第5話


 こんなにも憂鬱な気分で学校へ行くのは一体いつぶりだろうか。

 電車の中で何度も引き返そうかと思ったが、何とか足を引きずってここまで来たのだ。


 一度大きく深呼吸をしてから、勇気を出して教室の扉を開く。


 「あれ……」

 

 チラリと視線を寄越されるだけで、誰も何も言ってこない。

 熱い視線は相変わらずだが、冷やかしなどの嫌な感情が籠ったものは一つもなかった。


 戸惑いつつ席に着くが、教室はいつも通りの空気感が流れている。

 

 雅リアは既に登校しているにも関わらず、春吹なつめの学園生活は何も変わっていなかったのだ。


  



 なぜ雅リアは言いふらさなかったのだろう。

 そんな疑問を抱えながら、昼休みに図書室へ行った足で、そのまま空き教室へ向かっていた。


 借りていた分厚い本を返却したため、随分と左手が軽い。


 膨れ上がる疑問に悶々としながら、いつも通り空き教室の扉を開けば、そこに広がっていた光景に目を見開いた。


 「本当にここでしちゃうの?」

 「いいじゃん。やだ?」

 「えー、しょうがないなあ」


 二人の女子生徒が、いやらしく体を密着させながら甘い空気感を垂れ流している。

 一人はリボンの色が緑色なため、一つ年上の三年生。


 そしてもう一人は、昨日からなつめの心を支配している雅リアだったのだ。


 驚きでランチバッグを落とせば、ガシャンと衝撃音がその場に響き渡る。


 驚いたように、彼女たちがなつめの方を見やった。


 「げ、王子じゃん。やばっ…」

 「嘘っ…あ、あたし教室戻るから」


 さっさと腕から抜け出して、上級生がいそいそとその場を後にする。


 甘い空気感を壊されて、リアはわざとらしくため息を吐いた。


 「王子何しに来たの?ストーカー?」

 「…雅こそ何しようとしてたの」

 「それ聞くの野暮じゃない?」


 あまりの貞操観念の緩さに絶句してしまう。

 転校して2日。恐らくほぼ初対面の相手と、情事に至ろうとしていたのだ。


 しかしリアは悪びれる様子もなく、ケロリとしていた。


 「今の黙っててよ。流石の私も停学は避けたいし」


 お願い、と両手を合わせている彼女に向かって首を横に振る。


 現行犯でそんな現場を目撃して、見逃せるはずがなかった。


 「流石に校内でそう言う現場を目撃して、見逃せない」

 「は?」

 「黙ってて欲しいなら、まずは髪色も直して」

 「じゃあ言い方変える。こっちも黙っててあげるから、王子も黙ってて」


 卑怯な交換条件に、グッと下唇を噛み締める。


 彼女は良心で黙っていたのではなく、いざと言うときの交換条件のためになつめの秘密を取っておいたのだ。


 「……証拠は?転校してきたばかりの転校生の言葉を簡単に皆んな信じると思う?」

 「写真あるよ、お姫様」

  

 後手で空き教室の扉を閉めてから、急足で彼女の元まで近づく。

 

 余裕そうな表情に、完全に彼女に主導権を握られていることを理解した。


 「…っ、なんでそれ…」

 「みんな見たらびっくりするんじゃない?女子校の王子様が、中学生の頃はお姫様って呼ばれてたなんて」


 彼女に会ったのは昨日が初めてなはずなのに、全てを知られている。

 忘れたくて仕方なかった黒歴史を、雅リアに知られて掌握されてしまっているのだ。


 ばらされたら今まで積み上げてきたものが台無しだ。


 「……ッ」


 中学時代の記憶がフラッシュバックして、絶望感が込み上げてくる。


 廊下を歩くだけで女子生徒から冷たい視線を送られて、悪口や仲間外れにされる日々。


 もう2度と味わいたくない感情を思い出して、ゆるゆると首を横に振れば、リアはニヤリと勝ち誇った笑みを浮かべた。


 「じゃあ、お互い様ってことで」

 「最低…大体、何で知ってるの…」

 「有名だったよ?西中のテニス部マネージャーは天使みたいに可愛くて、お姫様って呼ばれてるって。私も中学まではテニスやってたから、何度か試合で見たことある」


 彼女もなつめも中学時代は栃木で過ごしているため、同じ試合会場に居合わせていた可能性は十分にある。


 知らぬうちにすれ違って、今こうして弱みを握られてしまっているのだ。


 「写真は?」

 「隠し撮りした。可愛かったから」

 「…肖像権の侵害」

 「まあいいじゃん…それで、何でお姫様が王子様になったわけ?」


 好奇心に満ちた目を向けるリアに対して、最後の悪あがきをする。


 いくら弱味を握られていたとしても、意のままに言うことを聞かされるのだけは嫌だった。


 「…あんたにだけは絶対言わない」


 随分と可愛くない言葉にも関わらず、雅リアはおかしそうに笑い出す。


 「いいね、強気でツンツンしてて。みんなの前では王子様キャラのくせに」

 「別に普段はツンツンしてない。雅がムカつくからこんな態度なだけ」

 「へえ?」


 常人であれば怒るであろう挑発にも乗ってこない。


 ヘラヘラしているように見えて、感情的にならないあたり地頭が良いのだろう。

 

 「化粧してるの可愛かった」

 「思ってないくせに」

 「本当。あの格好だったら全然いけるし」


 勝手に値踏みをされたようで気分が悪く、鋭く睨み付ける。

 精一杯怖い顔をしたつもりでも、雅リアはちっとも怖がらなかった。


 「女の子らしいフェムしか無理だから、私」

 「あんたなんかタイプじゃないから」

 「私も今の王子はタイプじゃないよ」


 分かりやすい挑発を返されて、なつめの方が怒りが込み上げてくる。


 これでは相手の思う壺だと言うのに、すっかりペースを乱されて翻弄されてしまっているのだ。


 史上最悪な気分の中、思うことはただ一つ。


 たとえ地球がひっくり返ったとしても、この人だけは絶対に好きにならないだろう。

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