1話:ベトナム渡航

 昨今の情勢はあまりに深刻だ。いかに深刻かの自説でみなが競い始めているくらいなのだから、相当に深刻である。もちろん、新型コロナウイルスの話である。あるものは飲食店がつぶれることが問題だという。あるものは医療体制がひっ迫していることが問題だという。中には海外渡航をあきらめたものもいるという。海外渡航とは多くの人にとって大きなイベントであると思う。場合によっては人生を懸けた、壮大な計画の一つであろう。その心中は察するに余りある。

 であれば、あの話をせねばなるまい。それは、私が人生を懸けることになったかもしれなかった、大変な海外渡航の思い出である。


 確かまだ夏の片鱗も見せていなかった、7月の頭かそれくらいの頃だったと思う。大学の友人Aが突然声を掛けてきたのだ。「ベトナム行くんだけどついて来てくれない?」と。なんでも、ある先生が仕事で行くのに、連れて行ってもらえるのだと。一人で行くのもなぁ、ということでついて来い、ということだった。いつなのか聞くと、9月下旬だと。私はその場でなんとなく了承した、と思う。というのも、いきなり向こう都合で私の予定が決まることになったので、それが印象に強すぎて他を詳しく覚えていないのである。とにかく、ついて来いと言われ、ついていくことになったのだった。

 ここで、賢明なみなさまは疑問を持ったことだろう。そんなに急で大丈夫なのかと。結論から言うと、大丈夫じゃないに決まっているだろう。私がキレたい。なんで受けてしまったんだ、お前は。航空券、宿、移動手段は先生の方で手配してくれる手筈になっていたため、そこはご安心いただきたい。では、なにが問題か。パスポートだろうか。否。海外によく行くみなさまはご存じだろうが、パスポートは意外とすぐ取れる。なんなら1週間とかで取れる。さて、何度でも聞こう、ならなにが問題なのだろうか?

 それは、予防接種だ。新型コロナウイルスのおかげでワクチンスケジュールを改めて意識した人も多いだろう。そう、予防接種にはスケジュールがあるのである。一回目打った後、ひと月とか一定の期間置いて二回目打たなければならないみたいなやつだ。さらに、海外に行く場合のような自費診療で受けるようなワクチンは、病院に在庫がないことも多く、取り寄せにかかる時間も考慮に入れて動かなければならない。これから行く人は気をつけてほしい。

 7月時点で聞いていた必要な予防接種はA型肝炎、B型肝炎、そして破傷風。もう記憶の底にこびりついてしまったが、それでもそれらについては出発までになんとかなったはずなのである。渡航までふた月ほどあったおかげか、最低限レベルを押さえたように覚えている。さてさて、まだもったいぶらせてもらおう。これなら問題はないのではないだろうか。結局はどうにかなったのだろう。

 私も信じていた。そんな私が安心して渡航計画を進めていた8月も中旬のこと。友人Aは突然、しかし親切に教えてくれたのだ。「なんと、狂犬病もでしたよ」と。

 目ざといみなさまは気づかれただろう。「7月時点で聞いていた必要な予防接種は」「渡航までふた月ほどあったおかげか」間に合ったのだ。あとから言われたものは間に合っていない。つまり、狂犬病は間に合わなかったのである。

 人の狂犬病の予防接種はおよそひと月で接種完了となる。病院では取り寄せが必要になる。間に合うはずがないだろ。間に合っても意味わからん旅行スケジュールになるだろ。

 ところでみなさまにつきましては、狂犬病がどういうものかご存じだろうか。名前に「犬」と入ってるため勘違いされやすいが、ほぼすべての動物が感染源となる。これは簡単に言えば、「少しでも動物と触れ合うと感染する」可能性があるということである。狂犬病蔓延国では基本的に動物に触ろうとしてはいけない。特に狂犬病予防接種を打たなかった人は。そしてこれは飼い犬でも、である。その飼い犬が狂犬病ワクチンを打っている、または狂犬病に罹っていないという保証はないのだ。

 まだまだ語らせてもらおう。では、狂犬病に罹ったらどうなるのだろうか。残念ながら発症後は明確な治療法が今のところなく、致死率はほぼ100%である。端的に言って、やばい。しかし、希望ももちろんある。発症前、つまり症状が出る前ならば、ワクチンの暴露後接種により効果が期待できるという。安心した。これで、現地で犬に噛まれてしまっても望みはあるだろう。

 いや、違うだろ。論点はそこではないのだ。巧みに摩擦ゼロの滑らかな移動をした論点Pにみなさまは惑わされたかもしれないが、私の目はごまかせない。なんの縛りプレイなんだ、これは。友人Aに告げられたその瞬間、私は「狂犬びょう危機一発」に入れこまれたわけだ。ちなみにだが、ベトナムには飼い犬だけではなく、野犬がその辺をうろついていることもある。ほかにも野生動物がいたりする。これらをすべて避けながら動かないといけなくなったということで、失敗すると死が待ち受けている。スリリングで楽しいね。いや、そんなもんゲームの中だけにせい。

 かくして死と隣り合わせの世界に突っ込まれた私だが、旅行について詳述は避けたい。というのも、あくまで先生のお仕事に連れて行ってもらうのに強制連行されただけなのだ。もしその内容を話してしまえば、守秘義務だとか機密情報だとか難しいことに引っかかって、私が難しくなってしまう。

 私から言えるのは、友人Aが平気で現地の飼い犬と触れ合っていたことと、友人Aが現地で自由行動(自主)を取ったことくらいである。せめて事前相談してくれ。

 さて、ここまで来るとみなさまからはご心配賜っているかもしれない。「そんな旅行、行かない方がよかったのでは?」と。しかし、ご無用である。旅自体は楽しかったからである。苦労は尽きなかったものの、食事会で酒を飲んだり、宴会で酒を飲んだり、懇親会で酒を飲んで吐いたりした経験が私の中で鮮明に活きているのだ。

 食事も美味であった。なんといってもフォーである。澄んだスープにだしと香草の香りが燻り、めんを啜ると先鋭な塩味が口を駆け抜け、だしのまろみとめんのじんわりとした甘味がじっくりと広がる。ベトナムへ旅行する方にはぜひ食べてほしい。安いし。ちなみにだが、日本語発音で「フォー」と注文すると「よくわかんない」みたいな顔された後に普通にフォーが届く。通じているのか通じていないのかくらいは教えてくれないものだろうか。

 

 幸せな思い出で最後を飾ったところで、このお話もそろそろ締めようと思う。なんか思い出してて嫌になってきたし、コンテストの応募のためには字数を気にしなければならないからだ。正直なところ、まだまだ話せることはある。気が向いたら書くかもしれない。興味のあるみなさまにおかれましては、なにかしらの方法で私の気を向かせてほしい。

 それでは、また話さなければならないことがあったら、また会おう。

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