月と星
あき
一部 元作家、逃げる
第1話
プロローグ
会議室で待っていると、女性編集者と若い作家の二人が入室してきた。編集の方は相変わらず目の保養になる美人だったが、初めて直接会う作家の方も意外な程見栄えのする顔をしている。
ただし、どう見てもその前頭部から額にかけてがホチキスで留められている。
巨大なホチキスである。
有名な若手画家との友人関係について詳しく聞こうとすると、作家は言葉を濁した。彼は先ほどから画家の話になるたびに無意識に頭の方に手を伸ばしかけ、引っ込めるという事を繰り返しているのだが、自分では気づいていないようだ。
「いや……そうですね。びっくりするような事もありましたが……。…‥‥すみません、何でもありません!パリで暮らしていた時の話をすれば良いんですよね」
隣の編集者に冷たく睨まれている事に気付いたようで、作家は何でもないですと繰り返した。
一部 元作家、逃げる
一
「修学旅行、不参加にさせてください。親とも相談してあります」
星野は精一杯淡々と続けようとしながら、高校の修学旅行から逃げたという事はこれからの自分の人生を変えるだろうと思った。
自分はどんな大学に入っても、どんな会社に就職しても、何歳になっても、「高校の修学旅行に行かなかった」人間だ。修学旅行を楽しみに出来るクラスの勝ち組と、嫌々でも参加する人と、こうして逃げる自分の違い。
この違いは、将来必ず現れてくるはずだ。
その時きっと思うんだ、ああやっぱりそうかって。だって自分は修学旅行に行かなかったような奴だから。
「前払い金も振り込まないので……」
西日の射す古い数学科の準備室には、コーヒーの香りが漂っている。三人分の教師の机に本棚、机の上には教材や受験対策本の他に家族写真やミニカーのコレクションが飾られている。滅多に訪れることのない準備室の雰囲気に、星野は汗で湿った手のひらをこっそりとズボンで拭った。
二-Bの担任は緑色のマグカップでコーヒーを一口飲んだ。そして、「お前はそれでいいのか」と言った。村上は背の低い、真っ黒に日焼けしたテニス部顧問の数学教師で、小さな目は深く刻まれた皺の中に埋もれている。
どうしても修学旅行に行きたくなかった星野は、当日に仮病を使おうかとか前日に階段から飛び降りて実際に脚を折ろうかとか、色々なアイデアを一生懸命に考えていた。
直前のキャンセルの場合は参加費が三割しか払い戻されないという事に気付いたのは、つい最近の事である。
「うちはビンボーだから」が口癖の母親に無駄なお金を払わせるのが忍びなかったため、こうするしかないと決意したのだ。
先日、母親には自分は修学旅行に行かないので参加費を払う必要が無いという宣言をした。星野にとっては非常にいたたまれない瞬間だったが、母親は「そうなの」とだけ言った。何故修学旅行に行かないのかとは、尋ねなかった。
将来、もし高校の修学旅行について話す機会があったとしたら、自分はきっと「風邪をひいてしまって参加出来なかった」とでも言うのだろう。けれど実際はそうではないのだ。そうではなかったという事を、その度に思い出すだろう。
「それでいいです」
村上は「そうか」と言った。分かった、もう行っていいぞ。
夕日の眩しい準備室から退出し、薄暗い廊下に足を踏み入れた瞬間、星野の胸の中は真っ黒になった。修学旅行に行かずに済む事への安堵感を覚えるのと同時に、こんな自分が嫌で消えてしまいたいと思った。
日中とは打って変わって無人のリノリウムの廊下は、消灯された薄暗い中をまっすぐに伸びていく。星野は何もないその先を見つめていた。一つ上の階の音楽室から吹奏楽部の合奏の音色が降ってくる。まだ音の合わないバラバラの演奏はしばらく続き、唐突に途絶えた。
*
石の上にも三年、石の上にも三年、石の上にも三年。
隣の席の営業が耳に当てたスマホから怒鳴り声が漏れ聞こえてくる。内勤営業の星野がサポートしている外勤の佐々木は先ほどから電話口で平謝りしていて、星野にも次第に会話内容が把握出来てきた。
自分のやった事でクレームの電話がかかってきている、と気付くと血の気が引いた。脳みその一部分が凍り付いてしまったかのように、頭がジンジンとしびれる。
「申し訳ございません」を繰り返す佐々木は、じっと星野を睨んでいる。星野はただ座っている事も出来ず、とりあえずは目の前の仕事に手を動かすものの、少しも集中出来なかった。
「おい、クレーム入ってんじゃねえか!高橋さんの件一週間も連絡してないってどういう事だよ!」
佐々木がデスクの脚を蹴りつける音に、斜め向かいに座った女子社員が肩を震わせて目を背けた。
「メ、メールは入れてあるんですが」
「あの人は現場にいるからメールのチェックなんて出来ねえの!大事な事は電話しろって、ついこの間言っただろうが!大体、一週間も返事が無かったら普通おかしいと思うだろうが。なあ?おかしいと思わなかったのか?」
星野の仕事は常に火の車状態だった。メールの返事が無い事をおかしいと思わなかったのではなく、他にやるべきことがありすぎてメールの返事が無いという事に気付いてすらいなかったのだ。
星野の中では高橋さんの件は「自分のやるべき事はやったので後は返事を待つだけ」というフォルダに収納され、そのフォルダの中身は一度も顧みられないまま一週間が経過していた。
「マジで使えねえよな」
「すみません」
「すみませんじゃなくて、ちゃんとやれっつってんだよ!マジで何回言わせんだよ!自分は仕事出来ねえって分かってるなら、せめて人の倍確認しろよ!何で俺かお客さんから言われるまでいつもいつも何もしてねえんだっつーの!」
本当にその通りだと星野は思った。一体何回同じ内容で叱られているのか―――数える事も出来ない。
佐々木と星野がペアを組んだのは星野が入社してから半年後の事だった。それから一年が経過しているが、佐々木に怒られない日はほとんど無い。叱責は回を増すごとに激しくなり、つい先日も夜二十二時の人気の無いオフィスで立たされ、延々と説教をされたばかりだった。
佐々木さんお電話入っています、と言う女子社員の声で佐々木は舌打ちしながら乱暴にデスクの上にスマホを放り出し、ビジネスフォンの受話器を取った。星野は強張った体でそろそろと立ち上がり、静かに離席した。
またやった。また同じことをやった。
星野はトイレの個室でしゃがみ込み、口に手を当ててしゃくりあげそうになるのを堪えた。理不尽に怒られている訳ではないという事は分かっていた。いっそ理不尽に怒られているのであればまだ良かった。それなら、ただ相手を恨むことが出来るのに。
佐々木は火が付いたように怒るが、その後罪悪感に駆られた顔になり、少し優しくなる。しかし星野がまた新しいトラブルを起こし、再び佐々木を怒らせるという事の繰り返しだった。
星野は仕事が出来ない。最初の一年は「新人だから」で済んでいたものが、次第に言い訳出来なくなっていった。既定の残業時間を越えて残業しても仕事は回らず、疲労と恐怖感が募り、それが更なる失敗を呼ぶ。
大学時代にアルバイトをしていた時から、自分がいわゆる「仕事が出来ない人間」だという事に星野は気づいていた。物覚えが悪く、理解が遅く、どこか抜けている。いつも他人に迷惑をかけている。
星野の中には、石の上にも三年と唱える自分と、もうこの会社を辞めたいと泣き言を言う二人の自分がいる。けれど、この会社を辞めてどんな会社へ行っても自分はこうだろうという予感もあった。この会社を辞めれば全てが終わる訳では無い。生きていくには働き続けなければならないのだ。
つまり、生きている限り同じ事を繰り返し、人に迷惑をかけ、叱られ続けるという事なのだと星野は思う。
最近は休みの日でも仕事の事ばかり考えている。好きだったものに手を付けられないでいる。数少ない友人に遊びに誘われても、どこにも出かけたくないと思ってしまう。
学生の頃はクラスにいる事が常に苦しかった。いじめられていた中学生の頃から学校生活に適応出来ず、高校時代は一人も友達が出来ず、修学旅行に行けなかった。あと何年学生でいなくてはいけないのだろうかと、数えて過ごしていた。
大人になった今こうして振り返ると、学生の頃の方が良かったような気さえする。学生でいる事には終わりがあり、自由に過ごせる長い休みもあった。社会人である事は、死ぬまで途切れず、終わらない。
何もかも真っ黒に塗りつぶされていくようだった。
星野がゆっくり立ち上がると、その瞬間に昼休みを知らせるチャイムが鳴った。不思議な事に、それは学校のチャイムと全く同じ音色だった。
トイレから出てエレベーターホールへ向かうと、ホールにはすでに人込みが出来ていた。茶色の髪が肩にかかる華奢な背中と、ワックスでツンツンに立たせた黒髪の広い背中を見つけて、星野は思わず人込みの後ろに隠れた。
斜め向かいの席の女子社員、平野は星野の一歳年上で、配属当初の星野に電話の取り方やコピー機の使い方をマンツーマンで教えてくれた先輩だった。色白で華奢な平野はいつも華やかな柄のスカート姿で、それがよく似合っている。
平野は社内でも人気があるため、接する機会の多い星野は同期から羨ましがられたものだった。
「あいつ戻ってこないとか何なんだよ。サボってんじゃねーよな」
「えー、トイレで泣いてたらどうするんですか。かわいそうですよ」
二人の声がよく聞こえる。大勢の人の話し声の中で、星野の耳が勝手に二人の会話を追っている。
「知るかっての。勝手に泣いてろ」
「いつも突然怒りだすから、周りもびっくりするんですよ。すごく空気悪くなるし……」
「俺のせいじゃないだろ。マジで誰かとあいつを交換してほしいんだけど。平野さんもあいつはヤバいって思わねえ?」
「あはは、まあポンコツですよね。最初、電話の取り方教えてる時からヤバかったし」
「だろお?」
「ていうか、星野くん最近すごく皺の寄ったスーツ着てません?髪もボサボサだし、肩にフケ落ちてるし、変な匂いがするし。正直近づかないで欲しいって言うか」
エレベーターが到着し、二人の声が遠ざかる。乗り切らなかった人々の中で、星野は小さくなって隠れていた。
*
風は海の匂いを含んでいる。打ち寄せる水の音が、耳の奥に静かに響く。
黒々と横たわる夜の隅田川に屋形船が行き交っていた。赤い提灯をぶら下げた昔ながらの船もあれば、現代的に青いLEDで装飾された船もある。真っ黒な水面に光がゆらゆらと揺れている。
右手には道路照明が白く灯る隅田川大橋があり、対岸にはオフィスとマンションが並んでいて、窓から漏れる明かりが等間隔に夜に浮いている。
星野の勤めている会社の入るオフィスビルは、隅田川沿いにあった。昼の時間には大勢の会社員がたむろしている隅田川テラスだが、夜はウォーキングやジョギングをしている地元住民が時折通る程度で静かなものである。
チャプチャプという水の音が心地良い。
星野はテラスへと続く階段を下り、その途中に腰かけた。腕時計を確認すると二十一時になったところだ。こんなところで油を売っていないで、早く帰った方が良いということは星野にも分かっている。
午前中のクレームの電話に続き、午後は星野の見積の間違いが発覚していた。仕入れ先に在庫の無い製品で、数か月先にならないと日本に輸入される見込もなかった。星野は代替品を探したが見つからず、佐々木が頭を下げて社内の別の人間の確保していた分を譲ってもらう事で一応の解決を見た。佐々木のドスの利いた怒鳴り声、平野の呆れ顔が星野の頭の中で何回も何回も繰り返される。
星野は膝を抱えて鼻をすすった。泣きそうになっている自分に、キモいぞ、と言い聞かせる。どうしてお前はすぐ泣くんだ。
キモいぞ、お前。それよりも仕事をちゃんとやれよ。ていうか、スーツはアイロンかけて、清潔にしてないと、平野さんに近づくなって思われたままだぞ。
星野はしばらく体育座りでじっとしていた。ふと顔を挙げると、犬の散歩をしている中年の女性と目が合った。
「……あら、あなた大丈夫?」
「あ、いや、大丈夫です!すみませんすみません」
突然大きな音でスマホの着信音が鳴り出し、星野は慌ててリュックを漁った。誰だか知らないけど、ナイスタイミング。
「あの、電話かかってきちゃったんで、それじゃあ!もしもし?」
勢いよく電話に出て、朗らかに酔っぱらった相手の声を聴いた瞬間に星野は後悔した。女性は心配そうに星野を振り返ると、そのまま散歩に戻った。
「よお星野!初めてワンコールで出たな!なあ、俺今どこにいると思う?」
「……いや知らんけど。酔っぱらってんのか?」
高校時代の腐れ縁からの電話だった。とはいえ、高校生の頃はそれほど親しかったわけではなく、星野にしてみれば何故大月が卒業後になってやたらと自分と交流を持とうとしてくるのか分からなかった。
一度理由を尋ねてみたところ、大月にとって星野は『通じる所のある奴』という事になっているらしかった。すべて大月の勝手な思い込みである。
星野は高校時代の大月の姿を思い出す。二人が通っていたのは、私服通学可の普通科の都立進学校だった。服装や髪型に関する校則がまったく無かったため、派手な格好の生徒は一定数いたが、その中でも大月は一人だけ悪目立ちしていた。
ハーフで、顔は良いのに、いつもそれを台無しにするような髪や服装をしていた。自分を良く見せようという意図は全く感じられず、全身全霊で自分は人と違うのだと叫んでいるような奴だった。
星野の印象に一番よく残っているのは、高校二年生の頃の、髪が赤信号のような色をしていた頃の大月である。あの頃に一番会話を交わした記憶があるが、それ以降はほとんど話さなかった。
「ヴェネチア・ビエンナーレを見にイタリアに行くってこの間話しただろ。面白かったよ。俺もいつか日本館に呼ばれるようになりてえんだけど。そろそろ開催期間も終わりだぞ、お前も来いよ、あっ」
豪快な水音がする。星野は隅田川の黒い流れを見ながら、大月はヴェネチアの海だか水路だかに落ちたのだろうかと想像した。
十代の頃、人と違う格好をして自分の個性をアピールしたいと考える人間はたくさんいるだろう。中には、大月のように奇抜な格好をする人間だっているはずだ。しかしその中の何割が、本当に人と違っているのだろうか。
外見だけではなく中身まで人と異なり、しかも特別な才能を持っている大月のような人間は、どのくらいの確率で存在しうるのだろうか。
入社二年目の普通の会社員がイタリア旅行に行ける程休みを取れる訳ないし、そんな貯金も無い。大月にはそれが分からないのだろうか、と星野は思う。
分からないんだろうなあ。あいつ、もうほぼ異世界の住人だもんな。
自分はこれからも六畳ワンルームの壁の薄いアパートで暮らし、毎朝早起きしてギュウギュウ詰めの通勤電車に乗って、ベッドタウンから都心へ通う。残業して帰宅する平日に自分のやりたい事をする余裕は無く、ただ週末を心待ちにして生きる。フィクションの世界で無双する自分を夢見て、現実から目を逸らして何とかやっていく。
星野はそれが普通だと思っているし、それで良いと思っていた。むしろ最近は、そういう当たり前の生活を送る能力が自分にあるのかどうかが不安でたまらなかった。
大月のように特別になりたいなどとは思わない。ただ普通になりたい。せめて普通になりたい、皆と同じようにしていたいと学生の頃からずっと思っていたのに、二十四になっても普通になれる気配が無いのはどういう事なのだろう。
「ハハハ、最新機種だから完全防水なんだよ。だから大丈夫、ックショイ!」
しばらく沈黙していた大月は再び上機嫌に話しだした。何とか自力で陸に上がったらしい。
「実は、まだ会社の近くにいるんだよ。さっき仕事終わったばかりなんだ。もう帰りたいから切っていい?」
「会社あ?会社なんて辞めてさ、小説を書けよ。本業は小説家だろ。俺は最初に読ませてもらった時から好きで、ずっと続きを待ってる」
大月は星野と話す度、折に触れて昔の話を持ち出す。大月は何故か物語の続きをいつまでも待ち続けているのだ。
こうして催促される度、星野は本当にやめてほしいと思う。
「大月、風邪引くから電話切ってさっさと帰れよ。あんま呑み過ぎんなよ」
「あ?ああ」
通話を切ると、屋形船から聞こえてくる賑やかな笑い声が星野の耳に届いた。楽しそうな声。
それは星野に、一人も友達を作れず、ホームルームが始まる前の待ち時間にぽつんと一人で席に座っていた高校時代の事を思い起こさせた。
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