意味深な書き込みが多いですね。この歳の女の子には多いのですが、悲しみが深い…とか、マインドやられた…とか、今日は会えた死んでもいい…とかそんなのが多いですね。」
「なるほど。この子は独り暮らしなのか?」
「はい。学校近くのアパートに住んでいます。」
「よし、行ってみよう。」
俺と元村良介はこの学生の家へ向かうことにした。急を要しそうなので、署の車で向かった。
移動中に元村良介が大家に電話し、事情を話したうえで立ち合いを要求していた。手際のいい奴だ。
アパートに到着すると、大家が先に来ていて、学生の部屋の前へ案内してくれた。
ここに住んでいるのは、平河ことな という名の学生だった。
まずはインターホンを鳴らす。
数回鳴らしたが返事はなかった。
続いて、ドアポストを押し開けて、中に向かって呼びかけてみた。
またまた返事はなかった。
そこで俺は気が付いてしまった。
部屋の中からかすかに漂ってくるあの臭い…。
元村良介に代わって、嗅がせてみた。
「荒川警部…臭います。あの臭いです。」
元村良介も認めたところで、我々はほぼ確信した。
四人目の犠牲者か…!!
我々は居住者の命の危険があることを大家に説明し、ドアの開錠をお願いした。
大家は学生の両親に電話をして確認をしようとしたが、彼らはすぐには電話に出なかった。
このままでは命の危険があると判断した我々は、ドアをすぐに開錠してもらうことにした。
責任はこの俺が取ろう。
ドアを開けると、さっきよりも強く、あの生臭さを感じた。
部屋の中に入ったが平河ことなの姿はすぐには見つからなかった。
風呂場を覗くと、そこにいた。顔面にあれをつけた状態で。
大家は激しく動揺したが、彼女のが生きてることを知ると、多少冷静さを取り戻した。
顔が確認できなかったが、大家は間違いなくこれは平河ことな であろうと言った。
そう、彼女は顔を見なくても解るほどの巨体だったのだ。
要請した救急隊が到着するまで、全裸の被害者を気の毒に思った。
毛布でもかけてやろうとかとも思ったが、事件性がある限りこの部屋のものには触れられない。
そう考えを巡らせていたら、元村良介がお面に触れないよう気を付けながら、自分のジャケットを彼女に掛けてやっていた。
なんて優しい奴だ。俺が女だったらたちまち惚れていただろう。
まもなくして救急隊員が到着した。俺が呼んだのは、前回の被害者の搬送も担った特別隊員たちだ。
面に触れることなく、手際よく大きな体の平河ことな を担架に乗せると、あっという間に運んで行った。
さて、あとはこの部屋の調査である。
俺は鑑識を呼んで、ここの処理を任せることにした。むろん、鑑識も当事件の特別班である。
大家にはくれぐれも口外しないように念を押し、両親への連絡は警察からすることを伝えた。
大家も自分の貸家に変な噂が立つのを嫌い、喜んで秘密を守ると言った。
平河ことなの両親は北海道在住で、すぐに駆け付けるとのことだったが、今からでは夜中の到着になってしまうだろう。
我々は鑑識を待たずにひとまず戻ることにした。
署に戻ると、ちょうど斉藤忠司も出向してきたところだった。正式に調査依頼が通ったのだろう。
「いろいろやって見たけど、家の設備じゃ限界だったよ。」
斉藤忠司はさっと手を振り、署が用意した専用の個室へと消えて行った。
そう、奴は警察署お抱えのホワイトハッカーであり、署内で解決が難しいサイバー犯罪がらみとなると、こうして駆り出されるメンバーの一人なのだった。
だいたいは今日みたいに、非公式でもいろいろ仕事をさせられているのだが…。
「僕、斉藤さんについてていいですか?」
元村良介が言った。俺はそれを許可した。
俺はデスクに戻って報告書と書類を片付けることにした。
黙々と書類の山を片付けてふと時計を見ると夜の十時を回っていた。
向こうの方を見てみると、何人かポツポツと残業をしている者はいるが、大半は帰ってしまったようだ。
俺は斉藤忠司と元村良介の様子を見に、俗に斉藤部屋と言われている個室へと向かった。
部屋を覗くと、斉藤忠司と元村良介は二人で画面に向かって何か話をしているところだった。
二人はこの短時間でずいぶん打ち解けたようだった。
俺に気が付くと元村良介が立ち上がったので、俺は仕草でそのままでOKと伝えた。
「俺は帰るぞ。お前たちもほどほどにしておけ。正確な判断には睡眠も重要だぞ。」
二人は了解の旨を俺に示したが、すぐにまた画面に向かってしまった。
俺は二人を置いて帰宅した。
翌朝。署に行くと、元村良介が自分のデスクでぐったりとしていた。
ちょっと近づくのに躊躇するほど、奴の周りにはどんよりとした空気が漂っていた。
「あいつ、どうしたんだ?」
ちょうど通りかかった三上佐代子に声をかけた。
三上佐代子は元村良介の方を見ると、ふぅと溜め息をついた。
そして、俺を廊下の方へと連れ出してコソコソ声で話し始めた。
「彼女に逃げられたんですよ。」
「何?」
「あいつ…元村巡査の彼女、私の大学の先輩なのでよく知っているのですけど…夕べ、彼が残業してる間に荷物をまとめて実家に帰ってしまったそうです。」
「君は元村と面識があったのか?」
「ええ。彼は私の高校の後輩なんです。…先輩に良介を紹介したのは私なので、何か責任を感じちゃいますが…。」
「女に逃げられるような奴には見えないけどなぁ…」
「人当たりがよさそうに見えますけど、あの人の心にはぽっかり穴が空いているんですよ。どこかに心を置いて来てしまったのでしょうね。近づけば近づくほど、どんどん遠くなる。私達にはその隙間にも入り込む余地がない。それが元村良介です。」
三上佐代子はペコリとお辞儀をすると、ツカツカと足音高く離れて行ってしまった。
もしかしたら、彼女も元村良介と昔何かあったのかもしれないと、俺は勘ぐった。
俺は戻って元村の隣に腰を下ろした。
ゆっくり起き上がった元村に俺は言った。
「昨日は何時に帰ったんだ。あまり根詰めるなと言ったはずだぞ。」
「聞いてないフリしなくていいですよ、荒川警部。どうせ佐代子が話したでしょう? 昨日、僕はあの後すぐ帰りましたよ。そしたら、見事に彼女が出て行った後でした…。どうして女っていつも黙って去っていくんでしょうか?」
「おまえ…、いつも黙って去られているのか…?」
その質問に元村良介は肩をすくめた。
こいつは何故自分が振られるのか解っていないようだ。
「まあ、俺も5年前に女房に出て行かれたっきりだからな…何とも言えないな。」
俺がそう言うのを聞くと、元村良介がまるで仲間を見つけたかのような表情でこちらを見てきた。
「俺の場合は、長い話し合いの末に出て行かれたのだ。お前とは違うぞ。ただ、刑事をやっているとな、家庭との両立は難しい。仕事の内容は一切話せないしな。何も言わないでも全てを理解してくれるパートナーなんてそうそう出会えるもんじゃない。まあ、そういうものだ。」
元村良介が少々ショックを受けた顔をしたので、俺は話題を変えることにした。
「それよりも、斉藤はどうした?」
「斉藤さんは、僕が帰った後も何かやっていたと思います。行ってみましょう。」
「あいつ、また署に泊まったのかな?」
俺と元村良介は斉藤部屋へと向かった。
斉藤忠司は床の上に寝袋を敷いて仮眠をとっていた。よく見る光景だ。
「また泊まったのかおまえ。そこまで根詰めるないつも言っているだろう。」
むっくりと起き上がった斉藤忠司は、眠そうにあくびをするとうーんと伸びをした。
「いや、だって被害者がまだ出るかもしれないだろう? 早く解決した方がよかろう。」
「まあ、それはありがたいが。何か解ったのか?」
「ああ。押収された被害者の端末に、例のQRコードのURLにアクセスした履歴があって、入力したパスワードも解ったが、四人とも異なる文字列を入力してて、どれを入れてもはじかれた。」
「つまり?」
「つまり、これはワンタイムパスワードだ。一定期間が過ぎたら使えなくなる。隣のタイ料理屋の写真を上げたのは何かの合図か何かだったのかもな。」
「それで、被害者があの隣のビルに行ったと結論付けていいのか?」
「いや…解ったのはあくまでも、被害者がQRコードからこのURLにアクセスしたってことだけだ。それぞれの端末に残されていた画像を見てみたが、位置情報はついてなかったからどこで撮影したものかはわからない。」
「見せて見ろ。」
斉藤忠司がモニターに4枚のQRコードの画像を表示した。どれも黒い背景にQRコードが写っているが、それだけではあのドアだとは特定できなさそうだった。
「この画像を解析に回しておけ。」
元村良介が「了解」と言いながら、斉藤忠司の横から手を伸ばしてキーボードを打ち、画像を手際よく転送した。
「あとは何かわかったか?」
「あと…面白いことがわかったぜ。このURLのドメイン情報を探っていたら、どうやらこのドメインに紐図いているサーバは特殊なスペックであるらしいことがわかった。逆探知の回避も施されていたが、俺に手にかかればこんなもんは……」
「で、つまり、何がわかったんだ?」
「ああ、すまない。このログイン画面のサイトは、一般的なレンタルサーバは使ってない。独自のサーバ、つまり誰かが自分で持っているサーバに置かれている。」
「そのサーバの持ち主は解るのか?」
「残念ながら、バカ正直に個人情報を公開してるとは思えないから誰かを特定するのは難しいかもな。使っている通信の名義も調べてもいいが偽装されている可能性は高い。」
「それなら、なぜわざわざ足が付きそうな独自のサーバなんか使っているんだ?」
「恐らく…かなり特殊なスペックのサーバだから一般のサーバじゃできないことがあるんじゃないかな。荒川、これ知ってるか?」
唐突に斉藤忠司が画面にウェブサイトを開いた。
それは占いのようなサイトだった。
「これ、最近SNSのトレンドに上がって来た話題のサイトなんだけど…何と、このサイトも同じ特殊なスペックのサーバで運用されている。IPが違っているから同一のサーバではないかもしれないが、こんなスペックのサーバはそうそうないだろう。」
「え、まじすか。」
元村良介が驚きの声を上げた。
「これは何のサイトなんだ。」
「今日のラッキーアイテムを表示してくれる占いサイトだ。」
「占い?」
「まあ、そんなサイトは山ほどあるんだが、このサイトの場合は、朝に表示されたアイテムが、本当にその日のうちにものすごく必要になる…と話題になって先月くらいから、かなり話題になっていたんだ。まさか、このサイトが関係してくるとはな…。」
「そんなに有名なのか?」
「僕もこのサイト知ってます。」
元村良介がまた口を挟んだ。
「僕の彼女が…あ、元彼女がよく見てました。例えばその日の用事とは全く関係なさそうな、“ピンセット” というアイテムが表示されて、半分冗談で持って行ったら、細い隙間に鍵を落として拾うのに役立ったとか…。」
「そうそう、そういう予言めいたラッキーアイテムが表示されるって話題だったけど、本当だったんだな?」
「彼女が言うには百発百中だそうですよ。」
「荒川、ちょっとやってみろよ。」
俺は表示されたフォームを確認した。入力するのは氏名・生年月日のみで他の個人情報は必要ないようだった。氏名は必ず戸籍上の本名で、場合によっては誕生時刻の入力を求められる場合あり、と注意書きがあった。
フォームに入力し、送信ボタンを押すと、画面に “紫色のハンカチ” と表示された。
斉藤忠司と元村良介が同時にこちらを見たので俺は肩をすくめて見せた。
まるで心当たりはない。
「じゃあ、僕もやってみます。」
今度は元村良介が自分の情報を入力して送信ボタンを押した。
すると、今度も “紫色のハンカチ” と表示された。
元村良介がこちらを見たので、俺は再び肩をすくめた。
斉藤忠司がカタカタとキーボードを打って情報を入力し、送信した。
“ポケットティッシュ” と出た。
「ずるい回答っすね。」
その場の全員が思っていたことを元村良介が口に出して言った。ポケットティッシュが必要になることはなどは常にある。
「“紫色のハンカチ” というは特殊だぞ。持っておいた方がいいんじゃないか?」
斉藤忠司が言い、元村良介も頷いた。
俺はこんなものはとうてい信じられなかった。誰にでも当てはまるようなことをランダムに出しているだけではないのか。
「ところで、この占いサイトと、被害者のタイ料理写真とあの黒いドアとどう関係してくるんだ?」
俺が言うと、斉藤忠司がポンと掌で膝を叩いた。
「忘れるところだったよ。もう一つあるんだ。」
斉藤忠司が別のサイトを開いて見せた。
「このサイトも、例の変わったスペックのサーバで運用されている。」
それは何やらオカルトっぽいウェブサイトだった。
宇宙の写真の背景に白抜きの文字が大きく表示されている。
その文字は、このように謳っていた。
≪次元を超え神の声を聞く者よ集え:アルカデルトの神託≫
トップページにはそれ以外の情報がなく、真ん中にテキストを入力する欄と送信ボタンがついていた。
「これがまた、パスワードを入力しないと中にサイトの内容が見れないのだが、どうやっても入れない。あのQRコードとのと同じだな。」
「このサイトは被害者と何か関係がありそうだな。今のところ全員、次元がどうのこうの言っていたみたいだかな。」
「集えってことは何かの集まりがあるのでしょうかね? 被害者の中には何かのオフ会に参加してという証言もありませんでしたか? どうにかしてこれ関係の集会みたいなものを見つけられないでしょうかね?」
「それはだな…」
斉藤忠司が様々なSNSのページを開き、カタカタとキーボードを打って何かをし始めた。
「ほら、これ。」
斉藤忠司が画面を指さしながら言った。
そこには次のような投稿があった。
≪次回のアルカデルトはやばそう≫
≪次元を超えてメッセージを受け取ってる人います? 興味ある人は連絡ください≫
≪神の声を聞く人はアルカデルトへ…≫
≪アルカデルトに本当に救われている≫
≪多次元は存在する。真実はアルカデルトに≫
これらは全て同一のアカウントがいろいろなSNSで投稿していることだった。
「こいつが何かの仕掛け人かもしれませんね。」
「警察の権力を使えばこいつの身元は洗えるんじゃないか?」
「これだけの情報だとな…事件に関与している決定的な証拠がないと身元調査の依頼を出すのは難しいかもな…まあ申請はしてみるか。」
「ちなみに、こいつのSNSの投稿をざっと見ていたのだが、どうやらこのアルカデルトの神託とかいうサイトのパスワードは口頭で伝えられるらしいな。絶対にネット上に出すなと言っている。」
「じゃあ、こっちはワンタイムパスワードじゃないってことですね?」
元村良介が言った。斉藤忠司が、おまえ、よくわかってるな…と珍しくそれを褒めた。
「とりあえず、こいつのフォロワーの同行を徹底機に調査してみるよ。」
斉藤忠司はそう言うとパソコンに向かって何かを始めたので俺と元村良介は斉藤部屋を後にした。
戻るとちょうど四番目の被害者である平河ことなの家族が事情聴取に応じるために来所したところだった。
平河ことなの父親は娘とそっくりな巨漢だったが、母親の方は驚くほど小柄で細身の女性だった。
そこにいる全員が平河ことなは父親似だろうと思ったことだろう。
二人は昨日の夜こちらに到着し、一晩中娘に付き添っていたそうだ。憔悴しきった表情をしている。
「大変な中、出向いてくださりありがとうございます。」
三上佐代子が二人を聞き取り室へと招いた。
威圧的にならないように、二人の正面に三上佐代子が座り、俺と元村良介は部屋の両端に分かれて腰を下ろした。
平河ことなの両親は、こんな事件に巻き込まれるような子じゃなかったのに…の一点張りで、それ以上の有益な情報は得られそうにもなかった。
高校生まで、成績は優秀だったが、大人しい性格であまり友達はいなそうだったと両親は話した。
そんな彼女が大学生になり単身上京、それなりに友達もできてうまくやっていると思っていた矢先の事件だった。
俺たちは二人に感謝の意を述べ、また何か気が付いたことがあれば連絡をもらえるように言い帰した。
「何もわかりませんでしたね。」
「まあ事件が起きてすぐの被害者家族とはあんなもんだ。時間が立てばまた何か思い出すかもしれない。」
席に戻ると、書類の山がまた俺のデスクに積まれていた。
どうしてこう、管理職になればなるほど書類の数が増えてくのだろうか。
俺がため息をついていると、元村良介がコーヒーを入れて来てくれた。気が利く奴だ。
二人でコーヒーをすすっていると、元村良介が少し出かけたいと言い出した。
「紫のハンカチ…手に入れておいた方がいいと思うんですよ。あのサイト、バカにできませんよ。荒川警部の分も買ってきましょうか?」
こいつは本気であんな占いサイトを信じているのか? 刑事としては少々心配だな。
まあ、元彼女に少し未練でもあるのかもしれないな。
「いや、俺の分はいい。お前は好きにしろ。」
元村良介はペコと頭を下げて出て行った。
しばらく書類の山と格闘していると、斉藤忠司から連絡が入った。例のサイトを運用している団体の集会らしい日程がわかったらしい。
俺は急いで斉藤部屋へ向かった。
部屋に入ると斉藤忠司がしたり顔で待っていた。
「こいつのフォロワーの中にガードの緩い奴いがひとりいたんだ。で、そいつがオンラインカレンダーにスケジュールを入れていてこっちから情報が丸見えだ。」
「で、いつあるんだ、その集会ってやつは。」
「今日だよ。今日の15:00から。この住所だ。」
斉藤忠司が指示した住所を見ると、あのタイ料理屋のほど近くのビルの一室のようだった。
「よし、潜入できそうだったらやってみよう。」
俺はすぐに元村良介にこの情報を流した。
すると返事はすぐに来た。
≪了解しました。時間がまだ少しあるので平河ことなの友人に少し話を聞いてきます。現場近くで合流お願いします。紫のハンカチ、荒川警部の分もゲットしましたよ≫
ハンカチなどいらんと言ったのに。
俺は了承の旨を元村良介に送った。
俺は時間まで書類をできるだけ片付けることした。
14:30。約束の時間になり現場に向かうと、元村良介は既に到着していた。
紫のハンカチを手渡して来たので、俺はそれをポケットにねじ込んだ。
「平河ことなの友人から何か話は聞けたか?」
「いいえ…。彼女はそこまで親しい友達はいなかった様子です。」
「そうか…」
俺は何となく平河ことなを気の毒に思ってしまい、すぐにその考えを拭い捨てた。
そんなことは俺が勝手に思っていいことではないのだ。
俺たちは集会が行われると思われるビルのすぐ近くまで歩いて行った。
ビルの周りにはまだそれらしい人たちは集まって来ていない様子だった。
俺たちはビルの入口がちょうど見える喫茶店に入り様子を見ることにした。
14:50。数人の人物がビルに入って行った。
俺と元村良介は目配せをすると席をたち、喫茶店を出た。
ビルの付近まで歩いて行くと、ちょうど同じように歩いて来た男がビルに入って行ったので彼について行った。
斉藤忠司の調査による住所によると、集会の部屋は205号室。二階のはずだ。
男はエレベータを使わずに階段を登って行ったので俺たちもついて行った。
男がちらっとこちらを見たので軽く会釈すると、彼もペコっと頭を下げた。
俺たち三人は何となく連れ立って二階へ向かった。
そして205号室の前に立ち止まった。
男がこちらを振り返ったので俺はできる限り訳知り顔の表情を作って頷いて見せた。
男が妙なリズムでドアを叩いた。
おそらくメンバーのみが知る合図か何かだろう。この男の後についてきて助かった。
ドアが開き、四十代半ばくらいの痩せ型の男が俺たちを出迎えた。こいつが受付か何かなのだろう。
先に入って行った男がポケットから紫色のハンカチを取り出し受付の男に見せた。
それを見ると受付の男は頷き彼を中へ通した。
元村良介がちらっとこちらに視線を投げてきた。
わかったよ。今回はお前が正しかった。
俺たちも紫のハンカチを受付に見せて中に入った。
そこはごく普通のマンションの一室という感じで、誰かの家のようだった。
俺たちはリビングに通された。
そこには数名の男女が思い思いの場所に腰を下ろしてひそひそと雑談をしていた。
一緒に入って来た男に続いて俺たちも適当な場所に腰を下ろした。
少し待っていると、先ほど受付をしいた男がリビングに入って来た。
「時間になりましたので始めたいと思います。」
全員が彼に向ってお辞儀をしたので俺たちもそれに倣った。
「新顔の方も数名いらっしゃるので、まずは自己紹介を。私は ≪アルカデルトの神託≫ の最高司祭の補佐役を務める加藤です。」
加藤が深々とお辞儀をしたので、俺たちもお辞儀を返した。
「この ≪アルカデルトの集い≫ ではみなさんが受け取ったメッセージや心配事などをざっくばらんに語っていただきます。それでは早速こちらからどうぞ。」
ちょうど加藤の右側に座っていた女性が指名された。
女性は座ったままで話を始めた。それはとても正気とは思えない内容だった。
彼女は毎日、彼女が神と思っている存在からメッセージを受け取っていて、それに従って行動しているそうだ。
それはその日最初に思いついたことをしなさいとか、南の方向へ出かけよ、とか、そんなような内容らしかった。
次の男もだいたい似たような話をした。
彼の場合は、その日に着る服の色の指示が来るそうだ。
これは俺も何か話をでっちあげなければならないと思い少々焦りはじめた。
何しろ俺は現実主義であり、こう言った類のことは苦手なのだ。
元村良介の番になった。
奴は予想外のことをいきなり言いだした。
「橋本です。初めて参加しました。こちらは僕の父で、今日連れて来るようにと神託を受けて連れてきました。
僕は複数の声を聞いています。
こちらの父は普段神託を授かるようなタイプではないのですが、人生で一度だけ、母との出会いが強烈だったと言います。このような強烈な体験も神託の一種ではないのかなと僕は考えています。」
元村良介は深々とお辞儀をすると、俺の方に視線を向けてニヤリと笑って見せた。
なんて奴だ。無茶ぶりもいいところだぞ。
しかし、彼が物語を作ってくれたおかげで、ゼロから作り話をするよりはマシになったのは事実だった。
俺は奴が使った偽名を引き継ぎ、架空の自己紹介を始めた。
「橋本です。こいつの父親です。私は今日、息子に説得されて半信半疑でここに来ています。神託? というものに私は自覚がありません。ただ、息子が言う通りに、今の妻に出会った時、私は雷に打たれたような衝撃を受けました。ただそれだけです。」
俺は頭を下げながら周りの様子を観察してみたが、特に疑念を抱かれた様子はなかった。
他の人たちも次々と自己紹介をしていたが、どれも似たような感じだった。
声が聞こえるだの、次元がどうのこうとだの、俺にはさっぱりな内容だった。
全員の自己紹介が終わると、最高司祭の補佐 加藤が話を始めた。
それは驚くべき内容だった。
「さて、みなさん。ご自身のことをお話いただきありがとうございました。話していただいて解るとおり、みなさんに共通しているのは ≪声≫ が聞こえる、ということです。それらの中には本物と偽物があります。それを見極められるようになるためには鍛錬が必要です。ここでは、本物の声を聞き分けられるように、皆さんには学習してほしいと思います。」
加藤が後ろの壁に掛かっていた布を取ると、そこにはホワイトボードが設置されていた。
ペンを取り加藤が図を描きながら話を続ける。
「この世界は単次元ではありません。この世界にはいくつもの次元が存在し、現在五つの次元の存在が確認されています。」
ホワイトボードに五つの丸が描かれた。
「我々の世界はこの一つに過ぎません。そしてこれら全ての次元を総括しているのが、≪体系≫ と呼ばれるものです。」
加藤は五つの丸の上に一つの小さな丸を書いた。そしてそこから下の五つの丸に矢印線を伸ばした。
「我々が聞いている声の大半は自分自身の脳内で作られた思考の一部です。ところが声の中には、外側からやってくるものがあります。それが本物の神託です。それらは、ここ ≪体系≫ から直接来るか、もしくは他の次元を介して我々の脳内に入ってきます。」
赤いペンで、それぞれの円の間を飛び交う線が追加された。
「その声は、本来であれば人間の耳に聞こえることはありません。ところが、我々のような選ばれた特別な人間だけ聞くことができるのです。」
この言葉にその場の全員が頷いていた。
「このように、本物の声の見極めは大変難しいものです。本物と偽物の間には、はっきりと言葉で説明できる違いがないからです。感覚的に解る…としか言えないものなのです。」
ここで加藤は奇妙な微笑みを浮かべながら一同を見回した。
「今日、初めて集会に参加される方、手を挙げていただけますか?」
元村良介が躊躇なく手を挙げたので俺もそれに続いた。
見回すと、俺たちを含めて五人が手を挙げていた。
「はい。そうですよね。では彼らにこれを回してもらえますか?」
加藤は自分の横にあるテーブルの上に積まれた小さな箱を横にいた者に手渡した。
箱は次々に隣の人へと手渡されて俺たちの手元までやってきた。
小さい割にはずしりと重みのある箱だった。
「行きわたりましたか? では開けて見てください。」
開けると、中にUとYが合体したような形の金属の物が入っていた。
「それは、音叉というものです。」
加藤は同じものをポケットから取り出すと、テーブルの角にU字になっている部分をコンとあてて、手前に突き出した。
わずかだかが、キーンという甲高い音が聞こえた。
「このように音を出して使います。さあ、みなさんも。」
いつのまにか、その場にいる全員が音叉とやらを取り出して手に持っていた。
各人の音叉がテーブルや椅子の固い部分に当てられ音を出す。
キーーーーーーーーン。
リビング中に音波のような高音が響いた。
ちらりと元村良介を見ると、皆に倣って音叉の音を聞いている素振りをしていたので、俺も見習った。
「この音を毎日、朝昼晩と三回、欠かさずに聞くことです。この音叉は神託の持つ倍音に周波数を合わせてあります。この音をしっかり耳に焼き付けることができれば、本物の神託が聞こえた際に、必ずやそれと解ることでしょう。」
俺は改めて音叉を鳴らしてみて音を聞いてみたが、キーンという音という意外は何もわからなかった。
「はい、では、今日は司祭からは特に伝言はありませんので、この後は雑談の時間とします。いつものように思い思いに各自交流していただいて、親交を深めてください。」
そう言うと加藤はお辞儀をした。それに続き全員が頭を下げたので俺も同じようにした。
頭を上げると加藤は満足そうに一同を見回し、部屋の出口へと向かった。
そして一度足を止めると振り返ってこう言った。
「橋本さん。お二人ともちょっと来てもらえますか?」
バレたか。
元村良介がこちらを見たので俺は頷いて見せた。
俺たちは立ち上がると、加藤についてリビングを出た。
後ろでは他のメンバーがぼそぼそと話始めているのが聞こえた。
加藤は俺たちを別室へと案内した。
そこには絵に描いたような応接室だった。
こんな部屋が今どきあるとは少々驚きである。
加藤がソファーを示したので、俺たちはそこへ座った。
向かい側に加藤が座る。
「あなた方、偽物ですね。何をしに来ました?」
バレていた。
「と言っても解っていますよ。警察の方でしょう?」
「何の話かね?」
俺はしらばっくれてみた。誘導尋問かもしれない。
「我が司祭は何でもお見通しです。荒川さんと元村さん…でしょう?」
ダメだ完全にバレている。
元村良介がこちらを見た。
俺は小さく首を振って黙っているように伝えた。
「なぜ我々の名前を知っている?」
「先ほども言ったとおり、司祭は何でもお見通しです。」
「その司祭とやらに合わせてもらうことはできるかな。」
俺は警察手帳を加藤に見せながら言った。
加藤は身を乗り出して手帳の内容を確認した。
「元村さんのも見せてもらっていいでしょうか?」
元村良介も警察手帳を取り出して加藤に見せた。
加藤はこちらも念入りに確認してから頷いた。
「いいでしょう。司祭の元へとご案内します。司祭からもそのように指示されています。」
加藤が立ち上がったので俺たちもそれに続いた。
部屋を出ると、男物のスーツを着た黒髪をポニーテールにした女が立っていた。
「この方々を司祭の元に。」
加藤に言われると女はすっと頭を下げると、何も言わずに玄関の方へと歩いて行ってしまった。
俺たちは慌てて女の後を追った。
女は階段でビルの一階へ降りると、振り返らずにずんずん歩いて行った。
行先は解っていた。あのタイ料理屋の隣のビルにある黒いドアだ。
女は尋常ではない速足で進み、俺たちは必死で彼女のペースに合わせて歩いた。
例のタイ料理は、集会が開催されているビルとほど近くだったので、十数分で俺たちは到着した。
女は黒いドアのあるビルに到着すると、振り返りもせずに階段を登って行った。
俺たちが彼女の後を追って例の黒いドアの前へ行くと、女はちょうどあのQRコードにカードのようなものをかざしているところだった。
ピッと音がしてドアの開錠がされたようだった。
あれはスタッフ専用カードのようなものか…?
女はドアをあけて我々にも入るように促した。
彼女がこちらを気にしたのはこれは初めてだった。
ドアの向こうは奇妙な部屋だった。
狭い空間に所せましと見たこともない機械が並べられている。
部屋の真ん中に大きなクッションのような布団の塊のようなものが無造作に置かれていた。
「司祭様。連れてまいりました。」
「ありがとう。下がっていいよ。」
部屋の奥の方から声が聞こえた。声の主は機械の裏側にいるようで姿が見えない。
声からして女性なのかもしれない。
我々をここへ案内してきた女は軽く頭を下げてから部屋から出て行った。
それと同時に奥から人が出てきた。
子供だった。少年だ。だいたい11歳くらいだろうか。
俺たちは驚いて思わず顔を見合わせてしまった。
「僕が子供だったからびっくりしているね。まあ、そうだよね。」
言いながら少年は部屋の真ん中に置いてるクッションにドカッと腰を下ろした。
「君が ≪アルカデルトの神託≫ の責任者か?」
「そうだけど。」
どうみても子どもだ。だがその落ち着いた物腰と眼差しは何かゾッとされるものがあった。
「君と少しお話がしたいんだけど、ここは君の家?」
俺は警察手帳を見せながら言った。
「そうだよ。」
「お父さんかお母さん、もしくは保護者はどこにいる?」
少年が我々の後ろの方を指さしたので振り返ると、先ほどの集会を仕切っていた加藤が立っていた。
加藤は一礼すると我々の横を通って司祭だという少年の後ろに立った。
俺と元村良介は顔を見合わせた。
容疑者が子供だとは全く想定していなかった。手続きが面倒だ…。
ひとまずここは、聞き込みという形を取るか…。
「この人たちに見覚えはないですか?」
俺は用意しておいた被害者の写真を二人に見せた。
加藤が写真を受け取り見たが、少年は写真を見ようともせずにこちらを見ていた。
「彼らはレシーバーだよ。」
少年がこちらから目を放さずに行った。
加藤が写真をこちらに返した。
「加藤、あれ持ってきて見せてあげて。」
加藤は無言で頷くと、機械だらけの部屋の奥へと消えて行った。
やがて、ギターケースのようなものを抱えて出てきた。
ケースを床に置くと、加藤はそれを開けた。
その中に入っているものを見て、俺たちは息をのんだ。
そこには、被害者たちの顔にくっついている例のお面が入っていたのだ。
「これは…」
「フェイスハガーだよ。」
少年がけろっとした顔で言った。
「これをどこで?」
「僕が作ったんだよ。かっこいいでしょう?」
「君は、これを付けられた人がどうなっているか知っているのか?」
元村良介が割って入った。
意外にも奴は怒っているようだった。
少年は値踏みするように元村良介の方を見ていた。
俺は腕を伸ばして奴を少し後ろに下がらせて落ち着くように仕草で示した。
「よく知っているよ。だって僕がこれ付けたんだもん。」
「何だと?」
俺は加藤の方を見た。加藤は落ち着き払った表情をしていた。
再び少年に視線を戻すも、こちらも穏やかな顔をしていて、その心理は読み取れなかった。
正常とは思えない。
「君は今、自分が複数人に対する傷害事件の犯人であると自供した、という事実がわかっているのか?」
「ふーん、で?」
少年は余裕の表情で、ふてぶてしく言った。
何だこの少年は…。
隣で元村良介が前のめりになったのが感じられた。
俺は再び腕を伸ばして奴を押しとどめた。
「ふーん、で? じゃない。自供したからには我々に同行して署まで来てもらわねばならん。」
「いいよ。」
少年はぴょんと座っていたクッションから立ち上がると人懐っこい表情で俺の傍に来た。
何を考えているのか全くわからないガキだ。
「元村、この家とさっきの集会場の家宅捜索の申請を出しておけ。今すぐにでも開始させろ。他にもこの気味悪いお面を隠しているかもしれん。」
「お面じゃななくてフェイスハガーだよ。」
あろうことか少年が口を挟んで来たが俺は無視をした。
「それから加藤さん。あなたにもご同行願いますよ。」
加藤は素直にうなずいて少年の横へ寄り添うよに立った。
「行くぞ。」
俺が言うと、元村良介が手早くゴム手袋をはめ、フェイスハガーとやらが入ったケースを恐る恐る閉じて持ち上げた。
「私が持ちましょうか?」
その様子を見ていた加藤が言った。むろん、元村良介はそれを断った。
我々は二人を停めておいた車に乗せ署に戻った。
俺たちと入れ違いで家宅捜査班が現場に入ったようだった。
署に到着すると、元村良介がフェイスハガーを鑑識に持って行った。
少年と加藤は別々の部屋に拘留された。
少年の身元がわからなかったので指紋検証を行ったが、該当するデータは警察にはなかった。
加藤の方は運転免許証を持っていたが、巧妙に偽装されたものであると判明した。
本名も加藤ではないのかもしれない。
こちらも指紋は該当なしだった。
元村良介が鑑識から戻って来てから、まずは少年の方から取り調べを行うことになった。
相手が未成年なので三上佐代子に登場してもらうことにした。
少年を正面に、向かい側に三上佐代子、部屋の両端に俺と元村良介という、被害者家族に話を聞いた時と同じフォーメーションで事情聴取は開始した。
少年に興味を持った斉藤忠司もマジックミラー越しに話しを聞いている。
「こんにちは。私は三上です。まずはあなたのお名前を教えてもらってもいいですか?」
「僕の名前、わからなかったの?」
「ごめんなさいね。警察にはあなたの情報はありませんでした。教えてもらえますか?」
「トモヤだよ。」
「苗字は?」
「知らない。」
三上佐代子は少し黙ってから、続けた。
「年齢は? いくですか?」
「正確にはわからないけど…、たぶん12歳くらい。」
「たぶん…とはどういうことですか?」
「二年前に気が付いたら公園にいて、その前のことはわからない。」
三上佐代子が振り返ってこちらを見たので、俺は頷いてみせた。
とにかく知ってることを全部、話をさせるしかない。
三上佐代子は再び少年と向き合った。
「トモヤくんが持っていた、あの、フェイスハガーについて聞いてもいいですか?」
「いいよ。」
「あれを作ったのはトモヤくんですか?」
「そうだよ。」
三上佐代子は被害者全員の写真をテーブルに並べた。
「この人たちにあれを着けたのもトモヤくんですか?」
「うん。」
「全員?」
「うん。」
「この写真の人で全部ですか? 他にもいますか?」
「これで全部だよ。」
「フェイスハガーとは…あれは一体、何ですか?」
「何って…説明するのがちょっと難しいんだけど、受信した情報をデータにして転送するために装置だよ。」
「ではあれは機械なのですか?」
「そうとも言えるし、そうではないとも言える。」
「あれを外すことはできますか?」
「うん、できるけど…。外してもあれを着けた人たちは元には戻らないよ。脳にプラグ刺しちゃったから。着けておいた方が生命維持装置が作動して安全だけど。外しちゃう?」
「…それは、ちょっと検討しましょう。では、なぜあの人たちにあれを着けたんですか?」
「レシーバーだから。」
「レシーバーとは何ですか?」
「情報を受診できる人たちのことだよ。」
この少年の話は常軌を逸している。どういう理屈で行動しているのかさっぱりわからない。精神鑑定をせねばならんだろう。
それにしても…本当にこの少年があの異様な代物を作ったのだろうか…?
「フェイスハガーとレシーバーの関係についてもう少し詳しく教えてもらえますか?」
「いいよ。概要は今日の集会で加藤が話していたとおりだから、そこの二人はわかってると思うけど、三上さんは初めてだから説明するね。レシーバーとは、真の神託を聞くことができる人たちのことだよ。」
そして少年は、俺たちが集会で聞いたこの世界には五次元あるという話をしはじめた。
「神託は、他の次元から届く場合もあるし、≪体系≫ から直接届く場合もある。」
「≪体系≫ とは何ですか?」
「うーん。僕もわからない。この世の大元みたいなものかな。この世の全ての出来事は、その ≪体系≫ の中に保管されているんだ。レシーバーは、そこから情報を得ることで、この世の全てを知ることができる。フェイスハガーはその受信した情報をデータ化するための装置なんだ。」
「レシーバーが情報を受診しているなら、彼らから話を聞けばいいと思いますが、なぜフェイスハガーが必要なんですか?」
三上佐代子がどんどん突っ込んだ質問をしていくので俺は驚いていた。
彼女はこの少年の話を理解しているのだろうか? 俺にはちんぷんかんぷんだが…。
どうしてこんなものを作って着けたのか、三上佐代子は少年の真理を聞き出そうとしているのだ。
「神託に晒された者は正気を保てないからね。彼らはほっといたらもれなく自ら命を絶ってしまう。僕は ≪体系≫ の情報も欲しいし、彼らにも生きてほしい。だからあれを作ったんだ。」
「なるほど…。」
≪あの変わったサーバでサイトを運用しているのもこいつなのか聞いてみてくれ≫
マジックミラーの向こうにいる斉藤忠司が言った。その声はイヤホンを通して俺たちだけに聞こえている。
「この占いのサイトと、あなたの団体のホームページを作ったのはトモヤくんですか?」
「そうだよ。」
「特殊なサーバを使用しているようですが、何のためですか?」
「それは三上さんからの質問ではないね? 鏡の向こうに誰かいる? まあ、いいや。そうだよ。」
「サイトのロックもかなり特殊なものですが、それら全てをトモヤくんが作ったのですか?」
「そうだよ。全部、僕がやってる。あのサーバは ≪体系≫ の情報を収集して解析するためにどうしても必要なものなんだ。きっと今頃みつかって押収されていると思うけど。まあ、普通の人には何も取り出せないと思うよ。鏡の向こうのいる人はどうかな。」
「トモヤくん…、あなたは自分の置かれている立場をわかっていますか? 少しも動揺していないようだけど。」
「うん。わかっているよ。」
少年は表情ひとつ変えずに言った。
三上佐代子はしばらく黙って少年を見つめてから話を続けた。
「あの集会は、レシーバーを呼び寄せるためのものですか?」
「三上さん、感がいいね。その通りだよ。」
少年はだいぶ年上の女性に対して上から目線で言った。
「では…、これは何ですか?」
三上佐代子は我々が集会でもらった音叉をテーブルの上に出した。
「あ、それは音叉だよ。集会で説明したよね。神託と周波数を併せてあるんだ。本当に神託が聞こえているのに解ってないケースもあるからね。」
それを聞くと、三上佐代子は音叉をしまった。
「トモヤ君たちは、誰がレシーバーなのかどうやって見分けるのですか?」
「覚醒すればわかるよ、自然に。」
「では、集会にレシーバーが来たらどうしていますか?」
「DNAをもらって、その日は帰ってもらう。で、こっちでフェイスハガーを用意して、予定の日になったらハガーカプセルを飲ませて終了。後は、体内でカプセルが情報処理して起動して、君たちが見つけた状態になる…。って感じかな。」
「ハガーカプセルとは?」
「フェイスハガーは宿主の体内に入って情報処理してからじゃないと使えないから、飲み込める大きさに圧縮したやつのことだよ。」
こんな話は聞くだけ時間の無駄な気もするが、三上佐代子は続けるつもりらしかった。
「そのカプセルはトモヤくんの家で飲ませていましたか?」
「そうだよ。飲ませた後、三十分は拒絶反応が出ないかモニターしないといけないからね。」
「トモヤくんの家に入るための手順としてタイ料理屋を使っていましたか?」
「よくわかったね。そうだよ。そっちには優秀なエンジニアがいるのかな?」
≪タイ料理屋からどうやってターゲットを家まで誘導していたのか聞いてくれ≫
斉藤忠司がまた口を挟んだ。
奴の質問は捜査というより、どうもただの好奇心のように思えてきた。
「タイ料理屋からどうやってレシーバーをトモヤ君の家まで誘導していましたか?」
「レシーバーにはタイ料理屋についたら適当な料理を注文してSNSへ画像をアップするように指示していた。それで、こちらは到着を確認したら、数時間有効の開錠用ワンタイムパスワードを発行して、その文字列のアカウントを作って該当の投稿にイイねをしていた。扉に貼ってあるQRコードが鍵になってるのはもう知ってるよね。」
なるほど、それで用が済んだらアカウントごと削除することで簡単に追跡されない。
「現在見つかっている被害者四人以外にフェイスハガーは着けていないと言っていたけど、その、ハガーカプセルを飲ませた人もいない、ということでいいですか?」
「うん。いない。今日の集会にも本物は来てなかったし。」
「トモヤくんの家にあったフェイスハガーは、被害者についているものと同形状でしたが、カプセルに入れる前の状態ということですか?」
「ああ、あれは試作品の第一号だよ。あれはカプセルには入らない。」
ここまでで少年のその日の取り調べは終わった。
続いて加藤の取り調べも行われたが、完全に洗脳されているために、目新しい情報を得ることはできなかった。
ただ二年前に公園で浮浪児同然の暮らしをいてた少年を保護してあの家に住まわせたのは加藤だということがわかった。
加藤は共犯者というよりは被害者のように俺には見えた。
「どう思う?」
デスクに戻って俺は元村良介と三上佐代子に意見を聞いてみた。
「荒唐無稽な戯言ですね。」
三上佐代子は即答した。あんなに理解しているふうに話していたのに。女とは恐ろしいものだ。
「二年前に公園にいた前の記憶がないことが気になりますね。」
元村良介が言った。
「記憶を失って突然見知らぬ場所で気が付く…という事例はこれまでも多くあります。そのほとんどは、自分では処理できないほどの辛い出来事があって自ら記憶を圧縮してしまっているケースです。」
さすがは元村良介だ。確かこいつは心理学が専門だったな。
「妄想の内容もわりと典型的なものです。記憶を失う前に何らかの事件に巻き込まれたか、保護者にひどいことをされたか…当時の事件や捜索願いなどを洗ってみてもいいかもしれませんね。」
「よし、やってみろ。」
元村良介は頭を下げてから自分の席に戻り、パソコンに向かってしまった。
「奴の証言の裏が取れたぞ。」
少年の取り調べの後に斉藤部屋に籠って何か調べていた斉藤忠司が戻ってきながら言った。
「被害者がアップしたタイ料理の写真に反応した全てのログを確認したら、確かに奴のサーバ経由で「イイね」をつけてその後退会したアカウントの痕跡があった。」
「あの少年が話している技術的なことを全部ひとりでやっている可能性はあるか?」
「あいつの話し方からするとあり得るな。この世には十歳で国防相をハッキングしたって化物もいるくらいだから。加藤が黒幕ってことは…なさそうだしな、感だけど。君たちをトモヤの家に案内した女も怪しいが…行方をくらましているんだろう?」
あの少年がこのバカげた仕組み全て作ったとか…そんなことがあり得るのだろうか。
神託がどうのこうのというのは妄想だとしても、あの奇怪なフェイスハガーは現に被害者を出している。
「鑑識から要請があってこれからトモヤの家にいくんだが、荒川、お前も来るか?」
斉藤忠司に俺もついていくことにした。元村良介と三上佐代子もついてきた。
俺たちが到着すると、少年の家にあったものほぼ運び出されていたが、部屋に鎮座する奇妙な機械はごっそり残っていた。
こいつの配線がかなり入り組んでいで下手に解体すると壊してしまう危険があるとのことだった。
斉藤忠司は少年の機械をあるこれ見て回った。
なぜか元村良介も機械の周りをウロウロして何かを確認しているようだった。
しばらくそうして二人は少年の機器を見て回っていたが、先に斉藤忠司が首を振りながら戻って来た。
「だめだ。全く見たこともない装置ばかりで、一つ一つが何をしているのか皆目検討もつかない。たぶん、あそこにある大きな箱状のやつがサーバかと思うんだが。」
斉藤忠司が奥の方にある黒い四角い箱を指さしながら言った。
そちらの方で機械を眺めていた元村良介もほどなくして戻って来たが、心なしか顔色が悪いように見えた。
ここ数日根詰めているからな…。彼女にフラれたばかりでやけになっている可能性もある。
今日は少し早く帰してやるか…と俺は奴の顔を見て思った。
そんな元村良介はため息をつきながら言った。
「現代のコンピューターが小さなチップの中でやっていることを、このデカさでやってるみたいです。が、僕にもよくわかりません。」
この元村良介の発言には斉藤忠司も驚いた顔で振り返って彼を見た。
元村良介は肩をすくめた。
「なあ、荒川、トモヤをここに連れてきてこの機械について説明させることは可能か?」
「それによって奴がこの事件の実行犯だと証明できる可能性が考慮されるなら可能だろうな。」
「じゃぁ申請してくれ。あいつが被害者に顔面のカニをつけた方法…なんちゃらカプセルを作った方法も証明しないとじゃないか。」
「ふむ…そうだな。」
「それから、あの占いサイトだけど。あれの仕組みも俺は知りたい。まあ、これは事件とはあまり関係ないかもしれないが…。」
「あれはただのデタラメじゃないのか?」
「いや、そうとも言えないぞ。お前たち、紫のハンカチは役に立ったんだろ?」
「まあ、そうだが、あいつは我々が行くことをわかってたみたいだしな…。斉藤、そう言えばお前はどうだったんだ? 確かポケットティッシュとか出てただろう?」
「ああ、それが…念のためにポケットティッシュを持ち歩いていたんだが、たまたま入ったトイレにティッシュがなくてな…。」
確かに当たりと言えば当たりだが…。何にでも当てはまりそうな物でもある。
「まあ、そういう訳で、もしも本当だとしたら、すごい技術だぞ。人類の歴史が変わるかもしれない。」
「でも斉藤さん、もしもトモヤくんの証言が全て本当だとしたら、レシーバーと言われる人たちを犠牲にしないといけないのでは?」
これまで黙って我々のやりとりを聞いていた三上佐代子が口を挟んだ。
「人間をあんな状態にしないと作動しないシステムだとしたら、倫理的に完全にNGですよ。」
斉藤忠司は、ふむ…と言って何か考え込んでしまった。
兎にも角にも、あの少年の現場検証はいずれ必要になるだろう。
俺は申請するよう元村良介に指示した。
署に戻ると、押収した証拠品を調べていたチームからすぐ来るようにと連絡が入っていた。
我々は急いで彼らの元へと向かった。
その調査チームでは少年の家から持ってきたフェイスハガーと、おそらく奴が話していたハガーカプセルとやらを解析しているところだった。
「これを見てください。」
我々が到着するとチームリーダーが早速説明を始めた。
「これは少年の家で発見されたカプセルです。」
チームリーダーが指し示したガラスケースの中を覗き込むと、そこには風邪薬のようなカプセルがいくつか置かれていた。
「これの中身なんですが…実に驚くべきものでした。」
チームリーダーはケースの下部に空いている隙間から中に腕を入れてピンセットでカプセルを開けた。
カプセルの中からドロっとした白濁色の液体が出てきた。
チームリーダーがその液体をピンセットで突くと、そこからメキメキとツノのようなものが伸びてきて、やがて液体は1メートルほどの棒状のものになった。
それはまるで適当な長さに切る前の千歳飴のようだった。
その棒がクネクネと気味の悪い動きをしたかと思うと、先端がジャキンと拡大したかと思うと、あのフェイスハガーの形状に広がり、ガチャンガチャンと何かを掴むような動きをした。
これが人間の胃の中で動き出し、口から出て顔面にかぶさる仕様であることは一目瞭然だった。
その悪趣味な構造に俺は吐き気を覚えた。
「どうして小さなカプセルからこんなものが出てくるんだ?」
俺はまるで漫画の中のようなできごとに、どこから質問すべきか見失ってアホみたいな言い方でチームリーダーに問うてしまった。
「フラクタル構造ですよ。」
チームリーダーはさも大発見のように勿体ぶった様子で言った。
「このカプセルの中には、あのカニみたいなものを紐状に変化させたものがフラクタル状に折り畳まれて収納されていたんです。これは、生物の細胞内にDNAが格納されている様子と酷似しています。一度開いてしまうと我々では再びカプセルに戻すことはできません。」
チームリーダーはピンセットの先で、フェイスハガーをツンツン突いた。
突かれたフェイスハガーは、尻尾の部分をグルグルとトグロのように巻き始めた。
これは宿主の首を絞める動作だ。
「そんな扱いをして大丈夫なのか?」
思わず俺が声をあげると、チームビーダーはニヤリと笑った。
「こいつはこうやって動きはしますが、このままでは人間にはくっつけないようです。何か条件が足りないのかな? おかげでじっくり調査ができました。ほら、ここをこうすると…」
チームリーダーが尻尾の付け根あたりをピンセットで押すと、顔面に被さる部分の鉤爪がガシャンと開いた。
「ここを押すと、こうやって開きます。これで被害者の画面から剥がせると思いますが…鉤爪は脳に達しているんですよね?」
「そうだ。」
「それなら下手に外さないほうがいいですね。被害者の安全は保証できない。」
「あの小僧もそう言っていたな。」
「とにかく、これは現代の科学技術では説明できない代物です。」
「技術はすごいかもしれないが、容疑者の作ったものだぞ。あまり入れ込むな。おまえもだぞ斉藤。」
俺は目新しい技術に目がくらんでいるチームリーダと斉藤に一喝を入れておいた。
カプセルの仕組みはさっぱり解明されなかったが、少年の家にあったというだけでも充分証拠となるだろう。
我々は自分たちのデスクへと戻った。俺の机には今日中に目を通すべき資料が山のように積まれていた。
元村良介は少年に何かあっと思われる二年前の調査の続きをやると言ってパソコンに向かった。
斉藤忠司は斉藤部屋へ戻り、三上佐代子は別の打ち合わせがあるとのことで部屋を出て行った。
俺は黙々と書類を片付けに入った。
ふと視線を感じて顔を上げると、元村良介が正面に立っていた。
時計を見るとあっとゆうまに三時間が経過し、ほとんどの職員は帰ってしまった後だった。
「荒川警部。二年前の捜索願いや事件、児童虐待などの情報を片っ端からさらいましたが、トモヤと関係しそうなものは見つけることができませんでした。」
「そうか…。今日はもう帰ってゆっくり頭を休めて明日からまた調査を頼む。」
元村良介は一礼すると帰って行った。
俺も最後の書類を片付けて帰宅の途についた。
途中で気になって少年の家に向かった。
奴の家は未だ機械が残されているために、警備がついて人の出入りが制限されている。
俺は警備に手帳を見せて中に入った。
警備の男は家の入口に立ってこちらを見ていたがそれ以上は近づいて来なかった。
俺は少年の機械を眺めてまわった。
斉藤忠司にわからないものを俺が見てもわかるはずもないが…。
機械の側面には様々なボタンやレバーのようなものが飛び出していたが、それの用途を示すラベルなどは一切ついていないので、何の機能があるのはさっぱりわからなかった。
ひとつひとつの部品を眺めていて、俺は妙なものを見つけた。
それは機械の端の方にひっそりと突き出している部品だった。
アルファベットのUとYが合体したような、どこかで見たことがある形状…。
その部品に近づくと、ポケットの中で何かが激しく振動しはじめた。
俺は携帯電話が鳴ったのかと思いポケットに手を突っ込んで取り出すと、それは奴らの集会で手渡された音叉とかいう道具だった。
その音叉がひとりでにキーンと鳴っていた。
俺はチラっと警備員の方を見たが、彼は先ほどと全く変わらない表情でこちらを見ている。
まさかとは思うが、彼にはこの音が聞こえていないのか?
そうとしか思えない反応だった。
俺は鳴り響く音叉を持って途方に暮れた。
その瞬間だった。
急に静寂が訪れたかと思うと、辺りが真っ白な光で溢れ、目の前にあった機械はもちろん、少年の部屋ごと全てが消えてしまった。
俺は上下もわからないほどに真っ白な空間に立っていた。
ここがどれほどの広さかもわからない。
そして瞬きをした瞬間だった。
信じがたいことに、目の前にあの少年が立っていた。
取り調べを受けていた時と全く同じ服装で、そこに立っていた。
「驚いたな。荒川さんまでここに来るとは。」
俺はパチクリと瞬きをして少年を見た。
これは…なんだ? 幻覚の一種か?
それにしてははっきりし過ぎている。
「混乱している? 当然だよね。ここはね。レシーバーが送信して来た情報を一時的にため込むための空間だよ。」
俺は目の前にいる少年が実在するのか確かめたくなって、指先で腕のあたりを突いてみた。
少年には実態があり、そこに存在しているようだった。
「やめてよ。僕は本物だよ。元村さんの方が順応力があるね。」
元村だって?
「うん。昼間に来た時にね。」
昼間に現場検証した時か…。
まて、俺の心が読めるのか?
「うん。ここでは全てが情報化するからね。」
ふーむ…これはやはり幻覚なのか…?
「違うってば。面倒な人だな。じゃあこれを見てみて。」
少年が言った途端に、俺の脳内に強烈にイメージが飛び込んで来た。
それはこの家の上空から街を見下ろしている場面だった。
そこから、このビルの屋上が見えたのでフォーカスしてみると、グッと視界が建物の中に入り、俺が機械の前で立ちすくしているのが見えた。
入口には警備が立っている。
再び視界を上空に戻すと、ぐるりと街を見回してみた。
それで俺はこの街の今この瞬間を全て把握していることに気が付いた。
これは人知を超える体験だった。
俺は同時にこの街の全ての場所に存在していた。
小さな目に見えない微生物の営みまで俺は把握していた。
ただ、少年の家にある機械や、被害者の顔面に張り付いているフェイスハガーの仕組みだけはさっぱり見えなかった。
これは、恐らく、この街に属しているものではないのであろう。
圧倒的な情報量に俺の魂は限界に達した。
俺は叫んだ。今にも気が狂いそうだった。
すると、街の全情景がすっと消えて、俺は俺に戻ることができた。
「どう?」
「確かに、これは俺自身が作り出した妄想とはとても思えない…」
「そうでしょう? これはここにある情報のほんの一部だよ。レシーバーから送られてくる情報はこれだけじゃない。現在過去未来、それから平行する次元に至るまで、全てを知ることができる。」
「それをあの占いサイトに使っているのか?」
「うん。そうだよ。解って来たね。でも、荒川警部が生身で耐えられる情報量はこれで限界かな…ちょっと被ばくしすぎたかな。
戻った時に記憶は削除させてもらうけど…でも何か影響してしまったかもな…。そしたらごめんね。でもこの体験は人にとって悪いようには働かないはずだから。」
「元村も来たと言ったな。奴にもこれを見せたのか?」
「うん。元村さんにはもっと見せたよ。大丈夫そうだったから。あの人はちょっと異質だよね。からっぽ…というか器だけしかない。」
「俺には何も話してなかったぞ。」
「見せたものの記憶を全部消して欲しいって頼まれたからね。」
「お前はこれで何をしようとしているんだ。」
「別に何も。僕が知ってしまったことをみんなにシェアしたいだけだよ。」
「罪のない人を犠牲にしてもか?」
「犠牲ではないよ。僕は彼らを救っているんだ。ほっといたらどっちにしろ死を選んでしまう運命にある人達だ。本当はあと一人いるはずなんだけど、先に僕が君たちに見つかってしまったから救えなかった。」
少年は本当に残念そうな顔をした。
狂っている。
この状態も、この少年も、恐らくは俺も…みんな狂っている…。
「そこまでにしておけ。」
後ろで急に声がしたので、振り返ると、なんとそこには元村良介が立っていた。
「おや…元村さん。どうやってここに来たんですか? 僕の家からではないようですが…。」
元村良介の登場に少年も心底驚いているようだった。
「どうやって来たのかはわからない。道ができていた。トモヤ。荒川警部にちょっかい出すのを今すぐやめろ。」
少年が肩をすくめて見せた。
その瞬間、俺は再び少年の家の機械の前で音叉と向き合っていた。
音叉の音は止んでいた。
警備員の方を見ると、何も気が付いていない様子で同じようにこちらを向いているのが見えた。
音叉に視線を戻すと、急激にたった今起こった不可思議な経験の記憶が失われて行くのを感じた。
それは目覚めた時に夢の記憶が失われて行くのに似ていた。
俺は必死で逃げていく記憶にしがみついたが無駄だった。
数秒後には俺はすっかりここで起きたことを忘れてしまった。
何か起きたことは覚えているが、それが具体的に何だかったのかまるで思い出せないのであった。
ずっと考えていると、チラッと一瞬記憶が戻りそうな気配もしたが、それはすぐにスルリと意識の奥へと消えてしまうのだ。
俺は思い出すことを諦めて、警備に礼を言うと、自宅に戻った。
家内と娘に出て行かれてから、ずっと一人で暮して来た家にはまるで生活感はなかった。
途中のコンビニで買った弁当を開けて食べた。
風呂に入り布団に入ると、悶々とした気持ちになった。
何十年も刑事をやってきて、こんな気持ちになるのは初めてだった。
あの少年の家で何かあったような気もするが思い出せなかった。
ただ、全てがどうでもいいような気持ちになってきてしまった。
朝起きても、気持ちは晴れなかった。
頭が重く体が動かなかった。
俺はその日仕事を休んだ。
熱があっても出勤するくらい仕事だけが生きがいだったのに、俺は初めて “気が乗らない” というだけの理由で仕事を休んだ。
昼前に元村良介から電話があったが出なかった。
午後に誰かが家にやってきた。
玄関のドアの覗き穴から見てみると、元村良介だった。
「体調が悪いんだ。ほっておいてくれ。」
俺はドア越しに言った。声を聞けば多少安心して帰るだろうと思ったが、元村良介は意外と粘った。
最終的には俺が怒鳴り散らして奴を追い返してしまった。
その後、俺は仕事に復帰することなく、一週間休み、そのまま退職した。
俺は住み慣れた家を売り払うと、人里離れた山奥の古民家を買い取り、そこでほぼ自給自足の暮らしを始めた。
行先は誰にも告げなかった。
街はノイズが多すぎる。
山の中にいれば心が安らいだ。
俺は毎日、あの少年の集会で貰った音叉を取り出し、その音を聞いた。
これがただの音叉であることは解っているが、音を聞いているとザワつく心が落ち着くのだった。
電話も持たず、テレビもインターネットも見れない環境し、新聞だけ取るようにした。
新聞は思想の異なる3社のみを購読した。
そこから得られる情報はごく少ないが、あの少年が精神鑑定を受けることになったらしいことはわかった。
しかし、かの事件の情報を目にすると動悸がするようになってしまったので、極力新聞も読まなくなってしまった。
ここで俺は人生を終えるのか…。
それもいいのかもしれない。
この世界は混沌としている。
俺には刺激が強すぎる。
俺には、刺激が強すぎる。
(おわり)
アルカデルトの神託 大橋 知誉 @chiyo_bb
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