第7話
三
二日間は机の端と端で過ごしていたのに、三日目の今日、大月は何故か星野の正面に座った。
こんなに広い机なのだから右か左に一つズレて座ればどうかと星野は思うのだが、大月は移動する気配を見せなかった。
昨日の部室では饒舌だった大月は、今は何も言わずにうつむいて黙々と勉強している。
先ほどまでカウンターにいた森本先生は図書準備室に引っ込み、遊びに来た英語の臨時教師と話に花を咲かせているようだった。
「肖像画を描きたい」
いつの間にか、大月は顔を上げて正面の星野を見ていた。脱色して染めた赤い髪とは裏腹に、大月の自前の睫毛が薄い茶色をしている事に星野は初めて気が付いた。
「え?」
「部活の文化祭の展示が肖像画に決まったんだ。肖像画って言っても大層なものじゃなくて、内輪受けのお遊びで、要は似顔絵だよな。自分の知っている人間の絵があれば、嬉しいだろ?生徒でも、芸能人でも」
「ああ、そうかも」
「未来は俺をモデルにして描きたいってさ。まあ俺は顔が良いから、やりがいもあるんだろうよ。俺はまだ決めてない。未来にモデルになってもらってもいいし」
へえ、と星野は内心の動揺を悟られぬように慎重に答えた。今時、肖像画というのはどのように描くのだろうか。スマホで写真を撮って、それを見て描く?それとも、昔ながらにモデルを長時間拘束して対面で描くのだろうか。
「でも星野、お前はどうせ今日一日暇だよな?」
大月にノートパソコンを盗られていなければやりたい事はあったが、返してもらえない以上、それは出来ない。星野は今手元にある課題に目線を落とす。これも、土日にやっても間に合うものだ。
「絵のモデルって興味ある?」
大月はそう言ってから気まずそうに咳払いした。それが高圧的な命令ではなかったことが意外で、星野は少し驚いた。
気付くと、頷いていた。
「……いいよ。代わりにパソコン返してくれるなら」
その時、星野はその絵が文化祭で多くの人の目に触れるという事には全く思い至っておらず、デッサンの練習台になるくらいのつもりでいた。ただ、大月と未来にこれ以上近づいて欲しくなかったのだ。
*
ヴィンセント・ファン・ゴッホが存命中はたった一枚の絵しか売れず、貧しい生活を送っていたというのは星野でも知っている話だ。
印象派が世に出た時に全く受け入れられず、ルノワールの裸婦の肌色が「腐った肉の色」だと激しく批判に晒されたというのも、聞いたことがある。
比べれば大月は若い内から評価され、恵まれた立場だと言える。だから天狗になって、ああいう振る舞いをするのも仕方がないのかもしれない。
……多分。
星野はリュクサンブール公園の前回と同じベンチに朝早くから座っていた。昨晩から、大月とは口を利いていない。
星野にはあの場で怒りに任せて家を飛び出し異国で一人きりになる度胸はなく、翌朝になってから家を出て公園にやってくるくらいがせいぜいだった。公園以外に無料で過ごせる場所も知らない。
星野はぐすっと鼻をすすった。暑くもなく寒くもないのに鼻水が出るのは何故だろう。
その時、偶然目の前を通り過ぎようとしていた人物が、何かに気付いたように立ち止まった。星野もその人に気付き、顔を上げた
。
「こんなに朝早くから、一人で何してるの?」
笑い含みの声は、フランスなまりの強い英語で話しかけてきた。星野は、それが英語だと理解するのに少し時間がかかった。
何も言えずにいると、ブロンドの美女はおどけた顔で首を傾げた。細身のダメージジーンズにビッグサイズのTシャツを着ていて、袖口から細い腕が伸びている。大人っぽく見えるが、雰囲気からして実際は星野よりも年下かもしれない。
「あ、分かった。恋人の画家にフラれて追い出されたんだ」
「恋人じゃありません、友達でもありません!…‥‥どうして一緒に住んでるって知っているんですか?」
反射的に返事をすると、美人は眉根に皺を寄せて下手な英語と呟いた。それは、完全にお互い様だった。
✳
「私はニコラ・ジレー。ニコラって呼んでいいよ。ほぼピザ屋の店員、たまに女優。私の働いてるピザ屋で会っているけど、覚えてる?あんたは何て名前なの?何してる人?」
ニコラは星野の隣に胡坐をかいて座り、星野の顔を見ずに紙袋から取り出したキッシュをむさぼりながら自己紹介した。長い髪からチーズの匂いがする。
「日本人で、星野友と言います。フランス語は話せません、英語でしたら少し。あなたの事はもちろん覚えてます。今はほぼ無職で、画家に居候させてもらっています」
星野はその場の流れで美貌のパリジェンヌと一緒にベンチに座ることになり、緊張していた。ニコラは淡い緑色の目を見開いて星野の顔を覗き込んだ。
「ほぼ無職?無職じゃない時は何してんの?」
作家、と消え入りそうな声で星野が言うと、すごいじゃん、とニコラは笑った。中性的に整った顔立ちが、笑うと子どもっぽくクシャリとなる。
容姿は全く似ていないが、笑い方が未来に似ている、と星野は思った。
「でも、売れてないんでしょ」
「……当たりです」
「そんな感じする。で、ルームシェアしてる友達の画家は成功してるんだ。それでとうとう追い出されたってわけか」
ニコラは何かが落下するジェスチャーをして顔をしかめた。
「成功は人間を変えるから」
ニコラは思い違いをしている。どうやら、大月と星野が貧しく芽の出ない時代から支え合って暮らしていた芸術家仲間か何かのように思っているようだが、星野は最近やって来たばかりだし、大月に星野の支えは必要ない。
「そういう訳じゃありません。自分は最近パリに来たばかりなんです。ちょっと口論になって、喧嘩しただけです。自分もむしゃくしゃしてて―――あいつがすごい奴で、自分は大したことないから」
大月とは違い、星野には自分にしか出来ない価値のある仕事など無いのだ。だから、大月があんな風に話しているのを聞くと辛くてたまらないのだ。
「……ふうん。あの男をあっと言わせるようなすごい小説を書いて、見返してやらなくていいの?」
ニコラは両手を適当に払うと、立ち上がる。集まってきた鳩の群れを無造作に蹴っ飛ばす。
振り向いたニコラは、朝の光の中でいたずらっ子のように微笑んでいた。
「もしまだどこも観光出来てないなら、パリ市内なら案内してあげる。暇だから。小説の足しになるんじゃないかな?明日なら空いてるけど、どうする?」
どうする?と言われて星野は考えた。言われるまでも無く、一度はパリ観光した方が良いに決まっているのだった。
*
さっそく翌日、パリ市内を周遊する観光バスをニコラが予約してくれた。屋根なしの赤いバスの二階に座り、凱旋門やオペラ座といった観光名所を見て回る事が出来る。
吹きさらしの二階席に乗っているのはまるで見世物にされているような気分だったが、サングラスをかけブロンドを風になびかせたニコラが女優のように堂々としていたので、星野はその陰に隠れていられた。
バスではカジュアルフレンチも提供されて、セ・ボンと言って嬉しそうにしているニコラと一緒に食べると、星野にも本当に美味しく感じられた。
大月に悪いなとは思うものの、正直な話、ニコラと食べるそこそこの値段のフレンチは自慢たらたらの大月と食べる高級レストランのフレンチよりずっと美味しかった。
その後、二日かけてルーブル美術館を見て回った。大月と行けば色々な事を教えてくれたかもしれないが、オーディオガイドで日本語の解説を聞く事が出来るので、それで十分だと思った。
サモトラケのニケとミロのヴィーナスを見て、星野は本当に久しぶりに感動した。何かに感動するというのはこういう感覚なのだと、やっと思い出すことが出来た。
月並みだが、それはまるで人間の手が石の中に隠されていた生命を掘り出したようだった。少なくとも星野にはそうとしか思えない。今にも意思をもって動き出しそうな彫刻だった。
パッサージュと呼ばれる天井付きのアーケード商店街をニコラと散策し、星野一人では気後れして入れないお洒落なカフェでお茶をしてスイーツを食べた。
デパートを見て回り、母と篠原と未来のために食品や雑貨のお土産を買った。ヴァンドーム広場を訪れ、絶対に買えない宝飾店のシューウインドウを二人で馬鹿みたいに眺めた。
出会いからそんな所はあったものの、ニコラは強気そうな美しい顔立ちとは裏腹に小学校六年生男子のように振る舞う人だった。よく喋り、よく笑い、おどけてみせては星野を笑わそうとしてくる。
星野の生活は変化していった。青空の下を歩く事も、買い物する事も、食べた事の無いものや見た事のないものに出会う事も、不便な英語で会話することも、苦痛では無かった。
目を合わせるだけで笑いかけてくれる人が隣にいると、こんなにも息をすることを許されているような気分になるのだという事を、星野はこれまで知らなかった。
そんな日々の中、星野は相変わらずプロットを考え続けていた。ここ最近になって、やっと頭が回るようになってきたのだ。
日本から観光に来た女性が、街で偶然出会ったフランス人の青年と仲良くなり、パリを案内してもらい、そのうち恋に落ちるというのはどうだろう。フランス人の青年は日本語を喋れるという事にして。
―――あれ、どうして日本語が喋れるんだ?日本文化が好きだから?アニオタとか?それじゃ女の人はときめかないかもしれない。
青年は子どものころ日本に住んでいた事があるという設定が良いかもしれない。実は日本人女性の隣の家に住んでいたとか。青年は年下ということにして、女性は成長した青年に気付かないけれど青年の方は覚えていて……。
ストーリーについて考えをめぐらす事は、以前のように苦痛では無かった。昔はこれがとても楽しかったという事を、少しずつ思い出せるような気がした。
*
その日は午後からニコラと待ち合わせをしていた。モンマルトルの丘を散策して遅い昼食を食べ、夕暮れ時にセーヌ河の河畔に座る。目の前が観光用のクルーズ船の停泊場で、船の向こうに橋が見え、更にその奥にエッフェル塔の姿が見えた。
空気は初夏の匂いを含んでいて、今にも落ちそうな夕日が最後の輝きを放って河畔にいる人々の顔を赤く輝かせている。
ニコラは顔の前に手をかざしながら夕日を見て、「昼ご飯美味しかったな」と言うと長い腕を伸ばして伸びをした。
ニコラの言葉につられて、星野もフォカッチャに鴨肉とレタスが挟んであるサンドイッチを思い出した。思い出すだけでお腹が減る。
そして、自分が今何も不安に思わず、ただひたすらサンドイッチ美味しいという事しか考えていないという事に気付いた。
奇妙な感覚だった。こんな風に何も怖がらず、不安に思わずにいられるのは、会社を辞めてから初めての事だった。
「ニコラ、この一週間本当にありがとう」
「それはどうも。良い小説になるといいね」
ニコラはニッと笑った。ふいに、星野は周りがカップルだらけだという事に気付いてドギマギした。こんな風に女の子と過ごしたのは人生初だ。
「最近オーディションを一次で落ちまくっていて最悪だったから、私も気分転換したかったんだ。だから、暇そうで無害そうで可愛らしい日本人に声をかけただけ」
暇そうで無害そうで可愛らしいという形容をされたのは星野の人生で初の事だった。褒められているのか、貶されているのかは不明だが、とにかくキモイと思われていなかっただけでも幸運だと思った。
「ご、ご、ごめん、全然知らなかった。それって就活の一次面接で落ちるみたいな事?ごめん、よく分からなくて。ニコラなら大丈夫だよ」
「何も知らないくせに、言うじゃない。まあ見てなよ、次は絶対受かるから」
小学校六年生男子のような美人は、片頬だけで不敵に笑ってみせた。
「たまに、人生を棒に振って、すごく馬鹿なことしているんじゃないかって気がすることもあるけど」
「そんな風に思うこともあるの?」
「しょっちゅうあるよ。やりたくてやってるのに苦しい事ばっかりだから」
プラスチックのようにすべすべとした軽い言葉の中に、万感が込められているようだと星野は感じた。夕日を受け、薄い緑色の瞳が淡く輝いて星野を見つめていた。
「でも、自分で納得して終わりにしようと思うまでは終わらせたくないんだ。好きで始めた事だから。分かる?」
その気持ちは星野にも分かった。とてもよく分かった。終わらせたくない、まだ書いていたいと思った事が、星野にもあったのだ。
✳
日が落ちた頃、二人は大月のアパルトマンの前までやって来て、そろって建物を見上げた。
中は改装されており最上階に大月の部屋があると星野が言うと、ニコラは面白がって中を見たがった。二人がエレベーターで最上階に辿り着き、星野が鍵を取り出そうとした瞬間、鮮やかな青に塗られた扉が激しい勢いで開かれた。この扉はいつか壊れるなと星野は思った。
英語の罵声が聞こえてくる。
「もう二度とお前には近づかない!お前も絶対に俺に近寄るな!」
「勝手にしろよ!別にこっちが頼んだ訳じゃない、お前が勝手にすり寄って来たんだろうが!」
知的な丸眼鏡をかけた大柄な黒人の青年と大月が飛び出してくる。咄嗟に壁に寄った星野とニコラの前を二人はもみ合いながら通り過ぎ、大月は青年を狭いエレベーターに押し込んだ。
「二度と来るな!」
「こっちから願い下げだよ、それに俺はすり寄ってなんてない、この―――」
最後は双方中指の立て合いで終わり、チンという音を鳴らし扉が閉まったエレベーターのガラス越しに二人はにらみ合っていた。そして中指を立てたままの青年を乗せたエレベーターは、ゆっくりと下降していった。
ニコラ逃げて、と星野は思ったが無論一つしかないエレベーターは戻ってくるのに時間がかかるのだった。ニコラはチラリと階段を見ていた。
「―――た、ただいま」
大月は憤怒の形相のまま振り向き、初めて気づいたようにニコラの顔を見た。
「ああ?なんだこの女?」
「新しい友達で、パリを案内してくれてるんだ」
そもそも大月は、ここ最近星野が日中家にいなかった事に気付いていたのだろうか。ニコラは日本語は分かっていないはずなのだが、構わずに英語で自己紹介を始めた。
「ピザ屋の店員のニコラよ。会ったことあるけど、覚えてる?」
「俺が仕事してる間にフラフラ遊び歩いて女作ってたのか!?」
何故、不倫に走る夫を糾弾する妊娠中の妻のような物言いをするのだろうか。星野は不思議な眩暈がする。
「いや、友達だって。大月、手伝って欲しいなんて言わなかったじゃないか。手伝って欲しかったなら……」
「高校生の時、友達なんて一人もいなかったくせに、お前に突然美人の友達が出来るはずないだろ。どうせ俺の金が目当てでお前に近づいたに決まってる。家に連れ込むなんて馬鹿か?物盗りだったらどうするつもりだったんだよ」
星野は一瞬言葉を失って黙り込み、それから不健康な青白い顔を見る間に真っ赤に染めた。
「どんだけ自意識過剰なんだよ!そんな事、今でも友達のいないお前に言われたくない!そういう所全然変わってないよな、見た目がまともになってるだけで!だから嫌われるって分かってるだろ!さっきの眼鏡の人も……」
「喧嘩しない!」
ニコラは星野の肩を殴った。二人が喧嘩しているのは雰囲気で理解出来るのだろうが、どうして自分を殴るのだろうと星野は悲しみに暮れた。世の中は理不尽だ。
「仲良くしなくちゃ。私はこいつ嫌いだけど、あんたは友達なんでしょ、日本から遥々会いにくるくらいの」
いつの間にか、再びエレベーターが戻ってきていた。ニコラは星野と握手してからエレベーターに乗る。徐々に下がっていくエレベーターの中、ニコラは大月に中指を突き立てていた。
後に残された日本人二人はしばしにらみ合い、星野が口火を切った。
「この家から出ていく」
「……は?」
何故大月が驚いた顔をしているのか、星野には理解出来なかった。
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