第3話
売買契約書にボールペンを滑らせる若い夫婦を見ながら、俺は心の中で一息を吐いた。契約場所は新居になるマンションの別室、モデルルームだ。
「来月初めには入居できますよね」
「もちろんです。お部屋が三浦様をお待ちですから」
妻は嬉しそうに笑って、印鑑を準備する夫の横顔を見つめている。夫はその視線に小さく笑みを返して、とん、と印鑑を押した。
売買契約はこれで問題ない。最終的決済までにはまだいくつか手続きを踏む必要はあるが、売買契約さえ結んでしまえばこっちのものだ。これで六月の実績も安定する。
三浦様を見送ってから会社に戻り売買契約書の確認をする。日はとっくに落ちて、会社の中に残る人間はほんの数人だ。
必要書類の確認をすべて終えて、ぐい、と手を天井に向けて伸ばす。営業とは言っても事務仕事も当然必要だ。
六月も末を迎え、目標に対してそろそろ厳しい追及がかかるころだがとりあえずその心配は消え去った。
「一気に三戸とは流石だね、澤木」
「四戸確定のお前に言われたくねぇよ、浅香」
はは、と笑いながら背中を押してきた浅香を見上げる。グレーのパンツスーツで決めた浅香は今月も販売件数、販売価格どちらもトップをキープしている。
月に一件確保でも死にもの狂いのこの世界で、常時三人以上の見込み客を持ち、月に四、五軒の実績を上げる浅香に肩を並べられるものはほとんどいない。
「たまたまだって」
「たまたまなら俺が泣きたくなるわ」
はぁ、とため息を零すと浅香は楽しげに表情を緩ませた。赤く引かれた口紅に自信を感じる。
お客様との折衝回数も、訪問件数も、電話件数も、誰よりも多いことは周知の事実だ。もはや彼女をやっかむ人間は存在しない。
同期として情けないが、誇らしいことに違いはない。
「ねぇ澤木、今日ちょっと飲みに行かない?」
「いいね」
営業としての数字もクリアし、明日は久しぶりの休みだ。
この業界にいると感覚がおかしくなるが、不動産業界において休日は水曜日だ。大きな契約を水で流したくない、というゲン担ぎから水曜日が休みになっている、というのが不動産業界の定説ではあるけれど、実際のところどうなのか。
浅香も仕事は終えているのか、斜め前の机を覗き込めば随分とすっきりした机上だ。
俺も書類をまとめてしまえば今日の仕事はもう終わりだ。
「キンと冷えたビールが飲みたい。三週間ぶりのお休みなんだから今日くらいダイエットはお休み」
「十分細いだろ」
「そういうのいらないから」
俺の机上の整理を手伝いながら浅香が俺を睨む。
本音を言っただけで睨まれるのだから、女に対する褒め言葉は難しい。そんなことを言っているからこの年になって彼女もいないのか。
綺麗になった机を見送り、まだフロアに残るメンバーに軽く声をかけてから出る。
エレベーターを降りて外に出るが、まだ外には昼間の暖かさがほんのりと残っている。
「夏だなぁ」
「そうねぇ」
二人肩を並べて駅前へとのらり、と足を進める。冬になれば雪も深いこの地方だが、夏は夏でそれなりに暑い。
「どこにする?」
「いつものとこでいいだろ」
「賛成」
浅香が嬉しそうに瞳を緩める。社内では張りつめたようにきゅ、と引きあがる目じりがこういうときには緩む。その瞬間を見るのが唯一俺だけだということに内心誇らしげな想いは宿る。
夜九時を当に回った町中だが、まだまだ人の姿は多い。がやがやとした喧騒は昼間よりも一段大きく聞こえる。
駅前から少し外れた小さな路地に入り込むと、赤ちょうちんが灯る小さな居酒屋が現れる。二人並べて入ってカウンターで肩を並べる。
「とりあえず生二つ」
「かしこまりましたー!」
元気な大学生くらいの女の子にそう返されてから、上着とネクタイを脱いで椅子にひっかけた。
待つこともなくビールはすぐ目の前に滑り込んできた。
「とりあえず」
「ノルマ達成かんぱーい」
カチャン、とジョッキ二つが音を立てた。二人でぐいとその金色の雫を喉の奥に流し込む。キンキンに冷えた微炭酸が乾いた喉を一気に潤す。
「っ、たまんね」
「おいしい!」
浅香が満足気ににっこりと笑う姿を見て、俺も笑みを返す。
仕事の一番のご褒美はこの瞬間にあるとも言える。これがなければこんなに仕事を頑張れない。
「この店久しぶりな気がする」
「そうだっけ」
「そうだよ。二人で飲むのも先月ぶり」
「お互い仕事人間だからな」
そうだね、と声をあげて笑う浅香に、さらに俺はビールを煽った。喉を駆け抜ける爽快感に、よくわからない解放感を覚える。
「にしても、さすがだよな。今月も四件だろ」
「まあねぇ」
にぃ、と嬉しそうに浅香が笑うと同時に、先ほどの大学生が通しを持ってくる。豚の角煮。これがまたうまい。
適当に串を注文してから、豚の角煮を口の中に放り込んだ。
「ああ、そういえば昨日八坂くん見たよ。駅前で」
「八坂?」
「うん。女の子と一緒に歩いてたんだけど、彼女かな」
「あいつに彼女?」
軽く首を捻る。あいつにそんな相手がいただろうか。
とは言っても八坂と最後に会ったのはあのモデルルームだ。それ以降連絡すら取っていない。
会えばきっと、俺はあいつに例の件の答えを言わなければいけなくなってしまうだろう。それにおびえて、連絡を取ることすらおびえている。
きっと八坂もそれをわかっていて俺になんの接触も図らない。
「八坂くんくらいイケメンなら彼女の1人や2人いてもおかしくないのにね」
「あいつはあれで難しい奴だろ」
「それはわかるけど。でも高校時代は付き合ってる子いたよね」
「ああ、そういえば」
長年八坂の友達をやってきたが、あいつに恋人がいた時期は非常に限られている。
「一個下の子だよな。俺図書委員一緒だった」
「そうだったんだ」
豚の角煮をもぐもぐと食べながら、浅香はビールを煽る。
そういえば町村さんはビール飲めなかったっけ。そこらへんにいる男よりよっぽど酒に強い浅香を見ていると、それとは対照的な町村さんを自然に思い出す。
「八坂くんってさ」
少し考えるように、浅香が眉を寄せて呟く。
「昔からだけど、何考えてるのかよくわからないんだよね」
「まぁ、そういうところはあるよな」
こくり、と浅香が頷く。
へいおまち、と目の前の大将が差し出してくれた串ものを受け取りながら八坂のことを考える。
完璧な外見と、それに見合う頭脳を持つ俺の親友。
「そういえば澤木からあんまり八坂くんの話って聞いたことないよね」
「そうかな」
「そうだよ」
ぐい、と残りのビールを飲み干して、また同じものを二つ注文する。
ビールの最初の一杯はどうしてこんなにも早くなくなってしまうのだろう。
「八坂は、幼馴染で親友で、俺にとっては兄弟みたいな、そんなんだしなぁ」
「小学校から大学まで一緒なんだっけ」
「そう。すごいよな」
こくこく、と浅香が頷いて、俺と同じようにビールを空けた。それと同時にビールが目の前にとん、と置かれる。
酒のペースがいい居酒屋はいい居酒屋だ。空のジョッキを眺めているほど悲しいことはない。
「でも澤木と八坂くんって、なんかジャンルは違うイメージだけど」
「そう?」
「二人とも人当たりいいけど、八坂くんはちゃんと線引きしてる感じ」
「なんだよ、俺は来る者拒まずと言いたいのか?」
「え、違うの? 高校時代の女関係見てるとそう思うんだけど」
「うるせぇ」
二人で声をあげてケタケタと笑う。
高校時代の友人とこうして飲めるなんて俺はよっぽど恵まれている。
「ところでさ」
「ん?」
「妹さん、どうなの」
「……変わらねぇよ」
四杯目のジョッキに口を着けたところで、浅香が重たそうに口を開いた。
居酒屋の中の喧騒が少し離れた気がした。
浅香は「そう」と呟いてから、ちびり、とビールを飲む。俺は机の上に出していた煙草に火をつけて、煙を大きく吸い込んだ。
「お前は、有紀の気持ちわかるか?」
妹の名前を口に出したのは久しぶりだ。名前を呼ぶ瞬間に少しだけ声が震えた気がして慌てて煙草の煙をすべて吐き出した。
浅香は俺の言葉を飲み込んでから、悩むように視線を宙に惑わせた。
壁に並ぶ焼酎と日本酒の一升瓶がカラフルで目に痛い。
「わかる」
悩んだ末に浅香はそう呟いて、ぐい、とビールを煽った。
「でも、助けてほしいとも思っているはず」
浅香の目が、まっすぐ俺を射抜く。
俺はその目を見たくなくて、視線を煙草の先に向けた。浅香の言葉はどんなときだってまっすぐで、そして俺の心を寸分違わず狂わせる。
俺だって、それくらいはわかっている、つもりだ。
「助けてぇよ」
泣き言みたいな言葉が毀れた。煙にまみれたその言葉に、浅香は言葉を失ったかのように黙り込んだ。
それからもう一口ビールを飲み込んでから、小さく「ごめん」と呟いた。
「お姉さん、日本酒冷一つ」
沈黙に耐えかねて言葉を注文する。大学生の彼女は笑顔で「かしこまりましたー!」と返す。その明るさが今は嬉しい。
「私は、澤木の仲間だから」
言葉を迷わせるように、浅香がそう口にした。その言葉に、俺は軽く目を細める。
八坂の言葉が心の中に反響する。「俺は、お前の親友だから」そう。八坂は俺のためだけに言ってくれている。ただ決めかねているのは俺だけだ。何が正しいとかじゃない。どうしたいかだ。
わかっているのに。
そう、とっくに答えは出ているのに。
「浅香」
外れていた浅香の視線がまた俺に戻る。
「何があっても、お前は仲間でいてくれる?」
「もちろん」
まどうこともなく返ってきた言葉に、俺は小さく3回頷いた。
「俺、決めた」
浅香が小さく息を飲んでこちらを見た。その瞳の中に怯えのようなものが浮かんでいるのが見えたが、それは無視した。
「何を」
「ちょっとね」
やってきた日本酒で唇を湿らせながら、俺は口元を緩めた。
「俺は、有紀から父親を奪う」
決めた言葉は、思ったより軽い響きになって自分に返ってきた。
浅香は何も言わず、ただこちらをまっすぐ見るだけだ。
決意が揺るがないうちに、八坂にラインを送る。酒の勢いだと思われてもいい。けれど、これはずっと俺が考えてきた想いだ。
画面に並んだ物騒な文字から目をそらすように、送信ボタンを押した。
既読の文字がついたのを見て、俺はポケットにスマホを押し込んだ。
もう、引き返さない。
「決めた、殺そう」
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