第2話

 二


 修学旅行で二年生全員が学校からいなくなる日、星野は普段通りに通学した。朝、いつもと同じ時間に目覚めた瞬間、深い罪悪感があった。


 クラスには向かわず、まっすぐ図書室へ向かう。修学旅行の四日間は学校司書の監督の下で自習ということになっていた。見知った顔が一つもない学校はいつもとは違う場所のようで、普段より楽に息が出来る。


「星野さん、風邪ですって?修学旅行行けなくなっちゃって残念ねえ」


 午前九時前の図書室は、校庭側の窓から射しこむ白い日差しで明るかった。利用者は一人もおらず、学校司書の森本先生がのんびりした声で迎えてくれる。開け放たれた窓から、爽やかな秋の風が吹き込んでいる。


 本の虫の星野はよく図書室を利用するため、校内でも自然とこの先生とだけは仲が良かった。学校の中で星野が緊張せずに話せるのは、幼馴染とこの先生のたった二人だけだった。


 はいもう熱は下がったんですけど、と答えて星野はマスクの下で空咳をした。森本先生にクラスに一人も友達がいなくて修学旅行に行けなかったというのがバレる事だけは絶対に避けたかったので、風邪を引いたという体で過ごすつもりだった。


 クラスメイトと三泊四日間過ごすより、森本先生と図書室で四日間過ごした方がずっと楽だと星野は思った。そう思ってすぐ、修学旅行に行かない事を伝えた時の幼馴染の顔が星野の脳裏に去来した。


「まあ、仕方がないわよね。星野さん一人だけじゃないから、寂しくないわ。もう一人行けなかった人がいるのよ」 


 百五十人全員が体調万全な訳がない、と星野はここでようやく気付いた。本当に病欠になってしまった人だっているに違いない。


「そ、その人、今日から学校に来れるんですか?」

「ついさっき、来れるって電話があったみたいよ。昨日までお休みしていたそうなの」


 一体誰が、と思った瞬間に派手な音がして図書室の扉が開き、それに被さるようにチャイムの音がした。


「ギリギリセーフ!おはようございまあす!いやあ寒空の下で制作してたら風邪引いちまって」


 昨日まで休んでいたなんて嘘だろと言いたくなるような元気な大声だった。星野は入り口を振り返り、その真っ赤な髪を見て凍り付いた。クラスの中心にいる生徒達とは違った意味で目立つ存在。廊下ですれ違っても絶対に目を合わせたくない生徒。


「あ、俺だけじゃなかったんだ。名前なんだっけ?そこの暗くて生白い地味なチビ。去年同じクラスだったような気がする」 


「星野さんよ、失礼な人ねえ」 


「あー、星野。星野……トモ?友達の友って書いてトモだろ?陰キャで友達いないのにトモってひでえ名前だなって思ってたんだ。不細工な女の子の名前が麗美とかそういう感じ」


 全国の麗美に謝れ、ていうか自分だって友達いないだろ、という言葉を星野は飲み込んだ。学年のほぼ全員から引かれていて、同じ美術部の少数の人間としか付き合えないくせに、どうしてそんなに偉そうなんだ。


「まあ四日間よろしくな」 


 大月レオは図書室中央に置かれた長テーブルの上にリュックを投げ出すと、大量の教材を取り出し始めた。一人で四人分くらいのスペースは使う気でいるらしい。星野はしばらく立ちつくしていたが、ふと我に返り長テーブルの反対の端に向かった。大月は入り口側で、星野は一番奥だった。


「二人とも、せっかくだからこの機会にお友達になれると良いわねえ」


 無理です先生、と星野は思った。それは絶対に無理です。



 曇り空が広がる、凍えるような冬の土曜日。真っ白なワードの画面を見つめながら、あの時は本当に嬉しかったと星野は思い返していた。


 六畳のフローリングのアパートで時計の針の音を聞きながら、無駄にスクロールを繰り返す。先ほど淹れたばかりのインスタントコーヒーの湯気が揺れている。


 星野は高校在学中に執筆したSF小説でとある文学賞の新人賞を受賞し、受賞作は大学一年生になった頃に出版された。この分野では珍しく大ヒットの重版出来で、一時はアニメ映画化の話まであった。


 あの時は本当に嬉しかったのに。

 中学時代はいじめにあいズボンを脱がされたり虫を食べさせられそうになったりして、地獄のような日々だった。高校に入ってからは友人が出来ず、修学旅行にも行けなかった。


 運動音痴で歌も絵も下手で、面白い話で人を笑わせる事も出来ない。そんな自分の作ったものでも人を楽しませる事が出来るというのが本当に嬉しかった。星野自身が人を楽しませたり笑わせたりすることは出来ないが、星野が作った世界の中で誰かが泣いたり笑ったりしてくれるのだ。


 二作目は、一作目以上に読者に喜んでもらいたかった。もっと良いものが書ける自信があったし、自分はSFに限らず求められるものを書けると思っていた。 

「結果、最悪だったんだよな」


 大学在学中に書いた二作目のファンタジーは悪評だった。かさぶたを剥がすような行為だと理解しながらも、こうして新しく書こうとするたびに当時の書評サイトやアマゾンのレビューで書かれていた事を思い出してしまう。


『一作目を読んで面白かったので期待していただけに残念』『登場人物の誰にも共感出来なかった』『三分の一で読むのをやめた。金の無駄だった』。 


 『次に期待している』『一作目の続きを待っている』という声もあったし、ネット上にある声だけが全てではない。それを頭では分かっていても、否定が重くのしかかる。そして星野は書けなくなった。


 自分のベストを尽くして面白いものを書きたい。待っている人に、待った甲斐があったと思ってもらえるような作品が書きたい。読んだ人に喜んで欲しい。まだ自分はやれると心のどこかでは思っている。


 しかし、実際には書き始める事も出来ないのだった。まだ本気を出していないだけとは、口が裂けても言えない年月が経過している。出版社は何故かまだ時々星野に仕事の依頼をくれるが、こうも断り続けていては見限られる日も近いだろう。


 いつの間にか自分の頬が濡れている事に気付いて、一人の部屋で星野は乱暴に頬を拭った。


 小説を書くことがこんなに辛いことになるなんて、思っていなかった。幾つもプロットを立てるが、最後まで書く事が出来ない。しまいには書き出す事すら出来なくなった。会社で処理しきれない仕事の山に埋もれてパニックになるより、ミスをしてお客さんや佐々木に叱責されるより、もっと辛いのは書けないという事実だった。 


 星野は大学在学中に自分に才能が無い事を悟った。筆一本で生きるなど、自分には不可能だった。普通に生きるために就職したが、会社では人並みの事が出来ていない。


 特別になれず、普通にもなれない。そんな人間はどうやって生きていけば良いのだろう。


 気付くと窓の外が暗くなっていた。街灯の光に照らされ、雪片が舞っている。 


 死ぬ勇気は無いけれど、生まれてこなければよかったとは思う。生まれてこなければ、こんなに苦しむ事も無かったのに。最近は、本を読んでも映画を見ても、もう何も感じない。


「もしくは―――異世界転生してえ」

 不慮の事故で死んで中世ヨーロッパ風異世界に生まれ変わって、チート能力で美少女たちとハーレムしたい。そこではこんなに苦しい事は無いだろう。 


 大月はきっとこんな事は思わないだろう、と星野は思う。というか、そもそもなろう小説を読もうとか思わないんだろうな。


 寒さが忍び寄ってくるが、星野はカーテンを閉めようともコーヒーを淹れなおそうともしなかった。ただノートパソコンの蓋を閉じ、じっと座っていた。



「三月末で退職させてください」

 自分の声のはずが、他人の声のように聞こえた。星野は課長の前で精一杯淡々と続けようとしながら、ふと、高校の修学旅行から逃げた時もこんな風だったなと思い出した。


 ただし、今回は女手一つで育てて大学を出してくれた母親に報告はしていない。

やっぱりな、と思った。だって自分は修学旅行に行かなかったような奴だから。だからこういう事をするのだ。


 ガラス張りの会議室で、目の前に座った課長はうーんと唸って「何か理由はある?」と聞いてきた。


 小説の執筆に専念したくて、と星野は言った。作家だった事は入社時の面接の際に話しており、おそらくはそれが「クリエイティブな人材」と評価されて採用に繋がっていた。


 残念だけどそういう事ならね、佐々木には僕から話しておくよ、と課長は言った。小説の執筆に専念したいというのは完全なる嘘で、仕事を辞めたところで何も書けやしない事は分かりきっていたが、星野には何か理由が必要だった。


 あまりにも仕事が出来ないので辞めたいとは言えなかった。友達がいないから修学旅行に行きたくないと言えなかったように。


 会議室を退出した星野は、暗澹たる思いで無人の廊下を見つめた。その先にはいつかのように何もなく、誰もいなかった。


 三月下旬、星野の最終出社日には夕礼が開かれ、皆の前で花束を贈られた。佐々木は不機嫌な顔で星野を一瞥しただけだった。「いじめてやめさせたんでしょ。成功しましたね」と誰かが佐々木を小突く。平野は「寂しくなるなあ」と言ったが、友人たちには小声で「私が教えた事全部無駄じゃん。働く気無いなら最初から就職するなよ」と囁いていた。


 そして星野は、新卒で入った会社を二年間勤めて、辞めた。



 それから星野は全く無為に過ごした。部屋から外へ出る事が出来ず、生活のための最低限の家事をすることも出来ず、油っぽい髪でゴミにまみれたベッドの中から出てこなかった。


 お前はクズオブクズだ、と何回も心の中で自身を叱咤激励するものの、激励された自分はもう勘弁してくださいと言って身悶えするだけだった。そして結局ベッドからは出られない。


 四月二十五日、最後の給料が振り込まれた。星野はその日の夕方、ベッドの中で、アプリを使って預金残高を確認した。

 日は落ちていき、近所の小学校のスピーカーから「ゆうやけこやけ」が流れている。向かいの一軒家からは肉じゃがの良い匂いが漂ってくる。


 あまりにも寂しかった。もうずっと誰とも話していなかった。


 星野はその切ないメロディを聞いている内に発狂しそうになった。そして迷った挙句、久しぶりに自分の担当編集者に電話を掛けた。出版社の定時が十七時かどうかは知らなかったが、もしそうだとしたら定時後に本当にすみませんと思いながら。


「はい、篠原です」

「き、木原です。お久しぶりです…‥‥」

 はきはきした声の相手が数秒黙ったので、もしかしたら作家の木原律は忘れられているのだろうかと星野は気を揉んだ。こうして会話を交わすのは、実に半年ぶりの事だった。


「会社辞めた?転職先も決まってない?それじゃ、何か書きあがったんですか?」

 篠原は、何か書きあがったから自分に電話してきたんでしょうと言いたげな様子だった。もちろん何も書き上がってはいなかった。


「書きあがっていないです」

「はあ?それでは……どこかで連載させてもらえるよう、働きかけてほしいという事でしょうか」


「連載小説なんて書ける自信無くて……」

「先生はどのような目的でお電話されているんでしょうか。先生が仕事を辞めようがどうされようが、私には関係ありません。さっさとハローワークに行くなり転職エージェントに相談するなりすれば良いでしょう」


「はい……」

「ようやく電話してきたと思ったら、何なんですか?まさか、話し相手がいなくて寂しいとかではないですよね。私は先生のお友達でも、カウンセラーでもありませんが!」


 険しくなっていく声に、電話口の向こうの美人のまなじりがどんどつり上がっていく様子が容易に想像出来た。星野は自分の脇の下に汗がにじんでくるのを感じる。

 

何かを変えたいと思って真っ先に思いついたのが篠原に連絡を取る事だったが、具体的に相談したい事がある訳ではないのだ。こんな電話、篠原もいい迷惑だろう。


 その時、テーブル上に置かれたコードレス電話機が鳴り始めた。今時固定電話なんて必要ないと言ったのに、一人暮らしを始めた時に母親が買ってきたものだった。もっぱら母親からの電話応対のみに使用されているホットラインである。


 母さんだ、やばい。


「し、し、篠原さん、すみません。母さんから電話がかかってきて、あの、ちょっと取ります!」


 軽いパニックに陥った星野は左手でスマホをもったまま、右手で電話機を取った。もちろんスマホの通話を切ることも、保留にすることもしていない。こういう所が仕事が出来ないと言われる由縁なのだが、焦っている本人は気付いていない。


「もしもし!」

「おお!スマホの方が繋がらないから着信拒否されてんのかと思って家の方にかけてみたら、当たりだった」


 コードレス電話機のスピーカー設定がオンになっていたため、騒がしい声が大音量で部屋に流れる。なんで家電の番号まで把握してるんだよ、と星野は思った。


「大月かよ!今編集さんと話してるから、もう切るぞ!」

「編集と話してる?次回作のことか?ていうか、何でこんな時間に家にいるんだ?」

「うるさい馬鹿、仕事辞めたんだよ!こっちは人生詰みそうで、焦ってんだよ!」


 八つ当たりで怒鳴ってしまい、星野はすぐに後悔した。星野が会社を辞めたのは大月のせいではないのだ。しかし大月は気にした様子もなく感心したような声を挙げる。


「やっと辞めたのか。会社勤めなんてお前に向いてる訳ないって思ってたぜ」

「向いてる訳無いって、どういう事だよ。本当はまだ辞めちゃいけなかったんだ。転職先も見つかってないし、何も書けていないし」

「じゃあ、お前は今何してるんだ?」

「何も、していないんだ!それが問題なんだよ!」


 星野は思わず叫んで頭を抱えた。この一か月というもの、本当に全く何もしていなかったからだ。


「大月って、大月レオですか?」

 左手に持ったスマホから篠原の声がしたので、星野は慌ててテーブルの上に電話機を置いてスマホを左耳にあてなおした。


「すみませんすみません、保留にしてなくて申し訳ありませんでした」

「現代アーティストで、画家の大月レオですよね!お知り合いだとはお伺いしていましたが、仲が良いんですね。今度サイン貰ってきてください。何か作品をプレゼントされたりしたことはないんですか。ぜひ譲ってください!」


 大月は都立高校卒業後、東京藝大に進学しロンドンに留学し、卒業後は画家になった。まだ若いが、国内でも海外でもそれなりに有名らしい。


 とはいえそんな世界の話は星野には縁が無く、興味も無く、詳しい事は知らなかった。そもそも、画家で現代アーティストというのはどのようにして「なる」職業で、どういう生計の立て方をしているのだろう。


 ただ、いつも海外から連絡を受ける度、遠い世界の人間だと感じるのだ。


「いや、もらったことはないです。それに仲が良いというわけでは」

「大学生の頃藝大の文化祭に行った事があって、その時初めて彼の作品を見ました。一人の学生の絵でした。それがずっと忘れられません」


 学生の絵と言われてみると、星野もまた記憶の中に思い当たる節があるような気がしたが、何か思い出す前に大月が喋り始めた。


「マジで何もしてねえなら、パリに遊びに来いよ。ロンドンは飽きたから、今はパリの五区にアパートを借りて制作してるんだ。広すぎて、持て余してる。お前に一部屋貸せるし、長期滞在してヨーロッパ観光の拠点にしていいぞ。英文科だったよな?ちょっとは英語話せるんだろ」


「無収入なのに、そんな風に豪遊する金があるわけないだろ!心の余裕も無い!」

 星野はスマホをしっかりと持ったまま顔だけを電話機に向け、大声で言い返した。


 英米の作家の小説を原本で読みたい気持ちと、グローバル時代に必要な人材になれるという口上に載せられて英文学科に進学し、半年間留学もしていた。大学も勉強も楽しかったが、社会に出てみると使い物にならず、星野は特に時代に必要とされる人材にはなれなかった。


「あ?じゃあ東京のアパートにいれば何か書けるのか?それとも真面目に転職活動する予定があるのか?」

「パリのアパルトマン?いいですね、それ。私が行きたいです」


 篠原がブツブツとつぶやいているのが左耳から聞こえてきて、星野の混乱に拍車がかかる。


「無収入の奴から家賃だの光熱費だの取り立てる程金に困ってる訳じゃないし、一銭もいらないから心配せずに来てみろよ。それに最近猫も貰ってきたんだ。猫、可愛いぞ」


 星野はパリに行きたいと思った事など一度も無く、そのため大月の提案を篠原のように嬉しいとは思わなかった。むしろ、大月との共同生活など想像するだけで胃が痛くなりそうだった。


 しかし、猫の存在には心惹かれるものがあった。最近はユーチューブで可愛い猫の動画ばかり見ていて、自分でも液状おやつを食べさせてみたいという欲望を持て余していたのである。 


 ふと、別の土地でなら今までと違う気持ちで小説と向き合えるのではないだろうかという希望が、星野の脳裏を過った。この東京のアパートでは出来なかった事が、パリでなら出来るかもしれない。


 あまりにも都合が良すぎる考えだった。けれど、一度そう考えてしまうと、どうしてもそれを振り払えない。


「……でも、どうしてそんな事を提案するんだ?それって、大月に何かメリットがあるのか」


 本当は、ずっとこの家に閉じこもっていたかった。今の自分の状況を誰にも見られなくない。誰にも裁かれたくない。けれど時間は止まってくれないのだ。


 いつか必ず、ここから出て行かなくてはいけない。


 星野は暮れなずむ空を見上げ、無意識に髪を掻きむしった。乾燥した頭皮からパラパラとフケが落ちた。


「どうしてだって?―――俺の生き様を見てもらって、伝記を書いて欲しいからに決まってるだろ。偉大なアーティストの若き日々の記録を名文でまとめてくれ。後世の美術史研究で、必ず必要になるから」


 何だそれ、と星野はうめいた。こいつは、どうして自分の人生は伝記にする価値があると確信しているんだ。


「先生、ここは大月さんのご好意に甘えてパリに行ってください。女性誌のWEBサイトで無料配信小説のコンテンツを作ろうとしているところがあるので、そこで連載出来ないか交渉してみます!日本人の女性はパリが大好きですから、パリを舞台にしたキュートで心ときめく小説を書いてください」 


「え!?そんなの、全然自分の路線じゃないですよ。絶対無理ですよ。ていうか、パリが大好きなのは篠原さんの個人的な…‥」


「無理とか言うんじゃない!情けない声で訳の分からない電話をしてきておいて、他にやれる事もやりたい事もないくせにグズグズしない!」


 地獄の底から響いてくるような声に、星野はハイと言うことしか出来なかった。早く来いよ、と大月は嬉しそうに言った。


「そうだ、何か用意しておいてほしいものあるか?」


「……フケの出ないシャンプー?」

「そういうの、日本でも売ってるだろ」

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