第5話


 かたん、と音を立ててじょうろが地面に落ちた。プラスチックの、どこにでもある鼻の長いじょうろだ。

 それを持っていただろう女性はただでさえ大きな瞳を更に一段と大きくして俺を見た。

 久しぶりに着たジーンズは妙に動きを規制する。

「あの」

「翔くん」

 黒い髪を適当に肩に落とし、深い緑色のエプロンを見にまとった彼女は、死んだ人間を見た様な驚いた表情を浮かべて俺を見る。狼狽えるように、その瞳が小さく震えた。

「来て、くれたんだ」

 一年ぶりに見た妹は、前に見たときよりも細くなったように見えた。そして、少しだけ年をとったように感じる。一つ下の妹だ。彼女も、30代になったということだろう。

 少し落ち着いたのか、俺に向けるその瞳の揺れが小さくなって、そして誤魔化すように口元を緩ませた。

「もう帰ってきてくれないかと思った」

「実家に帰ってこないことはないだろ」

 つい言葉がぶっきらぼうになる。有希は小さく笑いながら、おとしたじょうろを拾って、入口のそばにそっと置いた。

 玄関横の小さな物置の中には、1年前と変わらず俺の昔使っていた自転車が詰め込まれているのだろうか。

「親父は」

「仕事行ってるよ。あがってって」

 有希はそういうと玄関を開いた。俺は何も言わずにそのあとについていく。靴を脱ぐ際に俯く有希の首筋が真っ白で、細くて、なぜか慌てて目をそむけてしまった。

 続いて靴を脱ぎながら、家の中にゆっくり足を踏み入れた。




 鼻先に感じる線香の香りに一瞬でこの家での思い出が流れ込んできた。ツキン、と鼻の奥あたりとこめかみあたりが痛む。

 自然に目は、居間の奥で閉じられている小さな仏壇へと向かった。

 そこには、母が眠っているはずだ。

だが、その扉に手をかける前に有希の足音が聞こえて、ソファへと腰を下ろした。

 からり、とグラスとコップがぶつかる優しい音が響く。

「暖かくなってきたね」

「ああ」

「お仕事順調?」

「それなりに」

「そう」

 満足そうに笑って、俺と自分の前に麦茶を置いた。少し寂しげなその横顔に、こめかみのあたりがもう一度痛んだ。

「雫ちゃん、元気? 相変わらずお仕事すごいの?」

「変わらずだよ。相変わらずあいつには勝てない」

「入社当時からずっとライバルだもんね」

「ライバルっていうか、もうあそこまでいけば自慢の同期だな」

 ふふ、と笑って有希が麦茶に手を伸ばす。俺も麦茶を喉に押し流す。

 少し薄い麦茶の味はこの家にいたころから何も変わっていない。母親が死んでから、この家の時計は動いていないかのようだ。

 家の中を小さく見渡しながら、キッチンを確認する。調味料の並ぶ棚、ガス台、水道の蛇口。配置は何一つ変わっていない。ガス台横にある小さな窓がほんの少しだけ開いている。

「翔くんは雫ちゃんと結婚するのの?」

「結婚?」

「付き合ってるんでしょ?」

 きょとん、とした顔を俺に向ける有希に、小さく目を細めた。

「付き合ってないよ。浅香とはただの友達」

「嘘だー。翔くん、昔から雫ちゃんだけは特別扱いしてるもん」

「そんなことない」

 少しムキになった自分の言葉に、有希が楽しそうにころころと喉を転がして笑う。

 有希には、俺の気持ちがバレバレだ。こんな簡単にバレているようでは、浅香にこの想いが気付かれていないか不安になる。

 こちらをねっとりとした目で見る有希から視線を外して窓へと向けた。窓際に置かれた写真立てが目に入る。五人家族が楽しそうに笑っていた。

 そうだ、俺にはもう一人。俺には有希の他にもう一人妹がいる。有希よりさらに下の。

「……そういえば、羽菜は元気?」

 立ち上がって窓際に近付き、その写真立てを手に取る。写真の中には満面の笑顔の俺、そしてその左右に顔の良く似た二人の妹、その背後に穏やかな表情の両親がいた。これは、どこに行ったときのものだっただろうか。

 そうだ、俺の右にいるのが有希。そして左にいるのが、羽菜。二人とも家族のことが大好きで、母親のことももちろん大好きだった。

「元気みたいだよ。時折連絡もらうから」

 有希が写真を見る俺を、眩しそうな目で見ながら答える。

「そっか。家を出てから羽菜とは一度も会ってないから」

 俺の言葉に有希が考えたように首を捻る。それから「そうなんだ」と小さく自分に言い聞かせるように呟いた。

「それにしても今日はどうしたの? 突然帰ってくるなんて」

「別に。ずっと帰ってなかったから」

 写真立てを元に戻し、座っていたソファに戻る。飲みかけの麦茶に手を伸ばした。

 今日ここに来たのは八坂からの指令のためだ。作戦のために、実家を確認してこい、とのこと。気は進まなかったが必要とあればやるしかない。

 キョロリと視線を回す。この家は、何も変わっていない。

「翔くんは昔から嘘が下手くそだよね」

 鼻先で笑うように有希が、ふ、と息を吐き出す。その声はいつもの有希の声よりワントーン低く、何故だが背筋が冷たくなった。

「そんなこと、ないよ」

 答える声が若干上ずってしまったかもしれない。気付かれないように軽く咳払いをして麦茶をもう一口飲んだ。

「私は知ってるんだもん」

「何をだよ」

「翔くんのことなら全部」

 その声に、外していた視線を有希へ戻す。

 有希の目に、大きな穴が開いていた。――背筋が、ゾクリと震える。

「分かってるんだよ」

 ガラスのような、無機質な声が響く。反響するように耳元でその声がワンワンと鳴った。

 慌てて目を逸らし、もう一度有希を見る。

 見返した有希は、いつも通り大きな瞳を揺れているだけだ。

 先ほどの、穴のような空洞は気のせいだったのだろうか。対して暑くもないのに背筋につたり、と汗が落ちる。

「翔くんは、どうして今日突然帰ってきたの?」

 するりと有希が俺に近づく。テーブルの斜め向かいに座っていた状態から、隣へと移動してきた。視線が二重になったような感触に吐き気が浮かぶ。

「翔くん、何か悪いこと考えているでしょ」

「悪いことって」

「ああ、言い方が違ったかな」

 頬に落ちた髪を、有希は耳にかける。白い耳と艶のある黒髪のコントラストが妙に目の奥を刺激して、頭をくらくらとさせる。


「正孝さんを、どうするつもりなの」


 ――正孝さん。

 それは間違いなく父親の名前で。

 ガチャン。

 有希の言葉に動揺して立ち上がったと同時に、大きな音を立てて空になっていた麦茶のコップが倒れた。中から半分ほど溶けた氷が机の上に広がる。

 有希はその様子を見ても何も言わず、ただじっと俺の目を覗き込む。

 どくん、どくん。

 心臓が大きな音を立てた。

 それから有希は、ゆっくり俺から視線を外し、キッチンへ消えた。有希が見えなくなって初めて、指先が震えるほど冷たいことに気が付く。

 布巾を持って帰ってきた有希は、俺に視線を向けないまま机の上に広がった麦茶をゆっくりと拭った。

「翔くん、お願いだから現実を見て」

「現実ってなんだよ」

「お願い、もう一度正孝さんと会って」

 その言葉に、頭の奥がずきりと痛んだ。今更父親と話すことは何もない。

「なんで俺が父親のところに」

「翔くんだって、変だなって気付いているでしょ?」

 有希が何を言っているのかわからず、歯の奥が小さく鳴った。噛みしめ過ぎて顎が重たい。

「……変に、決まってるだろ」

「翔くん?」

「何もかも、全部、全部おかしいだろ!」

 机を叩いて立ち上がる。だん、と大きな音に有希が目を見開いた。

 その顔を見て、ぎゅ、と目を瞑った。

 違う、言い争いに来たわけじゃない。そもそも俺は有希を救うために。

「ごめん、帰る」

 床の上に投げ出していた小さな鞄を拾って有希の横をすり抜け玄関へと向かう。

 後ろから俺の名を呼ぶ声が聞こえたが、何も聞こえないふりをして部屋から飛び出した。

 駅へと歩く間、ずっと心臓のあたりがバクバクと激しく音を立てていた。




 駅に着いて電車を待つ間に、鼓動はいくらか穏やかなものに変わる。ゆっくり、不自然にならない程度に深呼吸をしてから携帯を取り出した。

 着信は一件。数分前に来ていたらしい有希からのものだ。見ない振りをしてラインを開く。

『大丈夫?』

 こちらを見透かしたようなその文言に口元が軽く緩む。なんともあいつらしい。なんでもかんでもお見通しだな。

『大丈夫。家は確認してきた。何も変わってなかった』

 ラインをそう返してから、ふ、とため息を零す。

 十年前、母が死んでから家族の中はおかしくなってしまった。両親、そして有希と羽菜と、そして俺。五人仲良く過ごしていた日々は、あの事故を境にズレ始めた。

 ズレてしまったあの日も、そういえば今日みたいにひどく日差しが刺さる日だった。




「……が、死んだ」


 大学最後の夏、突然父親から電話が入った。

 病院勤めで多忙の父から連絡が来ることなんて珍しく、塾講師のアルバイトをしていた俺は慌てて電話を耳に押し当てた。

 あまりに唐突のことで、父親の言葉はほとんど断片的にしか理解できなかった。

 その後のことは、もっと覚えていない。

 唯一覚えているのは、死んだようにただ瞳を流す有希と、対照的に声をあげて棺桶に縋り付く羽菜のことだけだ。

「兄さん」

 泣き腫らして崩れ落ちた羽菜の、その濡れそぼった瞳だけは脳裏に焼き付いている。妹二人は再婚した母の連れ子だった。本当の母ではなく、この事故のショックでほとんど記憶も遠くなってしまうものの、それでも暖かい人だったことは憶えている。

 母が死んでから、有希はただただ思いつめていくだけだった。どこにでもあるような交通事故だったが、有希はその原因が自分にあると考えているようだった。

 事故の概要なんてかけらも覚えていない。ただ、大切な家族を失ったことで俺の心中にあった何かも、間違いなく壊された。


 そこからの記憶はただただ曖昧だ。がむしゃらに仕事をして、浅香と出会って、少しずつ俺は自分を取り戻していたような、気もする。壊れた家族の歯車が少しずつ戻ってきていた、はずだ。その辺りの記憶はぼんやりとしている。

 有希は母を失ったことからなかなか立ち直ることはできなかったが、羽菜が有希を支え、なんとか日常のようなものを送っていた。

 それも、たった五年間のものだった。


 仕事から家に帰ってきた俺は、玄関を開けて自分の体が固まったことを感じた。

 父親が、有希の顎を掬うように持ち上げ、それからそっと唇を重ねていたのだ。

 とにかく、頭の中が真っ赤になった。

 その後のことは、本当に何も覚えていない。気が付けば、八坂の家で俺はただ呼吸をしていた。その直後、羽菜も家から飛び出したと有希から聞いた。もしかしたらその瞬間、そこに羽菜もいたのかもしれない。

 なんとか形を保っていた家というものの、その形が、完全に破壊された。



 ***



 目の前に、電車が滑り込む。

 一秒程度遅れて、冷たさと温さが混ざった風が前髪を払った。電車に乗り込むと同時に、ポケットの中に押し込んでいた携帯が小さく震える。

 ラインのメッセージだ。

『今夜、翔平の家行くから。打ち合わせの続き』

 思った通り八坂からのものだった。胸の中にどす黒い何かが零れたような気がした。

 最後に俺を見る、驚いたような有希の瞳が脳裏を掠めた。ぎゅ、と目を瞑りその映像を消し去る。

『わかった、何時にする?』

『九時くらいでもいい? ちょっと用事あって』

『了解。飯は?』

『食べたい。なんか作って』

『要望は?』

『米』

『了解』

 それ以降返信がなくなったのを確認して、ズボンのポケットの中にもう一度携帯電話を押し込んだ。

 がたん、がたん、と電車が揺れる。吊革が揺れるのに合わせて俺も揺れた。

 目を瞑ると、瞼を透かして太陽の光がうっすらと見えた。目を瞑っても、光は俺に届いている。

 その感触に胃の中がぐらぐらと揺れた。ああ、気持ちが悪い。

 もう、俺は逃げない。

 有希を救うんだ。正解か不正解かなんて、俺が決めるんだ。

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