第6話
その夜訪れた八坂は、打ち合わせと言っていたくせに俺と有希の会話の内容を聞いて簡単に「ふうん」と返すだけだった。
現実的にどうやって父親を殺すのか、という会話にまでは至らない。
八坂の頭の中ではいろいろ動いているのかもしれないが、それを知らされないというのも、どこか心苦しい。妙な焦りが俺を追いかけている。
いつも通り八坂は終電間際に部屋を後にした。
静まった部屋の中、俺はぼんやりとシャワーを浴びに風呂場へ向かう。
「わざわざ帰るなら泊まってけばいいのにな、あいつも」
八坂は決してこの部屋に泊まらない。他者の家では寝泊まりしたくない主義だと本人も言っているが、神経質なところは生きづらいだろうと同情もする。
服を脱いで熱いお湯を浴びると背筋に心地よい痺れが走る。
小さく息を吐きながら適当に全身の汚れを落とす。久しぶりに帰った実家の匂いが自分に染み込んでいたような気がした。
あの家の時は、俺が出ていったときから何も変わらず止まっていた。
キュッと蛇口を捻ると、溢れ落ちていたシャワーのお湯が止まる。ぽたり、ぽたりと落ちる雫を見つめた。
止まっているように見える時であっても、案外こうして小さくは流れ出しているのだろうか。
「何を考えてんだか」
雫から目を無理やり外して風呂場から出た。
お湯を貯めて入るほど風呂が好きなわけではない。適当にバスタオルで身体を拭っていつもの部屋着に着替えた。
煌々とした古い電灯を見上げるよう、勢いよくベッドの上にごろりと転がる。
簡単に浴びたつもりのシャワーだったが思ったよりも身体を温めていたらしく、冷えたベッドが妙に心地よい。
ぶるぶる、と携帯が震えた。
『久しぶり、澤木。俺のこと覚えてる? 高校のとき同じクラスだった沢渡だけど』
社用であったとしてもラインがメインとなっているこの時代に、珍しい携帯からのメールだった。
アドレスは登録されていないものだ。だが沢渡、という名前には記憶がある。確か二年のときのクラスメイトだったはずだ。クラスの中ではちょっとお調子者で、行事となればクラスを巻き込んで常に引っ張っていくムードメーカーだった。
深い交流こそなかったが、久しぶりに見たその名前に懐かしさで胸が高鳴る。
『もちろん覚えてるよ。久しぶりだな』
するする、とメールを送りつつ、沢渡のアドレスを登録する。三十代ともなると高校時代の記憶はほとんど褪せているが、それでもこうして連絡が来るとぼんやり当時のことが浮かんでくる。
返信はすぐに返ってきた。
『高校時代の同窓会やるんだけど、八月一日(日)の夜って空いてるか? 結構な人数来るぞ! 確かお前浅香雫さんと仲良かったよな、覚えてる?』
身体を起こして鞄の中から手帳を取り出した。さすがに一月以上先に予定は入れていない。普通に考えれば日曜日なのだから仕事だが、夜からであればなんとかなるだろう。
久しぶりに高校時代の友人たちと会えるということに微かに心が湧く。
『日付はなんとかする。沢渡が幹司なのか? できれば参加させてもらいたい。浅香とは今同じ職場で働いてるよ』
『そ、俺が幹事。お前来るならみんな喜ぶな。っていうか浅香と一緒に働いてるってなんだそれ。どういうこと?運命?笑』
『運命みたいだろ。俺もびっくり』
自分で書いていて調子に乗っているな、と思いながらメールを返す。遊び心でも浅香には直接言えないことが不意に落ちた。
『え、何、浅香さんと付き合ってんの?』
『違うよ。ただの同僚』
『なんだ。でも都合いいや。浅香さんにも声かけてもらおうと思って。連絡先死っていればいいなって。お前、高校時代からアドレス変わってないんだな』
そういえば、と考える。メールアドレスなんてしばらく使っていないから忘れていたが、これだけ変えていないのも珍しいのかもしれない。
『了解、浅香には俺から伝えておく』
『助かる。にしても、浅香さんに会うってちょっと緊張する』
『変わらず美人だよ。笑』
『楽しみだなあ。でも俺にはもう可愛い奥さんいるから』
断続的に続いていた沢渡のメールに舌を巻く。
気づけば社会人九年目。三十路と呼ばれる年齢も乗り越えてしまった。後輩たちの何人かは確かに結婚し、子供も持つ者も少なくない。一番身近とも言える浅香や八坂にその気配がないから少し驚いてしまった。
同級生たちが結婚したとしてもおかしくない。少し悔しさも浮かびながら小さく口元を緩ませる。
『結婚してたのか! おめでとう! なんだ、俺も浅香も独り身だからみんなそんなものだと思ってた』
『ありがとう! え、浅香さんもまだ結婚してないの? ちょっと俺、心揺れちゃう笑』
『この浮気者め』
久しぶりに交わすメールだというのに、高校時代に軽口を叩いていたあの頃に戻っていたようだ。ぼんやりとした記憶が徐々に確かなものになる。沢渡とは出席番号が近いこともあり、それなりに会話する関係ではあった。
とはいえ沢渡と同じクラスだったのは二年の時だけだ。確か沢渡は、八坂や浅香と同じクラスだった気がする。
『うるせぇよ!笑 じゃあ澤木と会うのも楽しみにしておく。浅香さんと会うのはもっと楽しみだけど。近くなったらもう一度詳しい連絡入れるな』
沢渡の返答に口元が緩むのを感じる。
『おう、またな』
そう送ると、先ほどまでひっきりなしに震えていた携帯電話はぴたりと動かなくなった。
普段そこまでならない携帯電話がここまで動いたのは久しぶりかもしれない。
一度起こした身体を再びベッドの上に放りだす。
そうして目を閉じてから、八坂と企てている後ろめたい殺人計画を思い出して、ぞくりと背筋が震えた。
ゆっくりと、天井に視線を戻す。
「……俺は」
無意識に落ちた言葉はそこで止まり、それ以上の言葉は静まった部屋の中で何も落ちてこなかった。
何を、言いたかったのだろう。
***
「おはよう」
いつもより一本早い電車で会社についたというのに、浅香は当然のようにもう自分のデスクに座ってコンピューターとにらめっこをしていた。
事務室に入ってきた俺に気付き、小さく微笑んでこちらを見る。
「相変わらず早いな」
「そっちこそいつもより早いんじゃない?」
事務室内にはほかにも数人の人間はいるが、うちの営業課のものは誰もいない。まだ少し冷えた事務室内のオゾン漂う空気を感じながら俺もデスクに腰を下ろした。
「なんか、うまく眠れなくて」
「何かあったの?」
微笑みを浮かべていた浅香の表情から、するりと柔らかいものが抜け落ちた。
慌てて口を開く。
「違う、そういうんじゃない。昨日、沢渡から連絡が来てさ」
「沢渡?」
「高校の。三年のときお前と同じクラスだったろ」
「え、あの沢渡くん?」
浅香の目がくるりと一回り大きくなる。
「ああ。同窓会のお知らせ。浅香にも知らせとけって。八月一日にやるらしい」
浅香が小さく頷くようにしながら、机の中から手帳を引っ張る。
沢渡から連絡がきたときの俺と同じ行動に、つい口元がにやけた。なんだかんだ、仕事のスケジュールを確認してしまうのが俺たちらしい。
「うん、空いてる。夜だよね」
「ああ」
嬉しそうに浅香は笑うと、引き出しからペンを取り出して手帳にくるりとマークを付けた。それから大切そうに手帳を閉じてから、にっこりと俺に笑いかける。
沢渡とのメールのせいか、その姿が高校時代の浅香の姿と重なった。今は高く結い上げているその長い髪も、当時は肩口で切り揃えられていた。女子として格好いいな、とぼんやり思っていた気がする。
けれど当時、俺は別に浅香のことをどうとも思っていなかった、ような。あの頃は付き合っている女の子もいて、確か同じクラスの子で、その子が好きだった。
あれ、そうだっただろうか。もっと、好きな人が、いたような。いや、気のせいか。
浅香はどうだっただろうか。割と人気があった気がするけれど。
「浅香は」
「ん?」
「……なんでもない」
「何それ」
「何言おうとしたか忘れた」
「ほんと何それ」
呆れたように浅香が眉を落として笑う。俺はあいまいな笑みを返す。そんな過去の話を聞いても仕方がない。
一度首を捻ってから、浅香は再びパソコンに視線を向けた。俺もそんな浅香の表情を流し見てから、自分のパソコンに電源を着けた。不機嫌そうに困惑した表情は、高校時代によく浮かべていたものだったと思う。
「ほんと、浅香は」
自分の口先だけでそう呟こうとして、それ以上紡げなくなった。
口から落ちそうになった言葉を忘れたわけではない。なぜか、それ以上口にすることが憚られた。
――浅香は、変わらないな。
落ちそうになったその言葉を、ごくりと唾液と共に飲み込む。
重なった浅香の表情は高校のままだし、思い出せる浅香は今と大きく変わらない。もちろんあの頃より年を重ねた分、落ち着きは増しているし、何より綺麗になった。けれど、俺が口を止めたのはそんな理由じゃない。
「……なんでだろう」
自分でもわからず、小さく首を捻った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます