第10話




「完全犯罪にも、種類はあるんだ」

 八坂はノートの上の、神経質な右上がりの文字を指でするりとなぞった。ベッドに背中を預けている八坂を、俺は見下ろしていた。

「種類?」

「犯人がわからないことだけが完全犯罪じゃない。むしろ、そんな完全犯罪はほとんど存在しないよ」

 そう言いながら、八坂はノートの角を折って、それを俺に手渡した。薄いノートを受け取って、その文字列にそっと視線を滑らせる。几帳面にも均等に並べられた文字は、パソコンに入力したフォントのように見える。

 よく八坂からノートを借りていたことを思いだして懐かしくなった。

 丁寧に描かれたノートの内容は、当然ながら俺の父親を殺す計画についてだ。

 文字を目で追いながら、自然に自分の眉間が寄っていくのに気が付く。

「……こんな計画でいいのかよ」

「何か気になることあった?」

 すっとぼけたような軽い声で八坂が返事をする。俺の反応に大した興味もないのか、手元のスマートフォンで数字がびっしり描かれたウェブサイトを覗き込んでいる。

 俺はもう一度手元にあるノートに目を戻す。

「だって、これ」

「確実性が無いって言いたい?」

 八坂がくるりと振り返る。口元が薄く歪んでいる。瞳がまっすぐにこちらへと向いた。

 色素の薄いその目に見つめられ、俺は軽く瞳を惑わせる。そんな俺を見ながら、八坂は楽しそうに鼻先で笑う。

「完全犯罪殺人種類があるって言ったよね」

「ああ」

「そもそも、それが事件じゃなければ、犯人なんていないんだ」

 自分の喉が小さく鳴った。八坂は満足気に頷く。

 俺は見ていたノートをパタリと閉じる。八坂の言いたいことを、すっかり理解した。

「いい作戦じゃない?」

 軽やかな八坂の声に、俺は俯くだけで肯定した。



 ***



 随分空いている電車車内で、座席に座ってガタガタと揺られながら、八坂との会話を思い出す。もう一度スマートフォンを取り出して、八坂との会話を確認する。

 ふ、と息を吐き出してから、最寄り駅の名前が呼ばれると同時に立ち上がった。


 しばらく立ち寄っていなかったというのに、来るときには何度もそのきっかけがあるものだ。重たい足を引きずりながらだらだらと身体を前へ進ませる。

 家の前に着いてから、ほんの少しためらった。だが、その気持ちもすぐに飲み込むと、薄い扉を引いた。扉は嫌に軽かった。

「ただいま」

 軽く呟いた言葉だったが、部屋の中に大きく響いた。

 居間の机に肘を置き、ぼんやりとした目でテレビを見ていた有紀が、振り向き、ゆっくりとその目を見開く。

 そして、次の瞬間には飛びつくように俺の胸の中に飛び込んで来た。あまりに不意の出来事にその重さに耐えきれず、閉じた玄関の扉に頭と背中を打つ。が、有紀は俺の身体を心配するようにぎゅ、と抱き付いたまま離れない。

「……心配、させないで」

 囁くように呟かれたその言葉に、自分の後頭部をかいた。そしてそのまま、その頭を撫でてやる。

「ありがとう」

 小さくそう言うと、有紀はすぐに身体を離して不満そうに俺を見上げる。

 涙こそ流れていなかったが、その目はほんのり赤くなっている。本当に心配させてしまっていたようだ。

「頭なんて撫でて。生意気なんだから……。とりあえず上がって休みなさい」

 はぁ、とため息を吐きながらそういうと、有紀は俺が持っていた荷物を持って部屋に戻る。俺も自然に口元から零れた笑みを落として、慣れ親しんだ自宅にあがった。


 有紀は荷物を置くとすぐにキッチンへ向かう。俺はちゃぶ台に腰を下ろし、机の上にあった煎餅に手を伸ばした。

「お茶、冷たいのと温かいのどっちがいい?」

「冷たいの」

 返事と同時に冷蔵庫が開く音がした。しばらくしてすぐに有紀がグラスを二つ持って部屋の中に戻って来た。氷がカラン、と小気味いい音を立てる。

 俺の目の前に麦茶の入ったグラスを置きながら、有紀が口を開く。

「身体は平気? 頭打ったって聞いたけれど」

「うん、もう平気。親父にも帰っていいって言われたし」

「なら安心」

 ふ、と安堵のため息を零して有紀は笑った。それから手元で汗をかくグラスを手に取って、ゆっくりと喉に流し込む。疲れているせいか、目の端に深い皺が見える。

 グラスを取る手も疲れているのか皺が目立つ。かなり心配させてしまったのだろう。俺の一つ下のはずだが、その手は一回り以上上の人間が持つもののように見える。

「なんか、老けたな」

「随分ひどいこと言うね」

 眉を潜めながら有紀がこちらを睨みつける。

「これでも年よりはずっと若く見られるんだけど」

「嘘だ」

「本当にひどい子に育っちゃって」

 呆れたようにため息を吐くその仕草がまたおばさんらしくて、つい鼻先で笑ってしまった。




 最近の話をしながら、自然と話題は同窓会の話になった。

「翔くん、参加するの?」

「まあ。高校のときのメンバーしっかり覚えてなくてちょっと不安だけど」

 不安げな視線をこちらに向けながら、少し有紀は考えるように自分の目の前にあるグラスを見つめた。

「雫ちゃんは?」

「ああ、行くって」

「ああそうなの。それなら楽しみだね」

 ふふ、と小さく笑いながらいたずらっ子のような顔をして有紀が笑う。なんだか子供扱いされたような気がして、煎餅をかじりながら有紀を睨む。

「でも、八坂は来れないからなあ」

「そうなの?」

「なんか用事入ってるとか」

 そう、と有紀が小さく返事を返す。視線は俺から外れ、ちらりとテレビを見た。

「ねえ翔くん」

 ぼんやりテレビを見ていると、有紀が声をかけてきた。煎餅をかじりながら視線だけで返す。

「やっぱり、帰ってこない? お仕事ここからでも十分通えるでしょう?」

 軽く身を乗り出して心配そうにそう尋ねる有紀に、小さく首を振って返す。

 俺の仕草を見ると同時に、有紀が悲しそうに眉を下げた。

「でも、また来るよ。近いうち」

 そう言いながら、グラスに残っていた麦茶を飲み干し、お代わりを注ぎに立ち上がる。

 キッチンに向かうと、背後の有紀を確認しながら食器棚を検分する。俺がいたときとほとんど並びは変わっていない。そっと引き出しを引いて、スプーンや箸も変わっていないことを確認した。

 茶碗も以前と同じように、それぞれの家族が使うように分けられている。小さく胸を撫で下ろしながら、冷蔵庫から麦茶を取り出して注ぐ。

 グラスを持って戻ると、有紀は真剣にテレビを覗き込んでいた。昼過ぎのバラエティでの特集は、恋人を失った辛さに自殺した一人の少年の家族の軌跡を描いているらしい。

 こんなに重たいものを昼間からやって、視聴率は取れるのだろうか。

「翔くんだったら、恋人が死んじゃったらどうする?」

 ちらり、と視線がこちらに向けられる。

「恋人、いないし」

「もしもの話」

 ちゃぶ台に肘をつきながら、有紀は俺と同じように煎餅に手を伸ばし、ばり、とかじった。

 恋人が、死んだら。

 テレビの中では、死んだ少年の母親がアルバムを記者たちに見せながら、大粒の涙を流しているシーンを映していた。

 ズキン、と、頭が痛んだ。やっぱり昨日、どこかで頭をぶつけていたのかもしれない。頭痛が残り続けている。

「俺だったらか」

 ぼそりと自分で呟いてから天井を見上げた。畳のざらりとした感触を指先で味わう。

「その人がいなければ生きていけないって思ったら、俺なら死ぬかもしれない」

 からん。

 有紀が口に入れようとしていた煎餅を机に落としていた。先ほどまで普通の顔色をしていたというのに、今見た有紀は、真っ青な顔でこちらを見つめている。

 慌てて言葉を濁す。母親が目の前で亡くなったときの有紀のことを思いだす。死に関わる話題は、禁句だった。

「……って言っても、ただの想像だよ。実際何も出来ないまま日常を送るんじゃないかな」

 はは、と小さく笑いながら、俺は机の上のリモコンを手に取り番組を変えた。ケーキを頬張る女性アナウンサーがテレビに向かって「美味しい!」と大げさに叫んでいる。

 有紀は机の上に落ちた煎餅に視線を移し「そうよね」と小さく言葉を落とした。それから無理をするように、ニコリ、とこちらにわざとらしい笑みを浮かべた。

 俺の知っている有紀は、こんな笑い方はしなかった。

 きっと。

 そう、きっと、父さんが全てを変えてしまったんだ。有紀のことも、この家族のことも。

「大丈夫だよ。もうすぐ、有紀も自由になる。もちろん羽菜も」

「……え?」

「大丈夫」

 ゆっくりと強くそう言いながら、俺は麦茶を口の中に流し込んだ。

 そう、俺は有紀を自由にしてやるんだ。全部を正すんだ。正しいことをしようとしているんだ。

 俺は、間違っていない。

「なあ、お前だったらどうするの?」

「……何が?」

「最愛の人を失ったら」

 聞きながら、震えそうになる指先をごまかすように机の下に隠した。有紀は考え込むように、そうね、と小さく囁く。

「死ねないわね」

 そう言って、今度こそいつも通りにっこりと柔らかい笑みを浮かべながらこちらを見た。

 それからちゃぶ台越しに身を乗り出し、俺の頭をふわりと撫でた。その感触が、妙に懐かしい気がした。

「だって、あなたがいるもの。ね、翔くん」

 その笑顔に、どうしてか胸の中に大きな穴が空いてしまったような気分になった。




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