第8話


「その窓際に椅子置いて座って。よしその表情!いいぞ!ストップ!キープ!」

「いやキープは難しい」

「喋るな!」


 絵のモデルをするなんて言い出すんじゃなかった。


 星野は心底後悔しながら、極力表情を動かさないよう努めた。しかし、既にトイレに行きたいような気がしている。


 森本先生が準備室で話し込んでいるのを良い事に、星野と大月は図書室を抜け出して美術部の部室に来ていた。気づかれるのは時間の問題だと思うと、星野は気が気ではない。


「写真に撮るなら、写真を見て後で描けばいいんじゃないか?ここでこうする必要ある?」

「黙れ!」


 黙ればいいんだろこの野郎、という言葉を飲み込んで星野は口を噤んだ。大月は色々な角度から写真を撮ると、正面に置いたイーゼルの前に座った。


「じゃあ、今から始めるぞ」

 その宣言を最後に、部室は静かになった。―――大月は完全に集中しているようだった。


 ケント紙の上に鉛筆の滑る迷いの無い音が静かな部室に響く。近くの教室の英語のリスニングの音声が聞こえてくる。大月の視線が星野に向けられ、すぐに手元に戻される事が何度も繰り返される。


 最終的にはどういう絵になるのだろうかと、星野はようやく不安になりはじめた。似顔絵屋にある、身体的な特徴を極端にデフォルメされた芸能人の絵のように、面白可笑しくされるのかもしれない。そして不細工な陰キャの似顔絵は、文化祭に来た人たちの笑いを取るのだろう。


 何せ、肖像画と言っても写真のようにそっくりに描く事だけが肖像画ではないはずだ。星野をどう表現するかは大月の自由なのだ。


 何だか、怖い目だ。


 星野は逃げ出したくなってきた。こんな風に他人にじっと見られた事はこれまで無かった。大月の目は、単に座っている人間の姿を描こうとしている目ではないように思われた。


 星野は急に、自分の体には自分自身からはけして見えない部分があるという事実に気付いた。大月はそれを見る事が出来る。


 視線は星野の表面をまんべんなく這い、どこかにある裂け目を見つけて、肉体の中身まで見ようとしているかのようだった。


 大月にそんな事は出来無い、と星野は自分自身に言い聞かせる。シャーロック・ホームズでもあるまいし、座っている人間を観察するだけで内面まで見抜ける訳がない。


 それでもひどく不安な気分だった。大月は画家の目を持っているから分かるのかもしれない。わざわざ自分の小説なんて読まなくても、自分がどういう人間かという事が分かるのかもしれない。


 自分が、どういう卑怯な人間かという事が。

 息が詰まる。とても苦しい。


「あのさ、トイレ行きたいんだ。人間としての尊厳を失いそうになって来たから、あと五分で終わりにしてくれよ」


「先にトイレ行けって言っただろ。まだ十分も経ってねえよ、せめてあと二十分」


「今書いてるもの読ませるから」

「え?」

 大月は手を止め、驚いた顔をした。


「読ませるから、これで終わりにしよう。本気で漏れそう!」


 デッサンはそこで終了になった。翌日約束通り、誤字脱字の訂正用にプリントアウトしていた赤字だらけの原稿を星野は大月に手渡した。 


 その描きかけのデッサンがどうなったのか、星野はあえて尋ねなかった。考えたくなかったのだ。

 文化祭当日、おそるおそる美術部の部室を訪れると、高校の部活動の成果とは思えない絵が一番目立つところに飾られ、展示を見に来た人は皆そこで足を止めていた。


 浅黒い肌、すきっ歯になった前歯、頬にポツポツと目立つ赤いニキビ。優しい目線で描かれた、くしゃりと笑う星野の幼馴染の絵だった。



 人生で初めての家出だ。


 星野は一度振り返ってアパルトマンを見ると、スーツケースを引いて夜の街を歩きだした。星野の実家は母一人子一人の母子家庭のため、このように家を出て行こうなどと考えた事は無かった。


 自分はこういう無計画な事が出来る人間だったんだなと妙に感心していた。この間までは、部屋の外に出るのも恐ろしかったのに。  


 自転車に乗る練習をしていて、後ろを支えてくれていた母親の手がいつの間にか離されていたことに気付いたような気分だった。


 こんな風に行動した事は、これまで一度も無かった。親が離婚した時も、中学時代いじめられていた時も、高校時代に友達が一人もいなかった時も、二作目が売れず就職を決めた時も、今以上に何かをする事は余計に物事を悪化させるだけだと思い何もしてこなかったのだ。



「なるほど、それで私を頼ってきたのか。自力で空いているホテルを探そうとは考えなかったのか?もしくは、友人のフランス人女性の家に泊まらせてもらおうとは?私の言動のどこかに、君に誤解させる部分があったかな」


 美しいイギリス英語を操る口調は怒ってはいなさそうなのだが、ブライアンの顔は完全に無表情だった。


「パリの安いホテルに当日空き部屋なんてないかもしれないと思って―――あの、観光地だし京都と同じような状況なのかなと。ニコラは若い女の子だし、押しかけるのはさすがにちょっと……。すみません、ごめんなさい。やっぱり公園で寝泊りします」


 満喫かネットカフェのようなものがあればそこで寝起きするのだが、パリにそんなものは無さそうだ。ブライアンが泊っているホテルの名前は何かの拍子に大月から聞いていて、ニコラとバス観光した際に「あそこの有名なホテル」と教えてもらっていたので場所を知っていた。アールデコ様式の高級ホテルで、地下鉄の駅からもすぐだった。


 ブライアンは怖い人だが、悪い人ではない。大月の面倒を見てくれている人なのだ。もしかしたら、一晩の宿くらいは貸してくれるかもしれないと思った。


 まるでどこかの宮殿のようなロビーでフロント係に呼び出してもらい、すぐにやって来たブライアンは丁度仕事から帰ってきたばかりというスーツ姿だった。


「君はシャイに見えて、非常に図々しい」

「まさしく……」

「まあいい。ついてくると良い。追い返したらレオが怒るだろうからな」


 大きなため息をついて踵を返して歩き出すブライアンの後ろ姿を星野はぼんやりと見た。これは要するに、泊めてくれるという事なのだろうか。



 ブライアンはホテルのレストランで夕食を奢ってくれた。レストランの席は部屋の中央に飾られた無数の鮮やかな大輪の芍薬のすぐそばで、かぐわしい香りがした。 


 ブライアンの泊まっている部屋はいかにも優美な内装で、星野の漠然としたおフランスのイメージと完全に合致していた。オフホワイトの家具の縁取りは全て金色、窓辺に分厚いタフタのカーテンがかかり、床には総柄の華やかな絨毯が敷かれている。


 鎮座しているキングベッドを見て、星野はブライアンが無表情だった理由を理解した。


「……あの、床にバスタオルか何か敷いてその上で寝るつもりで」

「もう今日はそれしかないだろう」


 ベッドの上には書類が散らばり、備え付けの書き物机にはノートPCが置かれている。

 星野はそのうちの一枚を手に取った。それは大月が個展を開く貸しギャラリーのチラシだった。


「眼鏡の男性と大月が大喧嘩をしていましたが、この仕事の件でしょうか」


「ジョージだな。パリの内装デザインの事務所でアシスタントをしている。レオの大学時代の知人で、その縁もあって会場の設営に協力してくれるという話だったんだが―――」


「大丈夫なんですか?あと三日しかないじゃないですか」

「共同作業を学ばない後始末は本人にさせる」 


 ブライアンはジャケットを脱ぐと備え付きのケトルでお湯を沸かし、手ずから紅茶の準備をし始めた。星野がここ最近の出来事を説明すると、さもありなんという風に頷いた。


「大学時代も同じグループの人間とよく衝突していた。というより、よくグループに入れてもらえたものだと感心していたくらいだ。日本人というのは協調性があるものだと思っていたが、レオに会ってから認識が変わった」


 大月を日本人代表だとは思わないで欲しい。ブライアンは紅茶を淹れ終わると、繊細な柄のティーカップを星野に手渡した。 


「君とは例外的に仲良くやっているのかと思っていたが、難しいようだな。レオから、星野は高校の時からの友人だと聞いたが、どうやって彼と仲良くなったんだ?何故仲良くなろうと思った?」


 何故大月と仲良くなろうと思ったのか?


 星野は考え、無意識に部屋の中を歩き回り、とうとう張り出し窓の幅広の桟の上に置かれたマットに腰を下ろした。背もたれに使うクッションも置かれ、まるで小さなソファのようになっている。


 窓の向こうはパリの中心部で、大月のアパルトマンの窓辺からの眺めより圧倒的に華やかな夜景が広がっている。


「自分達は高校の修学旅行に行かなかったので、四日間一緒に自習したんです。それまで話した事もなかったんですが、他に話し相手がいない状況だったので―――それがきっかけです。仲良くなろうと思った訳では無く……。今も、友達と呼べるかどうか」


「君が小説家というのは本当か?レオの方便ではなく?」


 小説を書いて生計を立てていない人間を小説家と呼ぶだろうか?四年前は小説家だった、と言った方が正しいのではないだろうか。


 星野はブライアンのような人間の前で、自分は小説家であると断言出来なかった。才能で生きる人間達を相手に仕事をしている彼には、鼻で笑われるだろう。


「……典型的な、一発屋の、生き残れなかった作家です。秋の修学旅行の頃はちょうど応募原稿を書き終えたところで、あいつが最初の読者でした。だからあいつは……自分を理解した気になって、友人認定してきたのかもしれません」


 口にしてみると、自分でもそれかもしれないという気がしてくる。その理屈だと読者全員が星野の理解者という事になってしまうのだが、あの頃は大月も世界が狭かったので、そういう風に勘違いしたのかもしれない。


 ブライアンはわずかに首を傾げた。


「とにかく、一緒に暮らさないかと誘われたくらいなんだから、君は他の人間よりはレオと仲が良いんだ。シングルベッド二つの部屋に変更して、何日でも宿は貸そう。だから、どうか日本に戻る前に君の口からレオにロンドンに戻るよう伝えてほしい」 


「自分はうるさくしすぎて嫌われてるからですか?」

「今何か?」

「すみません……」


 星野は何かが投擲されるのを恐れ、そろそろとブライアンから距離を取ってベッドの反対側に回った。ブライアンはため息を付き、髪をかき上げた。


「レオとはロンドンで喧嘩別れしたんだ」

「喧嘩別れ?」


「レオの大切な絵を売ってしまった。あれは手元に置いておきたかったらしい。相手は資産家のコレクターで、自分の名前の付いた美術館であの絵を展示している。買い戻すのは難しい。彼が学生時代に描いた、日本のブンカサイとかいう行事で展示していた記念の絵だったらしいから、君も見た事があるのかもしれないな」



 晴天のセーヌ川の河畔で、ニコラは爆笑していた。周囲の人がギョッとした顔で振り向いている中、殺虫剤をかけられ死にかけているゴキブリのようにひっくりかえって身をよじっている。


 星野は無言でニコラを見下ろした。ニコラの淡い金の髪が日差しの中でキラキラ光りながら芝生の上に散らばっている。めくれ上がったTシャツから、透けるように白い平らなお腹が覗いて痙攣しているのが見える。


「うわー、その年で家出したんだ!でも、これからどうするの?」

「実家に連絡して、日本に帰ろうと思ってるんだ」


「日本に帰っちゃうのか、寂しいなあ。私は貧乏だからそんなに遠くまで旅行出来ないよ。はやくちゃんとした女優になってお金稼がなきゃ」


 ニコラは眉をひそめて呟いている。会社を辞める時、星野は誰からも寂しいとは言われなかった。ニコラと友達になれただけでもパリに来た甲斐があったと思う。


「最後に―――一応、大月の個展を見てから帰りたいと思うんだ。もしよかったら」


 一緒に行こうと誘おうとした時、ニコラの方が先に口を開いた。


「あいつうちの店が気に入っているらしくて、初日のオープニングパーティーにケータリングするんだよ。星野、手伝いたい?運んで並べるだけだけど。こっちとしては、人手が増えれば有難いし」


 星野は何度か瞬きをした。個展に行くための自然な理由を手に入れたように思われるが、これには問題がある。


「自分は不器用だし言葉も分からないし……絶対に足手まといになる」


 星野は働く事が怖かった。賃金をもらわないにしても、自分に役割が与えられ、初めてやる事を責任を持って全うしなくてはならないという状況が怖かった。


「怖がっているの?運んで並べるだけの事を」

 黙っている星野にニコラは眉を上げ、美人台無しの変顔をしてみせる。


「……怖いんだ、変だって思うだろうけど。想像するだけで息が苦しい。ちゃんと出来ないよ」

「叱責される事が怖いの?他人に迷惑をかける事が怖いの?」


 星野は曖昧に首を振った。そのどちらも怖いのだ。


「じゃあ、友達の顔を見ないで日本に帰っちゃうんだね」


 これから先一生働かないつもりなのか、とはニコラは言わなかった。相変わらず人を小馬鹿にしたような変顔のままではあったが。


 だから星野は首を振った。小さな声で反論した。  


「帰らない。もちろん手伝うよ……運んで並べるだけだろ」

「その通りだよ」

 ニコラがニッと笑ったので、星野は情けない笑顔を返した。



 星野はフランス語もイタリア語も理解出来ないが、フランスパンのように太い腕をした禿頭のトニーが何を言いながら自分を怒鳴っているのか大体検討が付いた。  


 異国の地にて理解出来ない二種類の外国語で叱責され、それを年下の女の子に目撃され笑いをこらえられるというのは新たなトラウマ経験だった。また一歩再就職への道が遠のいた。


 いざこざがありながらも、三人と食料を乗せたワゴン車は無事に個展会場となる貸ギャラリーへ辿り着き、星野はやっとの思いで搬入のため会場に入って行った。


 貸ギャラリーはビルの地下一階・二階にあり、地下一階は展示とパーティースペース、地下二階は展示のみの仕様となっているようだった。


 床面積がそれほど広いわけではないものの、天井が高く、窮屈な印象は与えない。照明は暗く、打ちっぱなしのコンクリートの床が無機質な印象を与える。パーティースペースにだけラグが引かれ、ちょっとした机と椅子が用意されていた。


 星野には、すでにこの場に大月がいたらどうしようかと気を揉む時間も無かった。トニーの監視の目に怯えながら淡いブルーのテーブルクロスをかけ、大皿を並べていく。もはや本来の目的を忘れ、すっかり新人アルバイターだった。


 一通り作業が終わると、ニコラは油染みの付いた黒いエプロンを脱ぎながら言った。


「今日はこれで仕事終わりだから、私も見ていこうかな」


 気付けば開場時間になり、パーティー開始までは時間があるものの、すでに客が入ってきている。星野は一緒に行こうと言いかけて顔を上げたが、既にそこにニコラの姿は無かった。


 好奇心の赴くまま、フラッと見に行ってしまったらしい。


「ニコラ?」


 ルーブルほど広いという訳ではないのだ。すぐに見つかるだろうから、とりあえず一人で観てみようと星野は思った。

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