第6話


 見ず知らずの高身長の白人男性が玄関で靴を脱いでいるのを発見し、星野は固まった。


 不法侵入という言葉が脳裏に去来したが、有効な対応策は特に浮かばなかった。星野は不慮の出来事に弱く、緊急時に全く役に立たないタイプで、職場でもそういう所が使えないとよく言われたものだった。


 ブロンドの男は靴を脱ぎ終えると立ち上がり、青い目で硬直している星野を見た。人種の違いが如実に体格差に表れており、星野の喉笛など握りつぶされそうである。星野の頭の中で、死の一文字がピカピカと輝いていた。


「…‥‥誰だお前?レオはいないのか?」

 彼はフランス語ではなく聞き取りやすいイギリス英語を話し、押し入り強盗にしては身なりが良く肌の色つやも良かった。しかし星野はそんなことに気付けるほど頭が回っていない。


 大股で近づいてきた男にいきなり肩を掴まれ、顔を覗き込まれたため、いよいよ頭が真っ白になる。


「そういえば、友人が長期滞在に来るとかでベッドだの何だの買い揃えていたな。日本人の彼女でも連れてくるのかと思っていたが」

 星野の口から咄嗟に英語が出たのはもはや奇跡である。


「おおお大月の、こ、高校の、どど同級生です。あなたは、どなたですか?」

「レオとはどういう関係なんだ?」

「ただの同級生です……」


 親友でも友達でも何でもなく、同級生だ、と星野は思った。星野が修学旅行をズル休みした時、大月も偶然体調不良で修学旅行に行けなかった。お互い仕方なく四日間顔を突き合わせて、それで少し話すようになったというだけだ。


 男は星野の素性を聞き出しておいて、自分自身については一切話す気配がない。


「なるほど。あいつに本当に友達がいるとも思えないしな。いるとしたら、強めの幻覚か何かだろう」


 冷たい言葉だった。しかし的を射ていると星野は思った。



「まだご夫妻に挨拶に行っていなかったのか。パリで暮らすなら一番に挨拶に行けと言っただろうが!しかも何だその汚れたジーンズは!身なりに気を使えとあれほど言っただろうが!お前が若くて見栄えがするからファンになった人間もたくさんいるし、仕事の依頼も来るんだぞ!そうだ、日本向けのカレンダーは?送られてきた製品見本はどうした?もうチェックしたのか?」


「これからやるつもり―――」


「私が来なかったらどうするつもりだったんだ。だからあれほどロンドンに戻って来いと言ったんだ!フランス語も喋れないくせに、無駄に広い部屋を借りて友人を連れ込んで何やってるんだ!アート・バーゼルをすっぽかしておいて!」


 画商のブライアン・グレイは嫌がる大月を無理やり押さえつけて自分の隣に座らせ、途切れる事の無い説教をしていた。


 ローテーブルに紅茶を用意した星野は彼らの対面のソファに腰かけるかどうか悩み、結局一人掛け用のソファに腰かけた。これで二人から安全な距離を取る事が可能になった。


 ブライアンから連絡を受けた大月が青ざめた顔で帰宅するまでの間、星野はブライアン本人から彼と大月との関係を聞かされていた。


 曰くブライアンは各国に店舗を持つロンドンのギャラリーの跡取りであり、まだ若いが一端の画商であり、学生だった大月を発掘し、今日までプロデュースしている人物であるらしい。 


 二人の様子を見るに力関係は明白だった。大月が見た目も振る舞いも普通の人間のようになっているのは、どうやらこの人の徹底した指導の結果らしい。芸術家としての個性を殺しているとも言えるが、一般受け路線に舵を切るという方針なのだろう。



 先ほどからブライアンが憤っているのは、大月が自身の作品が売り出されていたスイスのアートフェアに顔を出さなかったという事だった。


「コレクターもキュレーターも学芸員もメディア関係者も他の画商も、お前と直接話したがっていたぞ!客とやり取り出来て人脈を広げられるまたとないチャンスを、お前の展示ブースを作ってやっていたのにそれをお前は―――」


 大月が襟首をつかまれて揺さぶられているのを、「同級生」である薄情な星野は黙って見ていた。大月が何故ロンドンから離れたかったのか何となく分かる気がしたが、絶対にこの場では口にすまいと思った。


 ブライアンはひとしきり説教を終えると大月から手を放し、「今日はここで仕事の話をする。アトリエにはもう行くな」と宣言した。

  

 星野は、その場合自分はどうしていれば良いのだろうかと思った。部屋から出ないようにすれば良いだろうか。


「星野、君はどこか他所へ行ってくれないか」

「星野だってここに住んでるんだぞ!星野が出ていく必要はない」


「君の気が散るから言っているんだ!大体、星野は何故この家に住んでいるんだ?」

「星野は高校生の頃からの友達で、作家なんだ!芸術家同士一緒にいるとインスピレーションが湧くから、招いたんだ」

「作家?」


 ブライアンの目が上から下まで星野を見た。本当に作家だとしても、まったくうだつの上がらない作家だと判断した顔付きだった。


「インスピレーションが湧いている割に最近調子が良くないな。あれは売れると思ってやっているのか?少なくとも、私は売らない」


 星野の位置からでは、大月がどんな顔で自分の画商を見ているのか分からなかった。


「勝手にオークションにかけてやるからな。あんたの取り分は無しになるぞ」

「それでも売れないだろう。自分で分かっているはずだ。むしろ、そこのうだつの上がらない友人から悪い影響でも受けているんじゃないのか」


「確かに星野はうだつがあがらないけど、それとこれとは関係ない!」


「あの!」

 星野はいたたまれなくなり立ち上がった。外に出るかここに留まるか、どちらがマシかと言われば―――。


「外に行っていますので、お二人で遠慮なくどうぞ」


 パリに来てから約二週間、星野が自発的に外に出るのはこれが初めての事だった。星野の胸の中では、小中学校の卒業式で合唱させられた『旅立ちの日に』が流れていた。


*


 久々の野外に手の震えが止まらない星野は、リュクサンブール公園のフランス式庭園の前に空いているベンチを見つけ、そこに腰かけることにした。バラは見ごろを迎えて、目の前の厳めしい宮殿の足元を華麗に彩っていた。


 二人に公園で散歩でもすればどうかと勧められ、何とかメトロに乗ってここまではやっては来たものの、久しぶりの外出に手の震えが収まらず、幸先の良い出だしとは言えない。


 風は優しく、日は温かかった。平日の公園は親子連れや老人が多く、大きな池でボート遊びに興じている子どもたちの高い笑い声が聞こえてくる。辺りを見渡してみても、こんなにも挙動不審なのは自分だけだった。


 小声の日本語で自分を励ましていると、突然、誰かに声をかけられた気がした。短いフランス語、女性の声で、確かに自分に向けて発せられた言葉だった。


 一瞬だけこちらを振り向き、ブロンドをなびかせた女性が長い足で歩き去っていくのが見えた。もし彼女の髪が腰までなければ、星野はその人物を背の高い少年だと思っていただろう。それ程に痩せていて、中性的な美しい顔立ちの人物だった。


 そして、錯覚かもしれないが、オリーブオイルとチーズの匂いがする。


 その人をどこかで見た事があるような気がして、星野は考え込んだ。そうだ、大月が気に入っているイタリア料理店で働いているフロアスタッフの女性だ。以前一度、おどけた顔で微笑みかけてもらったことがある。


 けれど、あの女性がそんなことをいちいち覚えているとも思えない。声をかけられたと思ったのは自分の勘違いだろうか。


 結局、星野はその日一日を公園で過ごした。いつ帰れば良いのか分からなかったし、こんなこともあろうかと外で作業をするためにノートパソコンやペンやノートをリュックに詰め込んでいたのだ。そして、今度こそプロットを立てようとしたのである。


 しかし、相変わらず思いつかなかった。インプットされる物語も受け付けられない程自分の心に余裕が無い時に、自分から何かをアウトプットしようとするのは、虚しく辛い行為だった。


 気分的には、すっかり絞りつくしたレモンを一生懸命レモン絞り器に押し付けているような感覚である。


 確かなのは、相手の男が貴族の末裔という設定で自分が何かを書こうとするのはどうも難しいという事くらいだった。



 帰宅するとすでに画商の姿は無く、ものに当たり散らしている大月だけが残されていた。


「個展を開きたいなんて俺は一言も言ってないのに、あいつが勝手に!何様だよ!」


 大声で喚いた大月がチークのダイニングテーブルを殴りつける。床にはワイヤー製の果物籠やそこに納まっていたはずの果物や、粉々になった写真立ての残骸が散乱している。


 星野は革のソファに足を上げて座り、身動きできなくなっていた。ココはとっくにどこかへ避難しているようで、姿が見えない。


「あいつ、これから半月もパリにいるんだぞ!耐えられるか?いつもいつも、頼んでもいない仕事ばかり勝手に持って来やがって。カレンダーだの茶碗だの付箋だの」


 大月は星野の脇にあったクッションを奪うと、薄型の大型テレビに向けて投げつけた。大声を出して怒っている人間を見ていると否応なく佐々木の姿が思い出され、星野は気分が悪かった。


 夜の帳が落ちているというのにこの部屋はカーテンも引かれておらず、まるで夜空に浮かぶ透明な小部屋に狂人と閉じ込められているような気分だった。


 苛々と歩き回る大月を見ながら、こういう所が嫌なんだと星野は思った。他人の感情より自分の感情を優先させなければ気が済まない所。他人がどう感じようが関係ないのだ。本当の友達がいないとブライアンに言われても仕方がない。


「何ビビッてんだよ、星野」

「ビビッてない。うるさいから迷惑してる」

「ウソつくんじゃねえよ、いつもおどおどしやがって」 


「茶碗とカレンダーと付箋の何が悪い?個展だって―――要するに、少数のお得意様を招いて見てもらうんだろ?いいじゃないか、手伝うよ。全部大月のために考えてくれているんじゃないのか」


「俺のためじゃない、金のためだ」


「それが、結局は大月の金にもなるんだろ」

「商業的すぎる。単に自分はアートな人間だと思いたい連中にファッションとして消費されてるだけだ。今、それの何が悪いって思っただろ?お前には分からねえよな、消費される事も出来ないんだから」


 星野は滅多に怒らないが、さすがにムッとした。胸の奥に小さな反感の火が灯って、炎の舌先がチロチロと星野の心をなめている。


「大月は一人でやっていけるのか?色々やってくれる人がいる事を有難いと思って、感謝しなくちゃいけないんじゃないのか」


「それがあいつの商売なんだから当然だろ。むしろあいつが有難いと思うべきだ。あいつや、あいつの店の代わりはいくらでもあるけど、俺の代わりはない」


 大月は、自分が特別な存在であることに疑いの余地はないと言いたげだった。星野は小さな火どころか、火刑に処されて全身火あぶりされているような気がしてきた。痛くて苦しくて仕方がない。


「そうか?最近の作品は良くないって、ブライアンさんは言ってたじゃないか。お前の代わりになるような人間が、お前より若くて才能のある奴が出てきて、お払い箱にされるかもしれないぞ」


「俺の代わりになるような人間が出てきたら、それは俺にとって刺激になる。星野みたいに逃げたりはしない」


「逃げるって、どういう……」


「少し他人につつかれたくらいで、簡単に意見を変えるのが星野の良くないところだ。どうして就職したんだ?どうして二作目以降が書けない?どうして今更訳の分からないハーレクインもどきを書こうとしているんだ?お前のそういう、誰とも戦おうとしないのは悪い所だと思うぜ。そりゃ戦うのは痛いだろうが、生きるっていうのは痛いことなんだよ。そう思わないか?俺は二作目を悪いとは思わなかった。お前はどうだ?自分ではどう思ってたんだよ!」



 星野が答えないので、部屋は急に静かになった。大月が再び口を開く前に、星野は自分の部屋へと逃げた。


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