彼女は僕を愛しすぎている
妹蟲(いもむし)
彼女は僕を愛しすぎている
冷たい手錠に両手の自由を奪われた。
目の前の女性はその様子を見て楽しそうに目を細める。狭いワンルームの部屋は夏特有のぬるい空気で満たされている。
生活感あふれる僕の部屋の中で、ピカピカと光るその手錠は、明らかに浮いている。
「みやこさん」
「何かな、新ちゃん」
「これ」
「頭の悪い新ちゃんにはわからないかな? これは手錠っていうんだよ」
美しい黒髪をかきあげながら、みやこさんは満足そうに笑う。
手錠くらい知っています、という言葉をぐっと飲み込んで、みやこさんの瞳をそっと覗きこむ。深く沈みそうな黒い瞳なのに、覗けば覗くほど澄んで美しい。綺麗な二重瞼は完璧な孤を描き、曲線の美しさをこれでもかと教えてくれる。ぽってりとした唇は、触れろとばかりに僕を誘っていた。
少しばかり僕より高い身長は、座ると僕の方が少し高くなる。悲しいかな、これが格差というものだ。
僕の手首に手錠をかけたその女性は、どんな美しい言葉で彩ってもまだ足りない。だからといって美女、なんて簡単な言葉で片付けるのは僕が嫌だ。
「みやこさん、怒ってます?」
「どうして怒ってるって、思うのかな」
みやこさんの白く細い指先が手錠の上をするすると滑る。僕に触れているわけじゃないのに、その心もとない触り方に胸の奥がじりじりと震えた。
「怒っている時の笑い方をしています」
「新ちゃんって、脳みそのサイズがほかの人より小さいのかな?」
僕のメガネをみやこさんが外す。ああ、視界まで奪われてしまった。30cmも離れた位置にいないみやこさんの顔がぼやけた世界に溶け込んでしまった。
ふふ、とみやこさんが楽しそうに笑う声がする。猫が笑うような、鈴が踊るような、そんな声。
「しーんちゃん」
彼女の甘い声が僕を呼ぶ。それから、僕の頬を優しく包む。ひんやりとした指先が、夏の暑さで火照った僕の頬を冷やしていく。夏だというのに、みやこさんの手は冷たい。
「あのね、私怒ってなんかないよ」
彼女の頭が僕の片口に落ちる。甘えるようなその動作に、僕の鼓動ばかりが早くなる。
けれど、僕の手は手錠によって自由がきかない。まぁ、なかったとして僕にそこからどうこうできる心の度量なんて存在しないのだけれど。
「……ねぇ新ちゃん」
「なんでしょうか、みやこさん」
みやこさんの頭がすり、すり、と僕の肩口に押し付けられる。ああ、制服越しとはいえ彼女の体温がこうして間近に感じられるなんて。その温度だけで頭の中が熱くなる。
「私、知ってるんだよ」
そう口にするみやこさんは、楽しそうに「ふふ」と肩を震わせる。特に心あたりがあるわけでもないのに、なんだか落ち着かない。みやこさんは自分の人差し指同士を、つん、つん、と合わせて視線をこちらに向ける。
距離が近い。まるで恋人同士のようだ。
「新ちゃん、今日クラスメイトの女の子に消しゴムを拾ってあげたでしょう」
「……はい」
まさか。
みやこさんは笑みを少しすねたようなものに変えて唇を尖らせた。前髪の影とまつげの影が重なり合う。
「もしかして、それに怒ってますか?」
「怒ってないよ、新ちゃんには」
僕には。
みやこさんが口元をゆるりと孤を描く。女性の笑みを見つめるのはたまらなく好きだけれど、みやこさんほど美しい女性の笑みはまた別格だ。
僕の反応を楽しむように、みやこさんが楽しそうに僕にかけた手錠に触れる。冷たかった手錠も、今は僕の体温が移ってしまって生ぬるいものに変わった。
「私以外の女の子と、会話することも触れ合うことも、全部禁止してあげているのに」
「集団生活を送っている身として限度があります」
「新ちゃんのケチ」
そう言いながらも、みやこさんは楽しそうに喉の奥をクツクツと鳴らした。
みやこさんの髪からふわりと甘いシャンプーの香りがする。僕に触れている部分に、じんわりと汗が浮かぶ。ああ、今日も暑い。
そんなじっとりとした温度の中、長そでのセーラー服を着ているみやこさんの額には、汗の粒ひとつたりとも見当たらない。体の作りが人間のそれと違うように感じる瞬間は、こういうときだ。
額に浮かぶ汗すら手錠と目の前の女性のせいで上手く拭うことが出来ない。でも、彼女が満足そうだからそれでいい。
「新ちゃん、私以外の前でも笑っているのかな?」
「……そりゃあ」
無茶を言いなさんな。
しかしそれはどうやらみやこさんの本心だったようで、頬をぷっくりと膨らませた。それからぐりぐりと頭をこちらに押し付ける。いつもならその髪を優しく撫でてあげられるのだけれど、今日は手が不自由でそれすら出来ない。
「みやこさん」
「何?」
「愛してます」
くるん、と、こちらを向いたみやこさんは、キラキラとした瞳でこちらを見る。大きな美しい瞳がいつもより一段と大きくなり、その瞳には僕しか映っていない。その事実は、僕を心臓を大きく震わせる。
本当に、こんな美女が、どうして僕の、目の前に。
「愛してますよ、みやこさん」
もう一度、薬を与えるようにその言葉を呟く。みやこさんは嬉しそうに瞳をもう一度輝かせると、大きく手を開いて僕の胸元に飛びついた。
「私も、新ちゃん大好き!」
整いすぎた顔立ち、細い体躯、まっすぐな瞳。あらゆる人から愛される僕の大切な人。
でも彼女は、僕を愛しすぎている。
「愛してるよ、新ちゃん。私だけのものだよ」
みやこさんはそう呟くと、幸せそうに僕の胸元に頭をすりよせた。
こうして僕に愛情を訴えるみやこさんだが、決して僕とみやこさんは恋人関係とか、そういうものではない。ただの幼馴染である。
***
「もうちょっとだけ」
「お願いですから、ね」
「……わかった」
しぶしぶ、と言った表情で僕の手首から手錠を外す。小さな鍵穴に小さな鍵が差し込まれると、あっという間に僕を戒めていたものはなくなった。
手を、ぐ、ぐ、と何度か握りしめてからぐい、と身体を伸ばす。自由は素晴らしい。
「いつの間に手錠なんて手に入れていたんですか。それおもちゃじゃないですよね」
「先週、くらいかな」
考え込むようにして僕のベッドにぱたり、と倒れたみやこさんを横目に僕は冷蔵庫から麦茶を取り出す。二つコップを取り出して、それぞれに麦茶を注いで机の上に並べた。
それに気がついてみやこさんが起きあがる。そのうちの一つの麦茶を手にとって、ごくり、と喉の奥に流し込んだ。白い喉が音に合わせて小さく動く。
「どうやって」
「ん、知り合いに頼んで、かな」
知り合い、という言葉に眉を寄せる。もしかして。
僕の表情に気がついたのか、みやこさんがカラカラとグラスの中の氷を揺らしながらこちらを見て肩を小さく震わせた。
「……それって」
「椿ちゃん」
「うちの姉にそんなもの頼まないでください」
「いやです」
にまり、と口元を楽しげに揺らすみやこさんに、僕はため息をこぼすだけだ。
本当に、僕はみやこさんに敵わない。
「それよりみやこさん、これを見てください」
彼女の目の前に、その手首を突き出す。手首に赤い跡が残っている。みやこさんはそれを見て、驚くようにその手首に触れた。
「どうしたの、これ。ぶつけたの?」
「どう考えても先ほどの手錠です」
その言葉に、みやこさんはしゅん、と肩を落とす。その頭に、ぽすん、と手を置く。
つややかな黒髪の感触に、少しだけほっとする。
「慣れないものを使うのはよくありません」
「そうだね、新ちゃんを傷つけるのはよくないかな。ほどほどにするね」
「傷つけること自体をやめてください」
うふふ、と楽しげに笑うみやこさんに、僕も呆れた笑みを返しながら机の上の麦茶を喉の奥に流し込んだ。
「でもね、基本的に新ちゃんが悪いんだよ」
「何がですか」
「私以外と仲良くしようとするから」
拗ねたように言う彼女に、つい笑みがこぼれる。大人びた顔立ちの割に、みやこさんはかなり子供っぽい表情を作る。
みやこさんのグラスの中が空になったことを確認して、冷蔵庫に向かう。
「おかわり何にします?」
「カルピス」
「かしこまりました」
冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出して、常温のままキッチンに放置してあるカルピスを注ぐ。まだ残っている氷が、カラン、と柔らかな音を立てる。
くるくるとかき混ぜて、白濁の甘い飲み物を彼女の目の前に置く。みやこさんは嬉しそうに瞳を緩ませた。
「買ってきた杏仁豆腐、いかがですか?」
「食べる!」
嬉しそうに笑うみやこさんに、ついでに冷蔵庫から二つ出した杏仁豆腐を差し出す。一つは自分ところに引っ張って、スプーンを差し出す。
みやこさんは喜んでそのスプーンを受け取って、プラスチックのふたをゆっくりと開いた。
「……違う、そうじゃない」
開け終わってから、みやこさんが表情を硬くする。それから悩んだように、スプーンを口に含んで僕を見る。
「違うの新ちゃん。飲み物を催促したわけじゃないの」
「あれ、違いました?」
自分の杏仁豆腐を開いて、スプーンで杏仁豆腐をつつく。果物の載った豪勢な杏仁豆腐だ。みやこさんほどではないが僕も甘党であり、杏仁豆腐はかなり好物に入る。
「この杏仁豆腐、一つ600円もするんですから大切に食べてくださいね」
「美味しそう。果物たくさんだからいいお値段なのかな」
「かもしれないですね。温くなる前に食べてください」
「うん!……じゃ、ない」
スプーンをぎゅ、と握りしめてみやこさんが僕を睨む。
なんなんだろう、さっきから。
「食べ物、粗末にしちゃだめですよ」
「わかってる。わかってるよ。だからね」
「なんですか」
「……わたしのこと、すき?」
舌っ足らずにみやこさんが僕にそう尋ねる。口にスプーンをくわえて、机越しに身体を伸ばしみやこさんの頭をなでる。みやこさんが嬉しそうに目を細めた。
「愛してますよ」
みやこさんが満足そうに目を細める。それからようやく、目の前の杏仁豆腐にスプーンを向けた。
まったく、手のかかる猫だこと。
「私も、新ちゃん大好き」
本当に、彼女は僕を愛しすぎている。
彼女は僕を愛しすぎている 妹蟲(いもむし) @imomushi
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