二部 元作家、花の都で奮闘する
第5話
二部 元作家、花の都で奮闘する
一
塗りつぶしたように濃淡の無い、真っ白な空だった。窓から弱々しい日差しが射しているものの、明かりの落とされた室内は薄暗かった。長机の隅に置かれた石膏像や、壁際で重ねられたイーゼルが、静かに薄闇に沈んでいる。
窓の傍で古い木製のスツールに腰かけている大月のワイシャツの白色が、かすかな日光を反射し、まるで頼りない光源のように淡く光って見えた。
美術部の部室の引き戸を開けた星野は、大月の様子を見て中に入る事が出来なくなってしまった。
こんなにも集中している人間の横顔を見た事が無かった。何と声をかければ良いのか、分からなかった。
修学旅行二日目。午後になると大月は勝手に図書室からいなくなってしまい、森本先生に大月の捜索を依頼された星野も、図書室を出た。星野としては、これを機にノートパソコンを返して欲しいともう一度頼みこむつもりでいた。
星野は大月の描いている絵に目を奪われた。明るい日差しが射し込み、一瞬の風に水面を揺らす透明な湖。その中で幽霊のように立ち枯れた黒い木々。その背後には雪を被った険しい山々が描き込まれている。
「森本が、戻れって言ってんのか?」
大月はいつの間にか手を止めて星野を振り返っていた。平然として、罪悪感の欠片もない表情だ。
「あ……」
全く知識の無い星野から見ても、学生が描いたとは思えない油絵だった。どこかの風景というよりも―――自分の胸の内を覗き込んでいるような気持ちになる。
その絵を見ていると胸が痛くなった。この世界に存在したある一瞬の時間、寂しさを中心とした激しい感情の数々が、キャンバスの上に永遠に結晶しているのだと思えた。
美術の資料集で名画を眺めている時には何も思わなかったのに、大月の絵を見た瞬間、そんな感慨に襲われて鳥肌が立った。
こんなものを創造出来る人間が、この平凡な高校の同じ学年にいるというのが驚きだった。しかも、それが大月なのだ。
「この絵、どう思う?もっと違うものが描きたかったんだけど、コンクール用だから無難にまとめた。まとめる事も大切だからな」
「……何と言って良いか分からないくらい、すごい」
本当に、その絵を何と形容したら良いのか分からなかった。この世のどんな小説家が何字費やしても伝え得ぬものを、大月は言葉無く伝える事が出来るのだと思った。絵を描ける人間はずるいと思った。
「何だ?泣いてんのか?ここホコリっぽいからな。目に入ったのか?おい、どうしたんだ?」
立ち上がった大月がいぶかしげに近づいてくるので、星野は羞恥と悔しさで強引に目元を拭った。この部屋の照明がついていないことを幸いに思った。
「泣いてないです」
「てか星野よお、タメなのに何で敬語で話してんだ?敬語キャラなのか?まさか俺と距離を取ろうとしてないよな?」
無論、最大限に心の距離を取りたくて敬語を使っているのである。しかし、ここで余計な事を言うと自分の涙に話題が戻るかもしれなかったので、星野は大月の希望通りにすることにした。
「じゃあ―――タメ語で話すけど、そのついでに頼むんだけど、ノートパソコン返して欲しい」
「嫌だ」
「どうしてだよ。大月が持っていても仕方ないだろ!」
「俺の絵を見たんだから、俺にもお前の小説を読ませてくれたっていいだろ。俺の絵には到底及ばないクオリティのクソだから恥ずかしいんだろ?分かってる、気にすんなって」
「クソじゃない!」
星野は思わず言い返し、驚いた顔の大月以上に自分自身で驚いていた。こんな風に誰かに言い返した事は、これまでに一度も無かった。
「お前、変な奴だなあ。未来が言ってた通りだ。他の絵も見てくか?ていうか、絵だけじゃないんだよ。何から見たい?」
部室に強引に引っ張りこまれながら、何故こんな事になったのだろうと星野は思っていた。
何でも良いから、さっさとノートパソコンを返せと言いたかった。
*
「あの人、ちょっと有名らしいよ。あそこの二人組の、白人の方」
「有名?何やってる人?」
「画家なんだって」
同僚の耳打ちに、へえ、とニコラ・ジレーは感情を押し殺した声で呟いた。そして油染みだらけの黒いエプロンで濡れた手を適当に拭い、両手に二枚の大皿を受け取るとその席へと向かった。
青と白のタイル張りの床の細長い店内、頭上には透明なガラスシェードのペンダントランプが等間隔で下がっている。近辺にまともなイタリアンがないこともあり、地元民から評価されているこの店は今夜も賑わいを見せていた。
ニコラは一年前にパリ市内の大学を中退し、その後もパリに留まって女優を目指していた。小劇団に所属し毎週オーディションを受け、生活費はアルバイトで稼いでいる。大学時代に世話になっていた教授が、知人の所有しているアパルトマンの一部屋を格安で貸りられるよう話をつけてくれたため、何とか暮らしていけているのだった。
ニコラの友人に自称アーティストはたくさんいたが、それだけで食い扶持を稼げている人間は一人もいなかった。自称女優である自分にとっても夢のような話だ。だから、ニコラはその客が羨ましくて―――その羨ましさを絶対に表に出さないよう気を付けながら、画家とやらをよく観察してやるつもりでいた。
窓際の二人用の席に足を組んで座った画家は、連れに偉そうに話しかけている。白人とは言われたが、近くで見ると肌の質感や顔の造作にアジア人らしいところがあって、混血ではないかという気がした。
画家が何気なく着ているTシャツもスウェットもスニーカーも、全てスポーツブランドのものだった。鼻につく、とニコラは思った。
そんな部屋着みたいな服、スーパーで買えば十分でしょ。ていうか、私は今全身安物だし。
ちょっと有名という言葉通り、画家は金に困ってはいないようだった。ニコラは、彼がオリーブオイルとチーズの匂いにまみれて働く必要がないのだという事を、再び強く羨ましく思った。
ニコラに気付かず、日本人観光客らしき二人の若者が彼らを取り巻いた。画家にサインをねだっているようだ。
彼らの背後で手持無沙汰になったニコラは、ふと画家の連れに目を向けた。日本語を理解しているところからして、連れも日本人のようである。その連れは、盛り上がる観光客らを横目に、自分の居場所はこの世のどこにもないという顔をして座っていた。
小柄だがアジア人にしてははっきりした大きな目の可愛らしい顔立ちをしていて、ニコラとしてはかなり好感を覚える。それなのに、日本人らしくないみすぼらしい格好をしていて、いかにも自信が無さそうだった。
画家はニコラには一瞥もせず皿を受け取った。相手を人間だと思っていないような無関心な態度だ。そういう客も最近は多かったが、ニコラは何故かその時ひどく傷ついた。画家に、お前には自分が相手をする価値がないと言われた気がした。
しかし、連れの日本人はニコラを見上げて頭を下げた。客のくせに、何故かニコラに怯えた表情だった。自分は間違った所で間違った事をしているんじゃないか、今にもつまみ出されるんじゃないかという顔。
ニコラにはその怯えた顔の異邦人の気持ちがよく分かる気がした。ほんの一瞬、ニコラは画家に向けてペロリと舌を出して見せた。画家の連れの日本人は一瞬ぽかんとして、笑顔を見せた。
先程までの沈鬱な表情とは打って変わって、輝くような笑顔だった。心の底から笑っているのだという事が、見る者にありありと伝わる美しい笑顔だった。
画家は連れの笑顔に珍しいものを見るような目を向け、そのまま眺めていたが、とうとうニコラの方は一度も見なかった。
*
朝出社する。机の上を拭く。パソコンの電源を入れてメールをチェックしていると、クレームのメールが入っている。
『もうあなたには何も頼みません。部長に直接厳重抗議の電話を入れさせていただきます』
「星野お、じゃあな!」
午前六時、星野は大月の大声で飛び起きた。夢の中で、星野はクレームのメールを開封して血の気を失っていた所だった。
ああ、夢で良かった。もう会社は辞めたんだ。
そしてすぐに、また大月より起きるのが遅くなってしまったという事に思い至った。家主が早起きしているのに、居候がいつまでも寝ているというのは非常に罪悪感がある。先に起きて朝食の用意くらいしようとは思うものの、大月より先に起きられた試しがない。
あいつ、何で毎日毎日無駄に早起きなんだよ。老人か。
暗闇の中で力なく両手で顔を覆う。枕元にあるスマホを手に取ると、三分後にスヌーズ機能でアラームが再開されるという通知が画面に出ていた。ため息を付いてアラームを解除しようとし、幼馴染からメッセージが届いていた事に気付く。
『友ちゃんお疲れ様!パリでは元気でやっていますか?困ったことはない?』
可愛いペンギンのスタンプ付き。この幼馴染が昔からずっと変わらない態度で自分に接してくれる理由が分からず、星野は優しくされる度に嬉しいような悲しいような気持ちになる。
星野はしばらく迷ってから、『元気です!特に問題ありません。ありがとう』と返信した。
実際は大問題を抱えていた。星野はパリに来てからも、家からほぼ一歩も出ず、特に何もしていないのである。わざわざパリに来ておいて、毎日特に何もしていないというのは大問題極まりなかった。
無銭飲食の居候である事のいたたまれなさは日に日に募る一方だったが、大月からは小言の一つも無い。大月は星野が連載小説を書こうとしている事も知っているのだが、その進捗も尋ねてこない。
もし実家に戻ってこの体たらくだった場合、自分はこの二週間で三回は母親に殺されているだろうと星野は確信している。まずハローワークへ行かされるだろうし、小説がどこまで進んだのか一日の終わりに根ほり葉ほり聞かれる事だろう。
その点、赤の他人である大月は緩かった。東京で引きこもっていた星野をパリに連れてくるところまでは熱心だったが、その目的が達成されてしまうと後はどうでもよくなったらしい。
星野がやって来る前と同じく、掃除は外注され、食事はほとんど全て外食がテイクアウトで済まされている。宿代として星野に家事労働を分担させようとしても不思議ではなかったが、そんな考えは端から無いようだ。
あまつさえ、大月は星野にお小遣いをくれた。金が無くて観光出来なかったらつまらないだろう、いくらあれば足りるんだと同い年の男に真顔で問われた瞬間の事を、星野は生涯忘れないだろう。
とはいえ切実にお金は欲しかったので、星野は自分に正直になり、もらえるものはもらっておくことにした。我ながら落ちる所まで落ちたなという感じがしたが、無職である時には一円にもならない感傷は捨て置くに限る。
そんな風な家主の態度も相まって、星野は特に何もしていないのだった。
新しい生活の中で、星野が一つだけ積極的にやっている事がある。
「ココしゃん、すぐにご飯用意しますからねえ。ココは朝早く起きて偉いニャンニャン」
いいから黙って用意しろ、という無言の圧を受けて、星野はすぐにカリカリを餌皿に盛り所定の位置に置いた。現在は使われていない暖炉のすぐ目の前だ。
餌皿に顔を突っ込んでものすごい勢いで食べているココの背中を、星野はそっと撫でた。
三歳の雄の黒猫のココは手足が長く筋肉質な体つきで、非常に思慮深そうな緑色の目をしているが実際は全く賢くなく、頻繁にゲロを吐いた。大月が一度も洗った事が無いと証言した黒い毛皮は艶光りしていて、ココに頬擦りをすると顔が痒くなる。
星野がこの家に来たばかりの頃はココは星野から逃げ回っていたが、二人は一週間もすると仲良くなった。何しろずっと二人で家にいるので、慣れるのも早かった。
専属お世話係に就任した星野が、トイレ掃除やエサやりをマメにやっていた事も信頼を会得するのに役立ち、付け加えるなら、日本から持ち込んだ液状おやつも麻薬的な威力を発揮した。
星野は顔が痒くなることを承知で、ココの背中に鼻をくっつけて深呼吸した。衛生的ではないココだが、不思議と素敵な体臭がする。清々しい風の匂い、よく日干しされた毛布の匂い。
どこにゲロをされても、鼻に猫パンチされて起こされても、自動ドア係として扉の開け閉めを命じられても、この素敵な体臭を嗅ぐだけで何でもしてあげたくなる。
「ねえココ、どうしたらいいんだろう。プロットが思いつかないんだよ。直感頼りでとりあえず書き始めた方が良いのかな?」
ココは星野からするりと身をかわし、窓辺に移動すると日向で顔を洗い始めた。星野はココの優雅な後ろ姿を眺めながら、自分はこんな時間にこんな所で何をしているんだろうと思った。
去年の今頃、日本ではスーツを着て朝八時には出社していたのに。今この時間も大学の同級生や会社の同期達は普通に働いているのに、自分だけが時間を無駄にしている。
ゴキュ、ゴキュ、という異様な音に星野は我に返った。ココが食べたばかりのカリカリをさっそく吐こうとしている。その瞬間、星野のスマホがテーブルの上で鳴った。星野はココの嘔吐物の予想落下地点に新聞紙を滑りこませるか、電話に出るかで身悶えして悩み、結局はスマホを手に取った。
ゴパアという音と共に、ココが自分の嘔吐物を置き去りに逃げ出す足音がした。
「大月さんのSNSの写真を拝見しました。大変素敵なお家でのんびり過ごされているようで、良いご身分ですね」
星野の部屋に、篠原の冷静な声が響いていた。星野は改めて自分の部屋を見渡し、良いご身分と言われても否定出来ないと思った。
星野に貸し出されている部屋は、星野の暮らしていた東京のアパートの全てがすっぽり収まる程広い。
天然の色そのままの木製の家具、淡いグレーの毛足の長いラグに白い麻のベッドリネン。自然で気持ちのよい部屋だ。
「それで、プロットは出来ましたか。もうそちらに行かれて二週間くらいですが」
「……一週間後には提出します」
恐ろしい沈黙が流れた。星野は自分の足が震え始めるのを感じる。
「……それでは一週間後、必ず。今、大月さんはいらっしゃいますか。熱心に猫のお世話だけしている先生を文句も言わず住まわせてくれている大月さんに、私からも一言お礼をお伝えしたいのですが」
「はい、申し訳ないです……。大月はいないです、朝早くからアトリエに行きました」
「分かりました。アトリエって、どんな所なですか。先生もアトリエに行かれたことはあるんですか?」
「一度だけ。色々見せてもらったんですが、何だかよく分かりませんでした」
アトリエで製作途中の作品を見せてもらい、直接解説を聞いた。現代アートを教えてもらうためにパリ市立近代美術館も案内してもらったが、星野にはどれもよく分からなかった。
例えば、文学でもただ読むだけでは本当の意味を理解する事の出来ない作品はいくらでもある。作者の思想や人生や、時代背景や宗教についての知識がなければ、作者が本当に言いたい事は何だったのか、どうしてその作品が書かれたのかが分からない。それを読み解くために、文学研究というものがあるのだ。
現代アートもそれと同じだとすると、自分は文脈を理解できていないから作品を理解出来ないのではないかと星野は考えていた。逆に言えば、文脈が理解出来れば作品も分かるのではないかと思っていた。しかし、大月の丁寧な説明を聞いても、よく分からないものはよく分からなかった。星野は自分の感性を呪った。
その時思ったのが、第二次世界大戦前のマルセル・デュシャンの『泉』さえ理解出来ない自分に、今の時代の芸術なんて分かりっこないという事だった。
大月が自分のために努めて平明に説明しようとしてくれている事も分かるのだが、芸術を言語化しようとするのは、言語にならないからこそ言語以外の方法で表現されているものを言語にしようとする無理な取り組みに思え、どうしても本質からズレる部分があるのではないかと思えてならない。
高校生で初めて大月の絵を見た時、星野は感動した。他の生徒たちの作品とは比べようがない程に大月は絵が上手く、技術的に高度であることに支えられた、技術だけではない何かがあると思った。
今の大月の絵はその頃とは変わっていて、その他の現代アート同様に星野にはよく分からない。
「そういえば、最近は雑貨店やセレクトショップなんかで大月さんの作品がプリントされた雑貨が売られていますよ。あれは良い商売ですね。本物には手が届きませんが、ああいう安価なものでしたら買って眺めたいと思いますし」
「そうなんですか」
大月はずいぶん色々な事に手を出しているようだった。いつからこんなにも上手く生きられるようになったのだろう。猫を飼ったのも、普通の人間のような服装をするようになったのも、いつからなのだろう。
ちょうど篠原との通話を切った時、玄関の鍵が開錠される音がして星野は顔を上げた。
忘れ物かなにかで、大月が戻ってきたのだろう。
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