第26話 アンテナ
指名された
「僕は、その……漱石がこの国のことを本当に愛してたんだと思いました」
囁くような声でそう言うと、あちこちから失笑が漏れた。
思春期の彼らにとって、人前で「愛している」を口にすること自体が、恥ずかしい以外の何物でもなかったからだ。
「こらこら、人の発言を笑わないように」
微妙な空気を察したのか、少し真面目な顔で教師が諫める。
「それで? 黒木は何をもってそう思ったのかな」
「……言葉、言葉からです」
「言葉……先生の妻に対する感情とか、友人に対する贖罪の気持ち、そういったことではなくて」
「は、はい……勿論物語の流れとして、そういう所もしっかり描かれていて、凄いと思います。それに、その……大橋くんが言ったように、死に対する憧れを、漱石自身も持っていたと思います」
「でも違うと。言葉とは、どういう意味だろう」
「うまく表現出来ないのですが、僕はこの作品に、物語としての魅力はそんなに感じてません。色んな感情が交錯しあう様子、それは見事だと思います。でも結局のところ、行きつく先が死というのは、寂しいですし哀しいです」
「なるほど……そうですね、これも確かな意見です。ある意味殉死という言葉に惑わされて、死への憧れを持ってほしくないと、私も思います。
それで黒木、言葉についての君の考え、聞かせてもらえるかな」
「……言葉が美しい、そう感じました。どこを読んでも、どこに触れても……日本語って、こんなに美しいんだって改めて思いました。漱石がどういう意図でこの物語を書いたのかは分かりませんが、僕はこの作品から、漱石の日本を愛している気持ち、そしてそれが読者にも伝わって欲しい、そういった強い意志を感じました。この国に生まれたことを誇りに思おう、この言語に辿り着いた先人に感謝しよう。この美しい言葉を子々孫々に伝えていこう、そんな思いです」
多感な時期、自分の感じたこと、思ってること。それをストレートに表現することは恥ずかしい。
それを、教師に指名されるまで存在を忘れていたような男が、うつむきながら語っている。おかしくて仕方がなかったのだ。
教師はそんな空気を察したのか、一つ咳払いをすると
「なるほど。現国の答えとしては微妙ですが、でも黒木の言いたいこと、先生にも少し分かる気がします。そしてそれは、決して笑われるようなことじゃない。
黒木、君は君の感性で、漱石の深淵を覗こうとしている。それは芸術に触れる人間として、正しい姿勢だと思いますし、誇っていいと思います。
私も帰ってもう一度、この物語を読んでみたくなりました。君のように感じれるかは分かりませんが、漱石がこの作品で何を残したかったのか、それをもう一度感じてみたいと思いました」
そう言って話を終わらせ、次へと進んだ。
まだ微妙な空気が漂う中、大橋は唖然とした表情で
「なんてことだ……」
自分はこの物語が好きで、三度読み返していた。
自分が感じたことは、教師の言葉からも分かるように正しい。この物語と向き合い、作者の意図をしっかり汲み取っている筈だ。
現に自分も共感し、三度目に読んだ時には涙したほどだった。
しかし
確かに美しい日本語が詰まっている、そう思った。だがそれは、漱石の語彙が常人離れしているからだ、彼の才のなせる技だと思っていた。
当然
それが正しいかどうか、それは分からない。ただ
そして思った。
この感性を持つことは、自分には無理かもしれないと。
聞いた話によると、黒木は中学時代、かなり酷いいじめを受けていたらしい。
自分が経験していない、過酷な世界に彼はいた。
そんな中で彼が獲得した能力。それは周囲に対してアンテナを立てることだった。
一本でも多くアンテナを立て、周囲の空気を察知しようとする。それは狩られる側の者が、自衛的に覚醒させる能力だ。
自分もアンテナは立てている。しかし自身を守る為、本能的に立てている彼と比べると、とても太刀打ちできる代物ではない。
彼にとってアンテナは、生きていく中で最も重要な武器なのだ。
そしてそのアンテナのおかげで、彼は誰よりも深い洞察力を身に着けた。
表面だけでなく、その奥に潜む真実を見極めようとする力。
それはきっと、他人に対して最も強く発揮する能力だ。
彼は誰よりも人を観察し、何を思い何を望んでいるか、それを自分より遥かに深く感じている。
そんな彼はきっと、赤澤のことを誰よりも理解してるに違いない。
人が他者に望むこと。
それは自分を理解してくれる深い洞察力、そして受け入れてくれる寛容な心だ。
彼は過酷な現実を経て、その力を手に入れた。
誰よりも優しい心を持った男。
そう思った時、
彼はきっと、誰よりも赤澤の理解者なんだ。
赤澤にとって、黒木はお荷物なんかじゃない。
黒木といること、それが赤澤の幸せなんだ。
自分には勝てない。
ふと前の席を見ると、
その姿を見て、大橋は自分の初恋が終わったことを感じ、寂しそうに笑ったのだった。
しかし、一度灯った初恋の火は、そう簡単に消せるものではなかった。
何より大橋の目には、二人が付き合っているように見えなかった。
もしかしたら彼らはこれからも、幼馴染という関係のままなのかもしれない。
大橋は2年になった時、意を決して
そしてそこで、
それから大橋は、二人の関係を見守るようになっていった。
不思議なもので、いくら未練が残っていても、そう自身に言い聞かせることで気持ちが軽くなっていった。
何より大橋自身、
しばらくして、二人が付き合い出した。
これでいい、これでよかったんだ。
二人共どうか、俺が嫉妬するぐらい仲良く、そして幸せになってくれ。
そう思っていた筈だった。
それなのに……
「待たせちゃったかな」
声に顔を上げると、そこにはこの10年、忘れられずにいた初恋の人がいた。
あの頃と変わらない優しい笑顔。短くなった髪も素敵だ。
「俺も来たとこだよ。お腹空いてるかな。いい店があるんだけど、よかったらそこに」
「うん、大橋くんに任せるよ」
「じゃあ、行こうか」
立ち上がった大橋が、手に持つ缶コーヒーをゴミ箱に投げ入れる。
「おおっ、うまいうまい」
そう言って手を叩く
その笑顔に動揺し、そして今日、この気持ちに決着をつけるんだ、そう強く思うのだった。
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