第4話
四
テーブルの端と端に座って、四日間完全に不干渉でいられると思っていた。大月からすると自分は名前負けの陰キャで、コミュニケーションをとりたいとは思わないだろう。
星野はそう思っていた。
「おい、カッコいいノートパソコンだな。何書いてるんだ?」
修学旅行初日の夕方だった。いつの間にか大月に後ろから画面を覗き込まれていることに気付き、星野は悲鳴を挙げて蓋を閉じた。
準備室から森本先生の声が投げかけられる。
「あら、どうしたの?」
「何でもないです!図書室に……ゴキブリがいて」
「困ったわねえ」
森本先生は殺虫スプレーと新聞紙の束を抱えてやってくると、「次は確実に始末してね」と言い置いて再び戻っていった。大月は森本先生の後ろ姿を見送ると、星野の隣の回転椅子にどっかり腰を下ろした。
早く自分の席に戻れ、と星野は思ったが、大月は立ち上がる気配を見せない。こんなに近くで大月を見るのは初めてだった。
「星野ってどこかで聞いた名前だなって考えてたらさ、未来がお前の話をしてたの思い出したんだ」
大月の口からその名前を聞いて、星野は胸が痛くなった。星野の幼馴染の未来は大月と同じ美術部で、二人は部内でも特に仲が良いようなのだ。
未来は自分について何を話したのだろう。大月と未来はどんな会話を交わすのだろう。未来と仲の良かった小学生の頃の星野は、今よりもずっと明るく、思いつくままに空想を喋っては周囲を笑わせる子どもだった。今では、未来の方は変わらずに話しかけてくれるものの、星野は以前のように彼女と話す事が出来ない。
「同じ学年に小説家志望の変人がいるって教えてくれた。小学生の頃、お前がこくごのノートの余白に書いてた話を読ませてもらって、面白かったって話とかさ」
こくごのノートの事は誰にも秘密だって言ったのに、どうして大月に言っちゃうんだろう。星野は膝の上で拳を握りしめた。恥ずかしさのあまり、握りしめた手のひらにじっとりと汗をかいていた。
「いかにも陰キャらしい暗い趣味してんなあ。今書いてたのも、小説だろ?ちょっと見せてみろ。どうせ可愛い女の子がいっぱい出てくるエロい話なんだろうけど。恥ずかしがるなよ」
ニヤニヤ笑っている大月は馬鹿にする気満々に見えた。美術部のお仲間に楽しく言いふらすに違いない。
「違います!―――世界史のレポートです」
「実在しない地名がたくさん出てきてた」
「大月さんの勉強が足りてなくて、世界史上の人名や地名が理解出来ないだけじゃないですか?」
「馬鹿、俺はマジで藝大狙ってちゃんと勉強してんだぞ。この間の期末の世界史百点だったし。お前何点だった?」
九十点だ。何だかやけに悔しい。
星野がそう思った瞬間、大月はにわかに星野の椅子を思い切り蹴った。星野を乗せたキャスター付きの椅子は周りの椅子も巻き込みつつ、回転しながら滑り、一番端の机の柱にガンと当たって止まった。星野は椅子から投げ出されて床に転がった。
大月は星野のノートパソコンを手にし、立ち上がっていた。
「それ指紋認証付きだから、お前が持ってったって意味ないぞ!」
「読ませるって約束するまでは返さない」
「返せよ、それいくらすると思ってんだよ!乱暴に持つな!」
「そんな事知らねーよ。じゃあな」
ノートパソコンは、離婚して今は別の家庭を持っている父親が進学祝いに買ってくれたものだった。こんな高いもの買ってご機嫌取りなんて、と母親は毒づいていたが、星野は嬉しかった。お父さんはまだ自分を忘れていないのだと思った。
十七時のチャイムが鳴り、星野と大月の自習時間は終わりを迎えた。大月は星野のノートパソコンと机に広げていた教材一式をリュックに突っ込むと、さっさと図書室から出て行った。
星野は大切なものを持ち去られても、後を追う事すら出来なかった。後を追いかけて、呼び止めて、それからどうすればいいのだろう。
抵抗せずに大人しく過ぎ去るのを待つというのが、星野の知っている唯一の生き方だった。
*
目を覚ますと、部屋は青い闇の底に沈んでいた。窓の外に明るい星月夜が見える。寝起きのため頭がぼんやりしていて、そのせいか寝る前より部屋が広いように感じる。
星野は闇の中で自分の預金残高を思い出し、家賃光熱費、住民税、国民年金、健康保険料の支払いに暗澹たる思いを馳せた。一作目の印税と賞金は私大の入学費と学費と留学費用を賄ってくれたが、それで全てだった。
皆と同じ黒いスーツを着て、実態とかけ離れた商品として自分を売り歩くような面接を繰り返し、やっと就職した。それが、たったの二年でその努力をふいにしてしまった。
大学のキャリアカウンセラーには自分のやりたい事や人生設計についてよく考え、そこから逆算して就職しなさいと教えられた。
結婚して子どもが欲しいなら非正規雇用ではなく公務員や正社員といった安定した職につくべきだとか、AIやロボットに仕事を奪われないために手に職をつけるべきだとか、そういった内容のキャリア支援講座も受けた。
それを真に受けて、それなりに真剣に考えて就職したはずなのに。
自分が人生で本当に何をやりたいかとか、何が重要なのかなんて二十歳やそこらで分かるはずがないじゃないか、と星野は今更思った。今は自分の将来なんてますます分からないし、もう考えたくもない。
「……あれ?」
星野はふと窓の外を見て、自分が随分高いところから石畳の街並みを見下ろしている事に気付いた。このベッドもタオルケットも、自分の匂いの染み付いたものではない。
「あっ」
自分が今どこにいるかを思い出して、星野の全身の毛穴から汗が噴き出した。夢よりも奇妙な現実を生きている最中だった。
慌てて飛び起きて部屋の扉を開けると、緑色の目をした黒い生き物がびょんと縦に飛び上がった。星野の絶叫を後にして、猫は死に物狂いで走り去った。
「やっと起きたと思ったら、うるさい奴だな。メシの予約してあるんだ、今から用意出来るか?」
あきれ顔でリビングから顔をのぞかせた大月はきちんとしたセットアップに着替えていた。カジュアルな服装も似合うが、きちんとした服装もよく似合っている。
「大月―――外側だけそんなにまともに見えるなんて詐欺だぞ」
「殴られたいのか。で、行くのか?行かないならキャンセルするし、行くならさっさと着替えろ」
大月のくせにディナーを予約しようという心遣いがある上、TPOに合わせた服を着て行くという常識をわきまえているなんて。星野は二度目のショックを味わったが、ふと恐ろしくなり問いかけた。
「……ドレスコードがあるような店って、そんなに簡単にキャンセル出来るのか?」
「そりゃキャンセル料はかかるけど」
大月は簡単に言って怪訝な顔をした。星野はキャンセル料がいくらかかるかを聞くのをやめにして、急いで支度をすることにした。
✳
大月が予約していたのはエッフェル塔の中にある星付きのフレンチレストランで、一面ガラス張りの室内からはパリの夜景を見渡す事が出来た。
夜景にさほど興味の無い星野は東京と変わらないではないかと思ったが、大月の手前一応すごいなと感動してみせた。そして大月に棒読みはやめろと言われた。
星野は首の伸びたTシャツの上に、かろうじて持っていたぐしゃぐしゃのジャケットという服装だった。自分が大月の連れとしてもこのレストランの客としても違和感があるという事は承知していたが、実際に席について周囲の視線を集める段階に至り、本格的に死にたいと思い始めた。
食事が始まり酒が入ると、大月は一方的に高校卒業後の自分の歩みを語り続けた。
藝大での日々について、ロンドンに交換留学が決まった時の事について。見た目がどうあれ日本生まれの日本育ちのため英語に堪能ではなく、様々な苦労や不自由があったが、それをどのようにして乗り越えたのか。どんな学生グループに入って、どういう活動をしていたか。活動を画商に見いだされて売り出された経緯。今はどういう事に興味があり、どういう付き合いがあり、どういうものを作りたいのか。
少し苦労話をしたかと思えばすぐにそれを乗り越えたという自慢になるため、結果としてほとんどが自慢話のオンパレードで、まさかこれを本気で伝記にしろと言っているのだろうかと星野は戦々恐々とした。
正直なところ、他人の順調で成功した人生について聞くのは今の星野には荷が重かった。そのため、大月の話から逃れるためにせっせとワインを飲んだ。
膝の上のスマホを見ると、篠原からメッセージが入っている。
『パリには無事着きましたか?打ち合わせの際もお伝えしましたが、女性誌のメインターゲットである二十代後半女性を主人公に、フランス貴族の末裔とひと夏の恋に落ちるというストーリー展開が良いと思います。良い小説を期待しています。パリの写真、送ってください』
それハーレクイン小説ではと星野は思ったが、篠原に表立って反抗するのはあらゆる面において得策ではないので、とりあえずは流されておくことにした。反論しないでおこう。
周囲の声やピアノの生演奏がよく聞こえるようになっている事に星野が気付くと、いつの間にか大月が話すのを止めていた。揺らめくようなキャンドルの灯りの中、薄い茶色の瞳でまっすぐに星野を見ている。
「そういや、星野の話を聞いてないな」
「話?」
「だから―――高校を卒業してからどうだったか」
星野は目の前のグラスの赤ワインを睨んだ。そうしていると、料理も、テーブルの上の淡いピンクのバラも、目の前の大月も、夢のようにかき消えて無くなってしまうような気がした。
星野は強く目をつぶり、また開いた。大月もレストランもそのままだった。
「大体知ってるだろ。二冊目全然売れなくて、普通に就職したけど二年目で辞めた。今は無職。地元に友達いないから成人式も行かなかった。それが高校を卒業してからの自分の人生だよ」
「それだけじゃないだろ」
「それ以外に、何か言う事あるか?働いてなければ書けもしないクズだって告白すればいいのか。大月は立派にやってるし、服装もまともになってるし、こんな自分が恥ずかしいんだ。ていうか、まさか大月にフレンチなんて奢られる日がくるなんて思ってなかった!自分が恥ずかしい!」
大月は何も言わない代わりに、饒舌な星野を変な顔で眺めた。しかし星野はそれに気づかず、一人で勝手に喋り続けた。
「だから自分は―――これから日本人女性とフランス貴族の末裔のラブロマンスを書いて、起死回生を図らなきゃいけないんだ!そんなもの書ける訳あるか!そういうジャンルを読んだことすらないのに!もう帰りたい―――本当は家に引きこもっていたいんだ!そっとしておいてくれよ、どうせ自分はクズなんだし、さっさと死にたいんだ」
「星野、うるさいぞ。どんだけワイン飲んでんだ。死にたいとか言うな。またすぐ書けるようになる」
「適当な事言うな。書けるようにならなかったらどうしてくれるんだよ!普通の事が出来なくて、書く事しか出来ないって信じているのに、書く事も出来ないって分かったらどうすればいいんだ」
「書けるようにならなかったら―――それはそれで、別の生き方を探すしかないだろ」
星野は信じられない思いで大月を見た。それはそれって何だよ、どれだけ適当なんだ。他人事だからそんな風に言えるんだ。
「今は人の金で美味いメシ食ってんだから、とりあえずはそれを楽しめばいいだろ。せっかく来たんだから、ゆっくりしてけよ。俺も明日は空いているから、観光行くか」
「―――観光したい気分じゃない。実際、パリなんて全然興味無いし、どこにも行きたくない。もうこの地球上のどんな街にも、何の関心もない」
「じゃあ、どこか行きたくなったら行けばいい。明日は家でデッサンでも教えるか?授業料は取らないでやるから」
いいえ結構です、と星野は弱弱しく言った。星野はようやく自分が呑み過ぎている事に気付いたが、もう冷静にはなれなかった。
それから先、自分と大月がどういう顔で何を話していたのかはよく思い出せない。自分が延々と泣き言を言っておいおいと泣いていたような気がするが、そんな事はしていないと信じたい。
店を出ると、乾いた温かい風が星野の頬を撫でた。星野は、今やっとこの街の夜景を美しいと思った。ビロードの夜空のスカートの裾に無数のスパンコールを縫い付けたかのような輝きが眼下に広がっている。
あまりにも美しいので、悲しかった。もう引き返せない。会社を辞めて、アパートを引き払って、ここまでやって来た。パリで新しい小説を書き、売れさえすれば結果オーライだ。それが出来なければ―――ただの人生の落後者だ。
だからどうしても書かなくてはならない。普通になる事を諦めるのなら、特別になる以外ない。
大月にはこういう気持ちは分からないだろうと星野は思う。最初から普通になる気など無い、本当に特別な人間には。
「星野!」
強烈に妬ましく思った瞬間、その大月が急に肩に手を回してきた。大月がスマホのインカメをこちらに向けているのを見て、星野は驚いた。こいつでも、こういう普通の事をするのだ。
驚きのまま、大月の隣で写真に収まった。
その写真を大月が勝手にSNSにアップしたおかげで、小説家木原律が何故かパリにいるという情報が世に流れる事になった。それが巡り巡って妙な誤解を招き、後から星野は後悔する事になるのだが、それはまた別の話である。
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