第7話



 いつものように仕事を終えて事務室を出ると、会社の前で誰かと電話する浅香の姿があった。

「じゃあ、また」

 彼女がそう言って電話を切ると、自然浅香を見ていた俺と視線が合った。

 浅香は少しバツが悪そうに視線を彷徨わせた。

「浅香?」

「今、帰りだったんだ」

「ああ、浅香もあがったところ?」

「うん。高校一緒だった、林裕子って覚えてる?」

 携帯電話をカバンに落とす浅香を見ながら記憶を探る。名前に聞き覚えはあるが、すぐに脳裏に姿が浮かんでくることはなかった。

 悩んだ俺に、答えがわかったのかすぐに浅香はゆるく笑って返す。

「澤木、人の名前憶えるの苦手だったもんね」

 ふふ、と小さく笑う浅香に、もう一度林裕子という名前を考えるが、やはり脳内にその姿は浮かんでこなかった。人の名前と顔を一致することはこの会社に来てから少し得意になったもので、学生時代はずっと苦手としていた。

 今だって、すぐに憶えてしまう八坂や浅香とは違い、俺は数度の関わり合いでは憶えられない。少しばかり、そういう部分に悔しさはある。

「悪い、思い出せない」

「仕方ないと思うけど。澤木と絡んだ姿、あんまり見た記憶はないし。それでも同じクラスだったことあるはずなんだけどね」

「……う、ん……、だめだ。名前は聞いたことあるんだけど」

 悩む俺の姿に、くすくすと浅香が喉を鳴らして笑う。

 知り合いは多い方だったが、どちらかと言えば俺は広く浅いタイプで、特定の仲の良い人間を作るのが苦手だった方だ。今思えば、浅香と八坂くらいのものかもしれない。

「ねぇ澤木」

 ふふ、と、笑いの名残を残しながら浅香の瞳が俺を見る。俺もその瞳を見つめ返す。

「たまには、大人飲み、しない?」

 いつもより、浅香のリップの色が深い色に見えたが、それは暗い街灯に照らされているかだろうか。




 浅香が俺を連れてきたのは、小さなバーだった。カウンター席と、数席の小さなテーブル席しかない。

 人気はまばらで、カウンターに二人ほど客が座っているだけだ。バーなんて足を運ぶ機会がないから少し気後れしてしまう。

 黒いベストを着た若い店員が、こちらへどうぞ、とカウンター越しに俺と浅香をカウンターの隅にある二席に案内した。

「こんなとこ、お前日常から来てるのか?」

「たまぁにね。隠れ家っぽくてステキでしょ」

「高そう」

 俺の言葉に浅香が笑う。軽く肩を揺らしながら笑うこの表情が、俺は昔から好きだった。

 とりあえず二人並んで席に腰を下ろすと、何も言わずに水が目の前に差し出される。

「何飲む?」

「こういう店ってビールあるの?」

「もちろん。ビール二つお願いします」

 浅香の言葉に、店員は何も言わず俺たちの前にメニュー表を一冊おいて小さく頷いた。ポケットから煙草の箱を取り出すと同時に、目の前に透明なガラスの灰皿が置かれる。

 普段の居酒屋との差が大きすぎる。持ってきてくれた若い店員にどう対応していいかわからず、小さく頭を下げた。

「八坂くんとはこういうところ来ないの?」

「あいつも俺も、安酒が好きだから」

「ああ、澤木はお酒質より量だもんね。普段も飲み放題ばっかり?」

「単品は高くつくし」

 小さく軽口を叩きあっていると、目の前にとん、と細いグラスに注がれたビールが俺と浅香の目の前に一つずつ置かれる。

「お待たせいたしました」

 表情のほとんど変わらない若い店員は、そう告げて頭を小さく下げた。それから二人の間に、白い小さなさらに入った豆のおつまみを置いていく。

「八坂くんも、お酒強いの?」

「俺よりは強い」

「それはすごい」

「浅香も十分強いだろう」

「澤木には負けるもの」

 ふふ、と笑いながら浅香がビールを片手で小さく掲げる。俺もそれにあわせてグラスを持ち上げた。金色の雫の入ったガラス同士がぶつかって、小さく音を立てる。

「乾杯」

「乾杯」

 冷えたビールを喉に流し込む。ごくり、と嚥下する瞬間のなんとも言えない快感に目を細める。浅香に一足遅れて、机の上にグラスを置いた。

 仕事で疲れた脳と心臓に、一気にビールの冷たさが流れ込んでくる。まだ初夏とも言えない寒々しい季節だが、仕事に使った身体と頭は熱を抱え込んでいる。

「美味しい」

「ほんとにな」

 会話するのも一苦労である安居酒屋と違って、ここは大きな声で会話するのはむしろ憚られる。少し離れた客が揺らすグラスと氷がぶつかる小気味のいい音と、うっすらと流れるジャズの調べ以外、音という音はほとんどない。

 グラスをもう一口あおりながら、真横にいる浅香の表情を覗きこむ。目の前のグラスを覗きこむようで、その中に映るもっと遠い何かを見つめているようだ。

「なんかあったか?」

「そういうわけじゃ、ないんだけれど」

 考え込むように、浅香がちびり、と唇を湿らすようにグラスに口をつけた。

「同窓会?」

「まぁ、そういうこと」

 眉尻を下げて笑う浅香に、俺はまっすぐ視線を返す。弧を作っていた浅香の口元から、するりと力が抜けた。

「澤木、八坂くんと連絡とってるんだよね」

「え、ああ、そりゃあ」

 鋭い色を帯びた浅香に、促されるようにビールを喉の奥に流し込んだ。

 俺の返答に、浅香はまた少し困ったように目を細める。

「……よく、わからないの」

「よく、わからない?」

「裕子が、ああ、そのさっき話した林裕子からだったんだけど」

「ああ」

 名前は脳内で引っかかってくるが、やっぱりそこから先浮かんでくるものは何もない。

 ただ小さく頷いて、浅香の言葉を待つ。

「八坂くん、会社辞めてから行方不明なんだって」

 ぽとり、と落ちた浅香の言葉が耳の中に落ちてくる。

 落ちてから、それがしみこんでくるまで少しだけ時間を要した。カウンター越しに店員がグラスに触れた小さな音で、ようやくその言葉の意味を理解する。

「八坂、が?」

「裕子が沢渡くんからお願いされて、高校時代の友人に同窓会の話回してるんだけど、八坂くんと一切連絡取れないらしいの」

「でもそれだけで行方不明って」

「それだけじゃない」

 ぎゅ、とグラスを握る八坂の手に力が入った。俺も、口の中にたまった唾を飲み込む。

「八坂くんの両親も、行方がわからなくなった、って話しているらしいの」

 浅香の言葉に、言葉を失う。

 八坂が仕事を辞めたのは今から五年も前のことだ。しかしその頃も今もずっと、八坂とは連絡を取り続けている。

 心臓が、ドクリ、と冷たい音を立てた。

「どういう、ことだよ」

「わからない。私もこの前、八坂くんを見かけてるし」

 浅香はこちらを見ずに、目の前にあるビールを喉に流し込んだ。つられるように俺もビールを流し込む。まだ冷たい温度を保っているビールは、喉の奥でしゅわりと小さく弾けた。

 先ほどまで心地よかったジャズの音が、今はうるさい。自分の心臓の音が耳元で鳴っているように聞こえてぎゅ、と目をきつく瞑った。

「浅香は、八坂と連絡取ってるのか?」

「全く。……見かけたのも、たまたまだったから」

「その時は話しかけたりとか」

「してないよ。何度も言うけれど、八坂くん私のこと嫌いだから」

 浅香が唇をかみしめた。

 思い出す。そういえば浅香が八坂を見かけた後日、八坂にそのことを伝えたときのことを。あのときの八坂は、それに何の答えも言わなかった。

 あれに対して俺はてっきり、一緒にいる彼女のことを知られたくなかった、恥ずかしかった、程度の認識でいた。

 浅香と会おうとしないのも、ただ単純に浅香のことが苦手か、もしくは女性のことを得意としていない程度に思っていた。

 でも、そうじゃなかったとするならば。

「……なんらかの事情で、八坂は俺以外から姿を隠そうとしていた」

「私も、そうなんじゃないかと思ったの。だから今は、八坂くんに直接聞いても欲しくない。また行方不明になっちゃうかもしれない」

 浅香の目がこちらを向く。動揺している瞳が、ふらりと揺れていた。

 その仮説が、もしも正しいとするならば。なぜ八坂は姿を隠そうとしているのか。そして俺にはその姿を見せるのか。

 目を閉じればすぐに浮かぶ八坂の輪郭がぼんやりと歪んだ。俺は、八坂の何を知っているのだろう。

「ねぇ澤木」

 浅香の両肘がカウンターの上に乗る。マナー違反だからと、めったに浅香のとらない行動だ。

 ビールのグラスを握りしめたまま、俺も視線を返した。

「八坂くんと、何の話をしているの」

 まっすぐな視線が刺さる。咎めるようなその声に、俺は反射的にビールをあおった。残り少なくなっていたグラスの中身が空になる。

 いくら浅香と言えど、言うわけにはいかない。

「何って」

「よくないこと、考えているんでしょう」

 言葉の中に宿る棘が鋭くなった。俺の舌はその棘に射抜かれたよう、いつも通り動こうとしない。

 反論しようとした口元がただ寂しく開いただけだった。

「お願い、澤木」

「……何?」

「怖いことは、しないで」

 弱弱しく呟く彼女に俺は何も返せず、ただただだまりこむだけだった。




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