第8話
「父親が死んだら、お前どうする?」
俺の部屋でぱらぱらと小説をめくる八坂が唐突にそう呟いた。
床に座って漫画を読んでいた俺は、ベッドに寝転ぶ八坂へ視線を持ち上げる。冷めた目で八坂はこちらを見つめていた。
「あいつが、死んだらか」
「あの家に戻るの?」
「どうだろ」
視線を漫画に戻す。ざらりとした紙の感触を味わいながら、ぺらりとページをめくる。八坂が持ってきた最近流行しているゾンビものだ。
漫画のヒロインが主人公に向かって「絶対に、あなただけは許さない!」と涙を零しながら訴えている。そのヒロインが有希に重なった。
俺が父親を殺せば、有希もこういう目で俺を見るのだろうか。
「戻れない気がする」
ふ、と息を吐き出して漫画を閉じる。ベッドに背中を預けて天井をぼんやりと見上げた。白い天井にはぼんやりとした染みがいくつかある。
頭の上でぱたり、と小さく鳴る。八坂が小説を閉じた音だろう。
「有希ちゃんは今のままで幸せかもしれないよ」
「八坂」
「だって、有希ちゃんと翔平の父親に血の繋がりはないんでしょ?」
八坂の言葉に、手に持っていた漫画を荒っぽく床に叩きつけた。
確かに有希と羽菜は死んだ母親の連れ子だから、父親との間に血の繋がりはない。けれど。
「そういう問題じゃない」
「じゃあ、どういう問題なの?」
ゆっくりと八坂は身体を起こして、寝そべっていた身体をベッドに腰かける体勢に変えた。冷めた目で俺を見る八坂の目を見上げる。
「家族だぞ。血が繋がってなくても親子だ」
「家族が愛し合っちゃいけないの?」
「いいわけない」
ふぅん、と軽くいう八坂に、ぐ、と拳を握りしめる。八坂が何を言いたいのかがさっぱりわからない。
そもそも、父親を殺そうと提案したのは八坂だ。それが、今更何を言っている。
「本当に、殺していいの?」
「ふざけんな」
立ち上がって、八坂の襟元を掴み上げる。ベッドから無理やり立ち上げられた八坂の手から、ばさりと音をたてて小説が落ちた。
ちかちか、と蛍光灯が点滅する。その光を反射する八坂の目は、驚いた色すら浮かべずまっすぐに俺を見ている。
赤く染まった目の前が、その冷めた瞳の温度を受け止めて、冷静になる。ふぅ、と長く息を吐き出すと、手から自然に力が抜けた。
「……ごめん」
襟元を直す八坂にそう呟くと、八坂は軽く頭を振った。
「こっちこそ。翔平の様子がおかしいから、迷っているのかと思ってね」
そう言いながら八坂は口元に小さく笑みを浮かべてこちらを見てから、落ちた小説を拾ってゆっくりとその本を閉じた。
八坂の動きにつられるように、俺も再び床へ腰を下ろした。
「なんかあった?」
ベッドに小説を置いて、勝手に俺の冷蔵庫を開けて物色しながら八坂が小さく呟く。八坂の華奢な背中をぼんやりと見る。
「なにも」
「そっか」
冷蔵庫からビールを二缶とって、机の上に置いた。八坂がプルタブに指をかけると、ぷしゅり、と音を立てて栓が開く。
「まぁいいや。のも」
「……ああ」
俺も同じようにビールを開ける。かこん、と軽く音を立てて缶と缶をぶつける。
燻った想いを流し込むように喉の奥へビールを流し込む。よく冷えたビールが喉を通って、胃の中を一気に冷やす。炭酸がびりりと喉を刺激した。
こん、と机にビールを置いて八坂を見ると、小さく笑ってこちらを見ていた。
「翔平って対してお酒強くないのに、飲むの好きだよね」
「そんな弱くない。お前が強いだけだろ」
「翔平の周りがお酒弱いだけなんじゃない?」
はは、と軽く笑いながらビールを煽る八坂を見る。胃の中がアルコールでじんと熱くなる。
鼻先をくすぐるアルコールの匂いに、数日前の夜に浅香と話した夜を思い出した。あの日以来、浅香と八坂については一度も話していない。
「……なぁ八坂」
「ん?」
つまみつまみ、と言いながら八坂は立ち上がって、キッチンの棚を漁る。
「この前、沢渡から連絡来てさ。覚えてる? 高校同じクラスだったろ」
棚を漁っていた八坂の手が、ぴたり、と止まった。だがそれも一瞬のことで、すぐに動き出した。棚の中にあった煎餅を持ってくる。
「いたっけ、あんまり覚えてないな」
「三年のとき同じクラスだったろ」
「忘れたよ、何年前の話だと思ってるのさ」
八坂が煎餅の小袋を開いて、荒っぽく口の中に突っ込んだ。ばり、と大きな音を立てて煎餅が割れる。ごり、ごり、と煎餅を噛む八坂を見ながら、俺も煎餅を手に取った。
「まぁ、交流があったのかどうか俺は知らないけど。それで沢渡から同窓会の誘いが来たんだ」
八坂の目が、微かに揺れたのが見えた。が、すぐに八坂は平静を取り戻すように、ビールを荒っぽく喉の奥に押し流す。
装った瞳の奥に宿るものを覗き見るため、まっすぐに八坂の瞳を見つめる。
「八坂にも、連絡来た?」
「いや、別に何も。翔平は行くの?」
「ああ、そのつもり」
少し考えるように、八坂が視線を微かに右へ向けた。長い睫が、その瞳の中に影を浮かべる。
浅香から聞いた行方不明の話が頭に浮かぶ。いや、あんなのはただの噂話だ。
「同窓会、いつ?」
「八月一日の日曜日。お前も行くだろ? 結構な人数参加するらしい」
「八月一日かあ」
考え込むように呟いてから、八坂は携帯電話を取り出して、何かを確認するように画面を見つめる。こうして見る八坂は、いつも通りに見える。
さっきの動揺したような挙動は俺の見間違えだったのだろうか。
するり、と画面の上で指を滑らせてから、八坂は小さく頭を振ってからこちらに視線を戻した。
「残念ながら、僕は参加できないな」
「なんでだよ」
「ちょっと用事がね」
口元を緩める八坂は、眉を落として残念そうに小さくため息を零した。
その仕草は、参加できないことを悲しむ動きそのものであり、怪しいそぶりはどこにもない。
「その用事、ずらせないのか?」
「うん、大事な用事でね」
八坂がその表情のままちらりとこちらを見て、それから煎餅をもう一口放り込んだ。ばりばりと煎餅を噛み砕く音がする。俺も、煎餅を噛み砕く。
「浅香も来るって」
「久しぶりに会いたかったな」
「会いたいなら今から呼ぼうか?」
「こんな夜に男の家に呼ぶなんて非常識だろ」
呆れたように八坂は笑う。いつも通りの八坂だ。
こうして俺に頻繁に連絡をくれる八坂は、本当に浅香が言うように行方不明なのだろうか。ならなぜ、俺の前に姿を現すのだろう。
「翔平、進んでないけど」
「今飲むよ」
半分ほども空いていないビールを指さしながら八坂が笑う。缶を傾けるために八坂から一瞬視線を逸らした。
視界の端に映った八坂の表情が苦々しいものだった気がしたのは、俺の気のせいだったのだろうか。
ビールを煽って、口元を拭ってからもう一度八坂に視線を向けるが、そこにいる八坂はいたっておかしい様子もなく、俺を見ながら楽しそうに口元を緩めている。
ああ、何がどうなっているのかよくわからなくない。何も考えたくなくってまた一口ビールを喉の奥に押し流した。
空いた缶八本をビニール袋に放り込み終えると、八坂は「さてと」と小さく呟いて立ち上がった。
「じゃあ、帰るわ」
「ああ」
床に捨ててあった鞄を拾って、机の上にあげっぱなしだった携帯電話をポケットの中に突っ込んだ。アルコールの軽く回った頭で、玄関で靴を履く八坂の後頭部を見つめる。
さらりと揺れる黒髪を見ながら、一瞬高校時代の八坂の影が頭に浮かんだ。
「あれ、そういえば八坂って、高校時代髪もっと浅い色じゃなかったっけ」
「え」
驚くように八坂がこちらを振り向く。見開かれた瞳の意味がわからず、俺は小さく首を捻った。
「どうした?」
目を見開いたまま固まっている八坂にもう一度声をかけると、八坂は慌てたように素早く数度瞬きをして、軽く視線を俯かせた。
そんなに俺は驚くようなことを言っただろうか。
「よく、高校時代のことなんて覚えてたね」
「そりゃあ、まぁ。お前とは仲良かったからな」
図書室で本を選ぶ八坂の背中を思い出す。昔から男のくせに華奢だと言われていただけあって、卒業まで制服はぶかぶかに見えた。
でも高校三年のときにはいっきに、身長が、伸びて。
「……いっ」
八坂の背中が二重に重なると同時に、がくり、と膝が落ちた。頭の芯が熱くなって、激しい痛みに襲われる。立っていられず床の上に崩れ落ちる。
焦点が合わない。すぐそばにいる八坂が見えない。頭が割れるように痛い。
「翔平!?」
床に落ちた俺を支えるように、背中を向けていた八坂がこちらを見た。ような、気がする。
「翔平、翔平!?」
名前が耳の中で反響して、頭の中で何度も跳ね返る。繰り返す耳の中で反響していくうちに、その声すら徐々に遠くなる。
痛みだけは鋭いにも関わらず、ほかの感覚はどんどん遠くなっていく。俺は今、どういう体勢なのだろう。八坂はそこにいるのだろうか。
――翔くん!
意識がすべて黒に染まる直前、誰かにそう呼ばれた気がした。
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