第9話 黒木家の団欒


 中に入ると、既に夕食の用意が整っていた。

 換気扇の下で煙草を吸っている兄の智弘が、蓮司れんじに気付き手を上げる。


「ただいま」


「おかえり蓮司れんじ。ほら、ちゃんと手を洗ってね。すぐご飯だから」


 テーブルに料理を並べながら、蓮司れんじの母、昌子が声をかける。


「お義母さんお義母さん、私がしますから座っててください」


「いいのよ。いつも弘美ちゃんにばっかり働かせてるんだから、これぐらいしないと。ずっと座ってたら体もなまっちゃうし」


 慌てて台所に入る弘美に、そう言って昌子が微笑む。

 手を洗った蓮司れんじは自分の席に座り、緊張気味に頭を掻いた。


「だーかーらー。蓮司れんじくん、折角手を洗ったのに髪を触ったら駄目だって、いつも弘美ちゃん言ってるよね」


 弘美の口調に圧倒され、蓮司れんじは慌ててもう一度立った。


「あ、はい、そうでした……すいません、洗い直します」


「全く。ふふっ」


 もう一度洗面所に向かう蓮司れんじを追って、れんもついていく。


れんちゃんはご飯、食べなくても大丈夫なのかな」


「麦茶も飲めたんだし、食べることも出来ると思います。だからちょっとだけ、一緒に食べられないのは寂しいですけど……大丈夫ですよ」


「だよね。ごめんね」


「いえいえ、気にしないでください」


「どうせ帰る時、馬鹿みたいにお土産持たされる筈だから。帰ってから一緒に食べよう」


「はいっ」


「それと……椅子もないんだけど」


「大丈夫ですよ。その辺ウロウロしてますから」


「いや、それはそれで僕が落ち着かないんだけど」


「ふふっ……でもよかったです。おじさんが亡くなったって聞いたから、おばさんのことが少し心配だったんです。でも智兄ともにいの奥さん、弘美さんを見てたら安心しました」


「元気しかない人だからね」


「でも……蓮司れんじさん」


「な、何かな。ちょっと目が怖いんだけど」


「弘美さんに抱き着かれて、本当は嬉しかったんじゃないですか? 胸だって私よりずっと大きいし。なんだかんだ言いながら、鼻の下も伸びてましたし」


「誤解、誤解だって」


「ふふっ。でもこっちに来て、初めてほっとしたって感じです」


「ならよかった」


「はい!」





 食卓は賑やかだった。


 昌子と弘美は、料理の味を確かめ合っている。

 お義母さんの味付け、本当難しいです。

 弘美さんのご実家の味付けだって、勉強になるわ。

 今度は何の料理に挑戦しようかな。

 そんな他愛もない言葉を紡ぎながら、二人共笑っている。

 嫁姑問題は、この家には存在しないようだった。


 そしてそんな空気をよそに、男二人は無言で料理を胃に詰め込んでいた。


「ふふっ」


 二人の様子にれんが笑う。

 智弘も蓮司れんじも、食が細い方だった。

 特に蓮司れんじに至っては、最低限の栄養を摂取してる、そんな感じの食生活だった。

 しかしそれを許すほど、弘美は甘くないようだった。

 母の昌子には強気に出ていた兄弟だが、どうもこの二人、弘美には勝てないようだった。


「ほら蓮司れんじくん、野菜もちゃんと食べるんだよ」


「分かってる、分かってるから弘美さん、ボウルごと持ってこないで」


ひろくんもお肉、しっかり食べないと。夏バテしちゃうからね」


「いや、だから頼むから、詰将棋みたいに皿を前に進めないでくれ」


「そうしないとひろくん、すぐにギブアップしちゃうじゃない」


「勘弁してくれって……成長期じゃないんだから、こんなに食べられないって」


「なーに言ってるのよ。これぐらい普通よ、普通」


「弘美ちゃん、もっと言ってやって。この二人は本当、食に興味がないんだから」


「エネルギー効率がいいんだよ、俺らは」


「はいはい、屁理屈はいいからね。ほら、これも食べてよ、お義母さんの漬物」


蓮司れんじ、あんた好きだったでしょ。あんたが今日帰って来るって言うからお母さん、用意しておいたんだからね」


「いや、だからいつも言ってるけど、好きって言ったのは小学生の頃だろ。今は別にそこまで」


「いくつになっても好きな物は変わらないでしょ。あんた、これがあったらご飯おかわりしてたじゃない」


 そう言って、皿を目の前に置く。


「……なあ、兄貴」


「何も言うな。これは黒木家に生まれた俺たちの業なんだ」


「……だよね」


 青い顔をしながら、兄弟が揃って漬物を頬張る。

 茶碗が空になるタイミングで、昌子と弘美が手を差し出す。


「はい、おかわり入れるからね」


 兄弟のため息が食堂に響き渡る。

 そんな二人を見て、昌子も弘美も声を上げて笑う。

 れんも一緒になって笑っていた。





「ごちそうさま……」

「ご、ごちそうさま……」


 ようやく解放された二人が箸を置き、声にならない声を上げた。

 蓮司れんじは熱々のお茶を口にし、一息つく。

 智弘は食べ終わると同時に立ち上がり、換気扇の下で煙草に火をつけた。


「本当、何がそんなにおいしいのかしらね」


 満足気に煙を吐く智弘を見て、弘美が突っ込む。


「お腹いっぱいになったのに、肺には余裕があるんだね」


「これは女子の言うところの別腹なんだよ。それにこうして煙を入れると、パンパンになった胃に隙間が出来るような気がするんだよ」


「いつもそれ言うよね。全然分からないけど」


「分からなくて結構。これは吸った者にしか分からない感覚だから」


「でも本当、吸い過ぎには気を付けてよ」


「分かってるよ」


「弘美ちゃん、もっと言ってやって」


「ちょっとちょっと、母さんまで入って来るなよ」


「だってそうでしょ。お父さんだって何十年も吸ってたんだし。そのせいで」


「……」


 昌子が声を落としてそう言うと、また始まったと蓮司れんじが頭を掻いた。


「体に悪いのは分かってるから。だから本数も控えてるし」


「でもね、もしあんたがお父さんみたいに」


「はいはい、この話は重いし長くなるから。折角蓮司れんじが来てるのに、今しなくてもいいだろ」


 智弘が煙草を揉み消し、冷蔵庫からビールを取り出した。


「ほら蓮司れんじ


「ありがとう」


 二人が缶を持ち、「お疲れ」そう言ってビールを口にする。

 そんな二人に微笑みながら、テーブルを片付けた弘美が洗い物を始める。

 昌子もテーブルに着くと、弘美の淹れたお茶を口にし、頬杖をついて二人を見つめた。


「本当……幸せだよね、私」


「母さん?」


 しみじみと語り出した昌子に、蓮司れんじが声を掛けた。


「お父さんが死んだ時は、本当に目の前が真っ暗になった気がしたわ。あんたたちも成人してたし、もう私の役目も終わって……早くお父さんのところに行きたい、そんな風に思ってた」


「母さん、そういうこと言うなっていつも」


「でも、弘美ちゃんが一緒に住もうって言ってくれて……私、いいお姑さんになれるかなって不安だった。でも弘美ちゃんは本当に優しくて、こんな私のことを大切にしてくれて」


「私はお義母さんのこと、大好きなんです。これからも元気でいてもらわないと」


 弘美が洗い物を終え、手を拭きながら昌子の前に座る。


「嫁として受け入れてもらえて、至らない私に一つずつ教えてくれて。私は幸せな嫁です」


「智弘は子供の頃からやんちゃだったし、勉強も得意じゃなかった。こんなことでこの子、ちゃんとやっていけるのかって心配だった。

 弘美ちゃんのような人に嫁いでもらって、本当によかったと思ってるわ」


「ありがとうございます、お義母さん」


「あとは蓮司れんじだよね」


 その言葉に、れんの表情が曇った。


「母さん、その話は」


「あんたがれんちゃんと、ずっと一緒ならよかったんだけど……でもあの子はあんたのことを」


「やめろってば」


 蓮司れんじが少し声を荒げ、昌子の言葉を切った。

 慌ててれんを見ると、れんはしゃがみ込んだまま、膝に顔を埋めていた。



 

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