第9話



 目を開いて見えた世界は、真っ白に輝いていた。光を強く反射してくらくらする白い天井とカーテンに目の奥が小さく痛んだ。

 俺は、どうして。

 考えようとして、先ほどより強い痛みが頭の真ん中あたりで響いて、身体を起こした。固いシーツの擦れる音すら不快で、右手で痛む後頭部あたりを抑える。

「大丈夫か」

 突然落ちてきた男の声に視線を上げると、ベッドサイドに鎮座する穏やかそうな男がこちらを見ていた。白衣が白いカーテンに紛れて、ぼんやりとした目では捕えられなかったのだろう。

 眼鏡の奥にある冷たい光は、以前と全く変わらないものに見えた。心を覗く温度を持たない視線に慌てて視線をそらす。

「親父」

 黒髪にわずかに混ざる白髪が年齢を感じさせる男は、もう還暦も近い年にしては若いと表現できるだろう。だが、口元、目元にはしっかりと刻まれた皺がある。

 ここは、親父の病院なのか。カーテン越しに薄く光が差し込んでいることから見て、何時間かは眠っていたのだろう。倒れた、ような、気がする。

 思い出そうとすると頭の軸に痛みが走った。だめだ、思い出せない。

「久しぶりだな」

「……ああ」

 目の前の男は表情を変えずに自分のことを見ている。ちらり、と見ては目が合わないように視線をそらす、を繰り返す。

 父は病院に勤務する医者だ。その忙しさ故に、家でゆっくりと過ごすことは滅多にない。それは小さな頃から、俺が出ていくまで変わらなかった。おそらく、今も変わらずそうなのだろう。

 父を見ると胸の奥が痛みでざらつく。有希の姿が脳内を掠め、病院の固いシーツを強く握った。

「頭の痛みはどうだ」

「別に」

「痛みはどういう種類だ。ガンガン響くか、ズキズキと痛むのか、それとも、神経が焼けるような感覚か」

「ズキズキ、に、近いと思う」

「倒れたときに頭を打った記憶は」

「軽く、だと思う。あんまり覚えてない」

「まぁ、検査結果に問題はなかったから安心しろ」

 手元に置いてあったボードのようなものを利用し、A4のコピー用紙にさらさと何かを書き写す。軽く覗くが医者特有のぐちゃぐちゃとした文字で、何を書かれているかはさっぱりわからなかった。

 痛みは徐々に穏やかになっている。起きた瞬間に感じた痛みに比べれば、今の痛みなど小さなものだ。後頭部の方に触れて、小さく息を零す。

「俺、なんで突然倒れたの」

「自分では憶えていないのか」

「八坂を見送ろうとして、それ、から」

 言葉と同時に脳裏でその時間を思い出そうとするも、ズキリ、と激しい痛みが落ちてきた。両手で目と額を覆って俯く。親父はそんな俺に触れることもせず、ただ小さく「そうか」とだけ呟いた。

 痛みはすぐに落ち着き、ゆっくりと顔を上げる。考えるように視線を斜め下に向ける親父は、やはり家を出たときと何も変わらない。

 不意に、視線が戻ってきた。慌てて視線を俯かせる。

「翔平。お前は誰が救急車を呼んだかわかっているか」

 親父の口から自分の名前が出てきたことに驚いて、回答が一瞬詰まる。

「……八坂だろ」

 親父は小さく頷いてからまたペンをコピー用紙の上で滑らせた。

「八坂くんの姿は思い出せるな」

「そりゃあ」

「それならば、頭に思い浮かべてみろ」

 何を言われているのかさっぱりわからないまま、八坂のことを考える。ぼんやり浮かぶ黒い学ラン姿。違う、これは高校のときのものだ。

 今日会っていた八坂は。

「……あれ」

 脳内に八坂の姿が浮かんでこない。服も、体も、顔も、何もかも出てこない。真っ暗な煙のようなもので隠され、その奥にある薄ぼんやりとしたイメージがあるだけだ。目の奥で光がチカチカと揺れるような感覚に、目をきつく瞑った。

 目を瞑っても、八坂の姿は高校時代のものしか浮かばない。

 おかしい、つい数時間前まで会っていた相手の、顔も姿も、思い出せないなんて。変だ、何かが、ずれている。目の前がぐるぐるする、頭が痛い、呼吸が苦しい。

「翔平」

 く、と顎元を掴まれる。詰まっていた呼吸が、ふ、と肺から外に流れる。そうすれば自然に酸素は肺の中に入ってきた。呼吸のことだけを考えているうちに、頭痛がゆっくりと治まっていく。

「吸うな、吐け。ゆっくり、深く」

 言われるがままに、ふ、ふ、と吐くことだけを意識する。浅い呼吸が徐々に深くなっていく。心臓の鼓動が正しいリズムを思い出した。

「一度、うちに帰ってこい」

 突然落とされたその言葉に、目を見開く。まっすぐこちらに向けられた視線と、俺の視線がぶつかる。

 その冷静を貫こうとする態度に、胃のあたりがカっと熱くなった。

「俺が家を出た理由、わかっているんだろ」

「……誤解だ」

「そんなわけあるか!」

 荒げた声は部屋の中の空気をびりびりと震わせた。親父の目の中に、小さく痛みのようなものが見えた。が、気のせいだったのかもしれない。瞬きの間にその色はいつもの冷淡なものに変わっていた。

「あいつも心配している」

「……あいつ、かよ」

 歯をきつく噛みしめる。ぎぎ、と嫌な感触がした。

 親父の目を睨みつけるが、親父はただ俺の視線を受け止めるだけでなんの感情も返ってくることはない。親父のかけているメガネが微かに光を反射した。

 この男を見ているだけであの夜のことが脳内に浮かんでくる。妹の手を取って、その腰を引き寄せて、唇を重ねる、その瞬間を。脳の奥が焼けるように熱い。

 ふ、と息を吐き出して親父は俺から視線を逸らした。それから軽くネクタイを緩めて膝の上に肘をおき、顎の下で手を組んだ。

「検査結果に関してはなんの問題もない。軽度の急性アルコール中毒の可能性が高いが、数値的には問題があるというレベルではない」

 淡々とそう言うと、立ち上がって俺に背を向けた。その背中をぼんやりと見つめる。真っ白なその姿は、家の中では決して見ることがない、医師としての親父の姿だ。

「私も今日は帰れない。あいつが本当に心配していた。今日くらいは帰ってやってくれ」

 背を向けたままそういう親父に、何も言えずに俯く。親父の背中は、ああいうものだったろうか。直視するのがどういうわけか恐ろしくなった。

「八坂くんにも、お礼を言っておいてくれ」

「……ああ」

 扉に手をかける瞬間、親父が一瞬こちらを見た気がしたが、俺はその姿を見ないまま俯いていた。扉が閉まる音がして、親父の足音が遠くに消える。それを確認してから、ベッドにもう一度横になった。

 酒を飲んで倒れるなんて、大学生みたいなことをしてしまった。三十も超えたというのに情けない。目の上に腕をかぶせてため息を零す。

 白衣に覆われた親父の背中が浮かんできた。あんなに、親父の背中は小さなものだったろうか。小さな頃から見ていた背中だったが、就職したばかりの頃はあの背中の大きさを超えることはできないと思った記憶がある。

「親父も、良い年だもんな」

 目の端に刻まれた皺や、髪の中に混ざる白い髪はここ何年かのものだろうか。思い浮かべる親父の姿にはないものだ。

「……そんな、親父が」

 妹相手には、男になる。

 言葉にしたくなくて飲み込んだことが間違いだった。胸の中を黒い何かが染める。

 頭の奥が、再びズキリ、と痛んだ。




 その後やってきた看護師さんの指示にしたがって、朝の九時を超えた頃には退院した。

 親父の言葉に従うのは少し気が引けたが、実家に帰ることにした。親父のことだから間違いなく有希には連絡をしているだろう。いや、その前に八坂が連絡をしてくれている可能性もある。有希の性格を考えれば、間違いなく俺を心配している。

「……あんまり、気は進まないな」

 電車を待ちながら携帯電話の電源を入れた。病院入ったときに八坂か親父が電源を切ったのだろう。つけた瞬間に、有希からの着信が数件あったことを携帯が俺に教える。それと八坂からのラインも届いていた。

『病院から出たら連絡』

 そっけない言葉だが、やっぱり心配してくれているのだろう。申し訳ないことをした。

『今日はありがとう。親父から聞いた。それと、一度実家に帰る』

 それだけ送ると、すぐに既読のマークがついた。そしてすぐに携帯が震える。

『わかった。大丈夫か?』

『ああ』

 それだけ返して携帯をポケットに押し込もうとしたが、思い直してもう一度画面を呼び起こした。

『八坂、例の話早く実行しよう』

 例の話で、八坂ならすぐに気が付くはずだ。既読が付くのは早かったが、返信がすぐには来なかった。画面を見つめているうちに、駅のアナウンスが電車の到着を告げる。

 ポケットに携帯電話をしまおうとしたが、その瞬間に返信を伝える震えがあった。

『わかった』

 どうしてか、その返信にほっとした。昨夜の飲みながらの会話のせいだろうか。会話の内容は思い出せるのに、そのときの八坂を思い出そうとすると拒絶するように頭の中がズキリと痛んだ。

 軽く息を吐き出してポケットの中に携帯電話を今度こそ押し込んだ。ホームに電車が滑り込み、短い俺の前髪を揺らした。




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