第3話


 高校一年生の四月。これからの三年間もこれまでと同じように、同い年の大勢の人間たちと一つの教室で過ごす事に絶望していた春。


 名前順に着席した生徒たちが順番に立ち上がって自己紹介していく中、ア行の一番最後で背の高い少年が立ち上がった時の事を星野はよく覚えている。


 いきなり黄色い歓声が上がったので、教室の前の方にいた星野も、星野の周りの生徒達も、驚いて後ろを振り返った。


 入学当初の大月の頭髪は地毛で、皆が着ているようななんちゃって制服を平凡に着崩していた。はっきりした目鼻立ちと淡い色の髪の、一目で混血と分かる容姿をしていた。


 美少年というのはこういう人の事を言うのかと思った。液晶ディスプレイの中から抜け出してきたような大月と背景の平凡な教室が不釣り合いで、下手なコラ画像を見ているような気さえした。


 クラスの女子たちは学年一のイケメンと同じクラスになれてラッキーだと喜び、それは次第に学年一ヤバい奴がクラスにいるという評判に代わっていった。


 校門前に突如出現したマネキンの下半身をつなぎあわせた不気味なオブジェは大月が設置したものだと噂になり、音楽室に飾られていた偉人たちの肖像画が色と線の崩壊した不気味な肖像画にすり替えられていたのも大月の仕業だと言われた。何よりも周囲の目についたのが、学生社会のヒエラルキーに頓着せず、周囲の雑音は耳目に入らないと言わんばかりの大月の態度だった。


 学年のアイドル的な女子生徒に話しかけられても迷惑そうな顔で無視し、クラスの中心の男子集団にサッカーに誘われても鼻で笑っていた。

 大月の髪色は茶色の地毛から金髪に変わり青になり紫になりピンクになり、最終的に赤信号を思わせるまっ赤になって、周りの人間を遠ざけた。刻々と進化する服装は常人の理解の及ばぬ域に到達した。時には奇抜なメイクをしている事もあった。


 高校一年生の夏頃、大月はすでにクラスの腫物だった。一方、星野は中学時代のようにいじめられまいと気を張った結果完全に孤立していた。いじめられてはいなかったが、一人も友達がおらず、登校から下校までほとんど誰とも口を利かない、口の臭くなる毎日を過ごしていた。


「ちょっと退いてくれ」

 夏休み直前の昼休み、星野は大月が窓際に陣取った一軍の女子たちに話しかけているのに気付いた。その様子が目を引いたのは、大月の後ろで小さくなっている二人の美術部員のうちの一人が幼馴染だったからだ。


「はあ?なんで?」

 明るい茶髪をポニーテールにした、小柄なダンス部の女子が、うす笑いを浮かべながら警戒した声で言った。


「そこから校庭を撮りたいから」

「後にすれば?」

「この時間帯がいいんだ。ビデオも借りてきて準備も済んだ。厚塗りのブスは消えろ」

 教室の空気が凍り付いた。厚塗りのブスと言われた女子と付き合っているバスケ部員の男子がゆっくり立ち上がるのを星野は見た。クラスの中心の一人で、星野が絶対に目を合わせられないような生徒だった。


「ふざけんじゃねーぞ、芸術家気取りのオタク野郎」

 そいつは後ろから大月に殴りかかった。他にも数人の男子が駆け寄ってきて、この半年の鬱憤を晴らすように大月を滅多打ちにした。 


 昼休みの教室は瞬く間に混沌の様相を呈した。誰かが、先生と叫んだ。この学校でこんな喧嘩が起きているのを、星野は見た事が無かった。もちろんいじめが無い学校という訳では無かったのだが、トラブルがこんなにはっきりと誰の目にも映る形で表れているのは珍しい事だった。


 大月はそれだけ異質だった。今この瞬間の口の利き方が悪かったとか、それだけの理由ではなく、常にずっと異質でクラス中の人間にとって目障りだったのだ。


 星野は椅子の上で硬直しながら、異分子がクラスから排除されようとしているのをただ見ていた。あれがもし自分だったら、ひたすら縮こまって終わるのを待っているだろう。


 けれど大月はそうではなかった。ヒョロヒョロした長い手足を振り回してかろうじて抵抗している。綺麗な形の鼻から鼻血が噴出しており、教室に血だまりが出来ている。髪を掴まれて引きずりまわされているせいで、床の上に白い皮膚のこびりついた赤い髪がパラパラと落ちている。


 芸術家気取り、という言葉が星野の脳内で反芻された。芸術家という言葉が何を意味するのかは分からなかったが、少なくともここでされるがままになっているような奴は、多分芸術家ではないのだろうと思った。



 あまりにも青い空で、見上げると眩暈がする。


 シャルル・ド・ゴール空港の滑走路に着陸した機内から見上げた六月のフランスの空は雲一つなく晴れ渡り、引きこもり生活をつづけた星野の目に容赦なく染みた。


 ボーディング・ブリッジを通って空港内に入り、様々な人種の人間がごった返しているのを見て、星野はすくみ上がった。


 星野は一刻も早く立ち去りたかった。ここには自分のような人間の居場所は無いという気がして仕方がない。そもそも、何故大月を信じてパリにまでのこのことやって来てしまったのだろう。


 星野は女手一つで育ててくれた母親には一切報告せず、幼馴染にだけ打ち明けて、アパートを引き払い家具を売り払って現金を作った。我ながら謎の行動力だった。


「大月、どこにもいないし……」

 成田で飛行機に乗る前に、ロビーで到着を待っているというメッセージが入っていたのだが、探し回っても姿が見えない。


 星野は不安と後悔で吐きそうだった。やはり、大月は何もかも冗談のつもりだったのだろう。


 予定時間を三十分過ぎて、ようやく電話が繋がった。


「悪ぃ、手が離せなくて出られなかった」

「馬鹿、どこ行ってんだよ!散々人を電話に出ないとかどうこう言っておいて、自分もじゃんかよ!」

「ああ、まだ家にいるけど」


 星野は放心状態だった。空港にすらいないのか。


「まだ家って……」

「住所は送ったから分かるだろ、タクシーで来いよ」


 こういう奴だった、と星野は思い出した。      パリで一緒に暮らそうという提案そのものは冗談ではないようだったが、大月はこういう人間だった。自分中心に世界が回っていると思っているタイプだ。


「何で黙ってるんだ?まさか、一人でタクシー乗れない訳じゃないよな」

「うるせえええ!」

 星野は久々に大声で怒鳴った。人々の奇異の視線も、この時ばかりは気にならなかった。



 オスマニアン建築の六階建てアパルトマンを見上げ、星野は非常に気遅れした。大月のくせに、なんて洒落たところに住んでいるんだ。古そうな建物だけれど、エレベーターはあるだろうか。


 祈りながら狭いロビーに入ったが、どうやら階段があるだけのようだった。シンと静まり返ったロビーで星野は数分立ち尽くし、「ポーターの方はいずこ?」と呟いてみた。無論誰も出てこなかった。


 星野はよろめきながらスーツケースを抱え、息を切らして最上階に辿り着いた。鮮やかな青に塗られた扉のノブに手をかけた瞬間、扉の前に誰かがいるかもしれないという配慮ゼロの勢いで扉が開いた。


「おお!遅かったな!」

 勢いよく飛び出し、星野を見た瞬間に上機嫌な笑顔を浮かべた大月を見て―――星野は言葉を失った。

 長旅の疲れも吹き飛ぶ程のショックを受けた。


 最後に会ったのは高校の卒業式である。あの時の大月は、髪はオレンジ色で眉毛がピンク色だった。男子生徒全員がスーツ着用の中、一人だけ洋服の生産ラインで事故が起きて誕生したような洋服未満の何かを着ていた。


 それが今や頭は地毛に戻り、ニキビ一つ無い顔にはメイクをしていなければ無精ひげも無く、シンプルな黒いカットソーを着ている。長めの髪を後ろで結っているところが変わっていると言えば変わっているが、それはオシャレで通るレベルだった。


 大月が完全に普通の人間になっているように見え、星野は唖然とした。高校卒業後、どこかの矯正施設にぶち込まれでもしたのか。


「辛気臭い顔してどうしたんだ?まあ元からそんな顔か。だいぶ会ってなかったなあ、俺日本に帰ってねえし。背、縮んでねえか?元からか」

 ずっと大月を変な奴だと思っていたけれど、もしかすると自分の方が変な奴なのかもしれない。


 星野は急激な不安に襲われた。知らぬ間に大月はとっくに大人になっていて、こんなにもまともになっている。

 引きこもりで無職の自分の方が、世間的には圧倒的に変かもしれない。


「おい、エレベーターあるんだぞ。わざわざ階段使ったのか?変な奴」

「うるさい馬鹿、気づかなかったんだよ!どうせ……ポンコツで変な奴だよ」

 大月は笑い、星野をハグした。度重なるショックに、星野はその場で失神しそうだった。


 大月がコミュニケーション能力の高いリア充のような挨拶をするとは思っていなかったのである。郷に入っては郷に従えのコミュニケーション方法なのかもしれないが、それでも、あの大月がと思うと衝撃が大きすぎる。


「変な奴なのはお互い様だな。まあ入れよ、間違いなく感激するぞ。フケのでないシャンプーも調達したし」

 自信満々の大月は約束を破ったことに関しては一切の謝罪も無く、大きく扉を開け放った。


 建物の外観から受ける印象と違って、アパートの電気や水道、セキュリティの設備は最新のものにリフォームされているようだった。部屋数的には日本で言うところの3LDKに該当し、一人暮らしにはもったいない広さである。


 艶やかな寄木細工の床の廊下を抜けると、天井の高い広々したリビングダイニングに行き当たった。リビングスペースには本革のソファとローテーブルがあり、床には毛足の短い若草色のラグが敷かれている。部屋の隅には小さな暖炉らしきものがあり、壁は一面だけ紺色に塗られている。

 四人家族で使用するようなサイズの空間だったが、男が一人で住んでいる空気が何となく漂っている。


 ダイニングテーブルには様々な種類の花の活けられたアクリルの花瓶が置かれていて、星野はそれを物珍しく眺めた。こんな風に、花の間からピョンピョンと雑草や枝の飛び出しているワイルドな花束を初めて見た。まるで野原の一角をそのまま持ってきたかのようだ。

 大月はいつから家に花を飾るような人間になったのだろう。


 自分の実家やアパートとあまりにも違い過ぎて何と形容すれば良いのか分からなかったが、センスの良い住居だという事は分かった。そしてうすうす感づいてはいたが、大月はかなり金を持っている。


「どうだ、良いだろ。知人のインテリアデザイナーが―――間違えた、俺がイケアと蚤の市に行って家具を買い集めてきた」

 嘘ついてんじゃねーよ、という言葉を星野は飲み込んだ。大月は自慢気に腕組をする。

「掃除はハウスキーパーが―――違う、俺が朝から膝ついて床の水拭きをして」

「もう大体分かったから何も言わなくていいぞ」


「花は俺が買って来たんだ、さっき。花が無い事に気付いてさ。気に入ったか?」

「へえ。この、飛び出してる草とかも、お前が選んだのか?すごいな、いつも花を飾ってるなんて」

「選んでない、花屋が作ったんだよ。普段から花なんて飾ってある訳ないだろ。大体、この家は寝に帰るだけの場所だったんだ。急遽整えたんだぞ」

「……そうなんだ」


 これは自分を歓迎するための花なのだと星野は気が付いた。星野が最近花を贈られたのは三月下旬の退職日で、あれは退職者には花を贈る事が慣例になっているので、お鉢が回ってきた人間が嫌々用意したというたぐいのものだった。


 星野はまじまじと、元気が余って花瓶から飛び出しているような花々を見た。この切り花の元気の良さそうな事と言ったら、しおれきっている自分とのテンションの差が辛いくらいだ。


 自分は花を用意されて歓迎される価値のある人間ではない。

 何故、よりにもよって大月に、こんなに温かくもてなされているんだろう。


「―――どうもありがとう」

 大月は怪訝な顔をした。


「おい、涙目になってるぞ。目にホコリでも入ったのか?清潔にしておいたのにな。星野の部屋はこっちだぞ、はやく来い。荷物置いたら昼飯食いに行くか?エッフェル塔か何か見に行きたいだろ」


 喋りまくる大月に、星野はぐったりと首を振った。


「どこにも行きたくないし、昼飯もいらない。少し寝たい。久しぶりに外に出て、本当に疲れたんだ」


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