第4話


 アルコールが全身を巡り、頭の奥がぐらぐらと揺れている。皮膚は冷えているのに、身体の芯はじんと熱い。

 目を開けてすぐに、呼気の中に酒の匂いが混ざっているのがわかった。ああ、折角の休みが終わった気配がする。

 まだ薄ぼんやりと暗い部屋の中で携帯電話を確認する。なんとなく重たい雰囲気になってしまって、浅香とは終電前に解散した。それから家で軽く飲んでから眠りに就いたのが二時過ぎだったか。画面の中の時計は午前五時を少し過ぎたくらいだ。

「早すぎる」

 休みの朝にそんなに早く起きたって仕方がない。

 もう一度布団の中に潜り込み、目を閉じると同時に携帯が暗闇の中で小さく震えて光った。躊躇しながらゆっくりと手を伸ばし、確認する。ラインのメッセージだ。

『了解』

 八坂からの返信に、目を閉じて携帯電話を放り投げた。

 返信は必要ない。おそらく今日、八坂は俺に会いにくる。



 太陽が南の空を超えたころ、想像通りインターフォンが鳴った。扉を開ければ、そこにいたのは案の定八坂だ。

「酒臭いね、おはよう。どうせさっきまで寝てたんでしょう」

「……悪いな」

 確かに起きたのはつい一時間前だ。う、と言葉に詰まっている俺をよそに、八坂は無遠慮に部屋の中へと足を踏み入れる。

 ベッドの上に腰を下ろす八坂を見つつ、キッチンから麦茶を持ってベッドの隣にある小さなちゃぶ台の上に二つコップを並べる。

「やっと決意してくれたようで」

「待たせた」

 八坂はにこり、と嬉しそうに笑った。人懐っこいその笑顔に、俺もつられて口元を緩める。受け取った麦茶を一口飲み込んで、八坂は真剣な眼差しをこちらに向けた。

「計画について相談したくて」

 八坂の言葉に、俺は小さく頷いた。

 八坂は持ってきていた斜め掛けバックの中から一冊のノートを取り出す。そしてそれを俺に差し出した。

 とりあえず受け取って、一ページ目を開く。殺人計画、とそこには書かれている。

 わかっていたはずなのに、その殺人という文字列に少し喉が震えた。その震えを噛みしめながら、文字列に目を滑らせる。

「やるからには完全犯罪だ」八坂の目が妖しく光る。「僕だって捕まりたくないし、翔平が捕まったら元も子もない」

「そんなこと出来るのかよ」

「そんなに難しくないよ。でもいろいろ方法があるから、決めかねてるんだ」

 俺が小さく頷くと、八坂は俺の手元にあるノートを一枚めくった。

 犯罪計画がそこに並ぶ。少しとがった右上がりな八坂の字が丁寧にそれぞれの計画を説明している。

 通り魔に見せかけたナイフによる刺殺、事故死に見せかけた布団を使った圧殺、自殺に見せかけた絞殺。ずらりと並ぶだけで三十は並ぶその計画書は恐ろしいことを書いているはずなのに、どこかミステリーのネタを見せられているような気持ちになる。

「ここまで書いているけれど、正直どれもまだ不完全なんだけどね」

 八坂は肩をすくめつつ言った。それでも目の前の男が本気でこれを書いていることはこの文字数で十分に計算が出来た。この期に及んで、俺はまだその行為の重さに足が踏みとどまろうとしているというのに。

 どうしてこの男は、ここまで俺のことを考えてくれるのだろう。

 そのとき不意に、浅香から聞いた話が浮かび、そして一つの仮説が浮かんだ。

「八坂」

 ノートを机の上において顔をあげる。八坂がその白い首を小さく傾げた。

「お前、彼女できた?」

「……え!?」

「浅香が町で女の子と歩いてたお前を見たって」

 大きな音を立てて机に膝をぶつけ、視線を左右におろおろと動かす。口元はどう言葉を生み出そうか悩んでいるのか、魚のようにパクパクと開けたり閉じたりする。

 いつもの飄々とした姿からはかけ離れた姿に、質問した俺の方が動揺した。こんな八坂は見たことがない。

「僕じゃないよ。違う。そんな子なんていない」

 たどたどしい否定の言葉に首を捻る。妙に焦ったその様子は、恋人といるところを見られて照れているというようには思えない。うっすら汗すら浮かべるその様子に、まさか、という想いが強くなる。

「……もしかしたら、有希と一緒にいたのかと思ったんだけど」

 八坂が、ぱちり、ぱちり、とゆっくり瞬きしてから、ようやく事が飲みこめたと言いたげに瞳をぐいっと見開いた。

「もしかして僕と君の妹の間にそういう関係があるとでも?」

 それに俺は首を縦に大きく振った。八坂は困ったように眉を下げてから「なるほどね」と何度も首を縦に振り、そして首を捻りながら俺に問いかける。

「確かに、そういう風に思った方が翔平は楽だよね」

 先ほどまでの余裕のなさはどこにいったか、は、と息を吐きだした八坂は薄ら笑うように俺を見る。その視線の冷たさに指先が小さく震えた。

「どういうことだよ」

「そういうことだろ? それに、お前は僕がどうして自分に協力しているのか疑念に思っているはずだ」

 見透かされたような瞳に息が止まる。もしかしたら、大切な妹を託すなら八坂が良いと考えたのかもしれない。過去、有希と八坂が楽しそうに話していた姿が思い出される。

「その理由が君の妹であれば納得感は強いだろう。でも違う」

 八坂の目が、先ほどの冷えたものから、熱を帯びたものに変わった。その視線に、息を呑む。

「お前が大切だから協力しているだけなんだ。親友だから」

「だからと言って」

「犯罪まで起こす必要はないって?」

 目を細めながら怪しげに笑う八坂に、俺はなにも言えずに黙り込む。しんと止まった空気の中を、静かに回る時計の針の音が踊った。

 八坂が眉を下げたまま首を落とした。芝居臭いその動きを視線だけで追いかける。

「なら、僕が困っているなら、お前はどうする?」

「なんとかする」

「それと同じ。お前がこれ以上悩んでいるのを見たくないんだ。……俺は翔平が幸せになれれば、それでいい」

 八坂が困ったようにそう俺に返した。

 信じてくれと言いたげなまっすぐなその瞳は、その言葉が本心からのものだと訴えてきた。俺はただ、首を縦に振るしかなかった。




 光は徐々に落ちていき闇の中へと消えていく。

 ビデオを流しつつ、本や漫画を読みながら、いつも通りの時間を過ごしていく。だが確実にいつもと違うのは、部屋の中心に八坂の持ち込んだ計画ノートが置かれていることだ。

 カーテンの向こうが完全に夜へ落ちたのを確認して、俺は読みかけの小説を本棚に戻す。

「腹減ったな、適当なものでいいか?」

「ありがと」

 八坂の答えを聞きつつ、冷蔵庫の食料を漁る。

 残念ながら毎日自炊するわけではない小さな冷蔵庫の中身には食料が乏しい。ネギや白菜はかろうじてあるものの、それ以上のものは存在しない。

 簡単に卵を炒め、冷ご飯を突っ込んでいると八坂が俺の横でフライパンを覗き込む。

「昔から家事は嫌いじゃないよね、翔平って」

「まあ、一人暮らしも割と長いし」

 出来上がった炒飯を盛り付けていると、手慣れた様子で八坂が食器棚からコップを取り出し、冷蔵庫の中にある麦茶を注いでいた。

 勝手知ったる他所の家。これも見慣れた風景になっているのがなんとも複雑だ。

「いただきます」

「いただきます」

 二人で声を揃えてスプーンに手を伸ばす。我ながら今日の炒飯も美味い。

「今日のも美味しい。専業主夫になれば?」

「うるせえよ」

 笑いながら言う八坂に、鼻で笑うように返す。八坂が自炊をする姿を見たことはないが、もしかしたら料理だけは勝負して勝てるジャンルなのかもしれない。ふと高校時代を思い浮かべると、勉強も体育も勝った記憶が全く浮かんでこなかった。

 悔しかったので、その記憶は心の中にそっと封印する。今更口にする必要もない。


「それより」

 テーブルの上にある麦茶を喉の奥に押し込みながら八坂が口を開いた。中性的にも見える赤い唇が麦茶で小さくうるおいを取り戻す。

 こういう瞬間に、八坂の中にある色気に近いものを感じて背筋が小さくだけぞくりと震える。

「お前はどうやって父親を殺したい?」

 とん、と八坂の肘がテーブルの上に着く。食事中にだらしがない、と口にしたいところだが、八坂の目の間遠いある皿の上は空に近い。相変わらず食べるのが早い男だ。

 食べかけのスプーンを皿の上にことりと落とし、俺もテーブルに肘を乗せた。

「殺せればなんでもいい」

「保険目当てを狙うなら交通事故だけど」

「俺の狙いは、あくまで妹から親父を引き離すことだ」

 八坂の薄い色素の瞳を見つめる。その瞳が小さく緩むのを見ながら、俺は自分の麦茶をごくりと飲み込んだ。

「わかった。僕もそのつもりで計画を練り直そう」

「……ああ」

 八坂に対して、ありがとうと告げるべきか、ごめんと告げるべきかわからない。目の前の美丈夫がいなければ、自分は父親を殺そうとなんて考えることもなかったはずだ。

 何かを考えながら小さく伏せられた八坂の目元に小さく影が並ぶのを見て、俺はぼんやりと八坂自身を見つめる。


 中性的で、色っぽく、昔から自分より俺を優先する大事な友人。

 家庭での問題をこうして抱えたことを暴露するときも、八坂は優しい瞳で「辛かったな」と俺を慰めるだけだった。だから、こうして今も八坂にならなんでも受け入れてもらえると思ってしまう。

「昨日浅香と飲んでたんだよ」

「浅香って、浅香雫?」

「ああ」

 こくり、と頷くと八坂はつまらなそうな瞳で俺に目をやった。

「浅香さんと仲良いよね」

「まぁな」

「浅香さんって、僕のこと嫌いだと思う」

「奇遇だな、ちょうどあいつも、八坂くんは私のこと嫌いだと思う、みたいな話してたぞ」

 俺の言葉に八坂の目が歪んだ。

 心外だとばかりに俺を睨んでくるのはいいが、その想いは浅香本人にぶつけてほしい。俺からすれば二人とも面倒見がよくて、近い性質をしていると思う。だからこそ合わないと言われれば納得もできるものだけれど。

 ちびりちびりと食べ進め、ようやく空になった自分の皿の上にスプーンを投げ捨てた。もう少し作ればよかったか。若干足りないような気もしてきた。

「翔平」

「ん?」

「浅香さんには、今回の件なにも言ってないよね」

「言うわけないだろ」

「それが分かっているならいいよ」

 安心したように、小さく八坂が笑う。

 嫌いと言えば心外そうな顔をするが、一方で浅香と距離を取りたがるのは八坂も同じだ。

 何度か三人で会う機会を設けようとしたが、その度に断るのは八坂も変わらない。むしろ強い拒絶感があるのは八坂の方だ。

「お前は妹さんを救うことだけ考えて」

 まっすぐ、淡いこげ茶の硝子がこちらを見る。そういえば、俺も似たような色をしていたように思う。

 唐突に、聞きたくなった。

「八坂はさ、俺の妹の気持ちか、もしくは父親の気持ち、理解できる?」

「出来ないよ」

 回答は一瞬だった。

 昨日、浅香にも投げかけた質問とほぼ同様のものだ。

 あまりにもきっぱりした返しに、下げてしまおうかと八坂の炒飯の皿に伸ばしていた自分の手が小さく引っ込んだ。

「血が繋がっていなくても家族だよ。それを性的な対象として見るなんて、僕には理解すらできないね」

 どんな理由があろうとも。

 最後にそう付け加えて、八坂は小さく目元を細めた。

「だって、翔平はそう思うんでしょう?」

「……ああ。そうだ」

 何食わぬ表情を作って、俺はなんとか八坂の皿を自分の元へ引っ張った。皿を重ねるときに、小さく痙攣する指が音を立てたのに八坂は気づいているだろうか。

 何故か、八坂が俺に嘘を吐いているように見えた。そんなはずはない。




 皿洗いをしている最中、八坂はぼんやりと部屋の隅にあるテレビを眺めていた。キッチンからでもテレビから落ちてくるニュースキャスターの穏やかな声が耳に届いてくる。

 最後の皿を食器棚にしまい終わってから、のんびりと俺もテレビの前に移動する。

 八坂はいつも通り、ベッドに背中を預けながらぼんやりとその横にあるテレビを見つめていた。俺はベッドに腰掛けて、同じようにニュースを見つめる。

「親父さんに最後会ったのいつ?」

 唐突に、八坂が口を開いた。視線の先にあるニュースでは、地下鉄の痴漢について報道している。その内容に辟易して眉を寄せながら応える。

「一年前、かな。パンフレットを置きに行ったときにすれ違った」

「それ以来はないんだ」

「会いたくもないしね」

 浮かんでくるのは最悪の記憶ばかりだ。

 妹と唇を重ねる父親を見たのが五年前。それからすぐ家を飛び出して、ここに引っ越したのは半年後のことだ。

 それ以降、あの家に足を踏み入れていない。いや、踏み入れることができない。

「翔平はさ」

「ん?」

「家族の愛に、劣情なんてありえないって考えているんだよね」

「当たり前だろ」

「そうだよね」

 ふ、と笑う八坂の瞳に冷たさが灯ったように感じたが、一瞬のことですぐにいつもと同じクールで、穏やかの瞳へと戻る。

「家族大事にしているとこ、良いと思うよ」

「そう? お前もそうなの?」

「まあ、そうかな」

 机の上に適当に置かれた雑誌を手に取ろうとして、八坂が持ってきたノートが目に入った。外観はどう見てもただの大学ノートだ。その中に恐ろしい計画が練られている最中だと誰が思うだろう。

 改めて雑誌を取ろうにした俺の手首を、八坂の細い指が捕らえた。

「何度でも言うよ翔平」

 目だけで、俺はそれに返す。

「僕は、お前の親友だ」

 その言葉に、安心する。

 す、と差し出された自分の父親を殺すための計画書を受け取りながらでも俺は自分の目元が緩むのを感じた。

「お前は、俺の親友だもんな」

 自然に落ちたその言葉に、八坂は小さく笑って返す。

 頷いてくれなかったのが、ほんの少しだけ、胸の奥をざわつかせた。

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