第3話



 割れ窓から風が吹き込む為、日没後の竜宮亭は館内でも相当な寒さでした。


 そこで二人はアウトドア用の組み立て式 焚火台たきびだいを持ち込んだのです。

 焚火暖房の燃料は古新聞、雑誌、木材といくらでも集まりました。

 廃墟の広間で揺れる炎を見ていると寒々しい気分が落ち着くのでした。

 けれどそこで話題に上がるのはどうしても人魚のことです。



「人魚の遺体なんて。そんなものが竜宮亭のどこかに有るんですかね?」

「さあね。私に判るのはあの和尚が許せない奴だってことだけ。職場の同僚に根も葉もない悪評を広めやがって。お陰様で私の信用は大失墜よ。もう辞めるしかないわ」

「そんな、早まらないで下さいよ」

「だってね、会社の近くで起きた溺死事件まで私の仕業しわざなのよ? あれは人魚の復讐だ、ミイラを盗んだ『たたり』だなんて! ウチが呪われた家系? バカバカしい」

「どうして、あそこまで盗まれた人魚に固執するんですかね」

「昔から言うもの。人魚の肉は不老不死の霊薬だって。大方、奴の狙いもそこね」

「ははぁ、実はミイラじゃないってのは……つまり新鮮で食べられるという意味か」



 民俗学志望の血が騒ぐのでしょう。

 幸彦は荒唐無稽こうとうむけいな事件に興味津々でした。

 一方で姫香は意気消沈し疲れきっていました。



「あーあ、もうウンザリ。あんな奴、酷い目にあえば良いのよ。人魚どもが仲間の復讐に来るなら、すぐ来て欲しいわ」

「や、止めて下さいよ。こんな廃墟の夜に」

「映画の定番みたいで素敵じゃない。そうだ! 万が一私達が離れ離れになった時に備えて集合場所を決めておこうか? 三階の展望台にしましょう。あそこにはとっておきの『脱出経路』があるから」

「爆発する竜宮亭から脱出してエンドロールですかね? B級ホラーにも程がある」

「開けてびっくり玉手箱よ。脱出方法はその時がきたらね」



 そこで姫香は神妙な表情を浮かべ、唇を堅く結びました。



「どうしたんですか、急に黙って」

「ねぇ、幸彦くん。もし私が会社を辞めて路頭に迷ったらお嫁にもらってくれる?」

「え? えぇ!?」

「イヤ?」

「嫌じゃないです。けど、民俗学者はもうからないし……俺が結婚なんて」

「ふう、冗談よ。私は乙姫でも、貴方は浦島じゃないんだから。もう寝てしまいなさいな。歩き通しで疲れたでしょ?」



 唐突な告白に頭が混乱し、動悸どうきが納まりません。

 幸彦は耳まで真っ赤になって持ち込んだ寝袋に潜り込むのでした。


 二人でやろうと思ってわざわざ時期外れの花火を準備したのに。

 その為に煙草屋へ寄り道してライターを購入したのに。

 それを言いだす機会はついぞやってこなかったのです。






 そして夜更け過ぎ。

 ふと幸彦が目を覚ますと、焚火は消えていました。


 先輩はどうしたのだろう? トイレかな?

 寝ぼけ眼をこすりながら起き上がったその時でした。


 おぞましい絶叫が廃墟に響き渡ったのです。



「な? 先輩? 織戸先輩?」



 返事はありません。

 幸彦は荷物から懐中電灯を抜くと、悲鳴の聞こえた方へと走り出しました。

 恐らく三階からでしょう。


 急ぎ螺旋らせん階段を上ろうとして、途中の手すりで何かが引っかかっているのに気付き幸彦は足を止めました。

 昼間はこんな物なかったはず? ライトを向けて注視すればそれは桃色の登山服ではありませんか。それだけではありません、ズボンから下着まで、女性物の衣服がひとそろい手すりにかけられていたのです。

 決定的なのは、踊り場に落ちていたべっこう縁の眼鏡でした。


 ―― まさか、これ先輩の?


 もしや、誰かにおどされ服を奪われたのでしょうか?


 幸彦は激昂げっこうし、恐れすら忘れて突進したのです。

 半開きとなったコレクションルームの扉を蹴り開け、幸彦は暗がりにライトをかざしました。


 浮かび上がったのは鮮血の朱に染まった床と、ボロボロに千切られた袈裟けさ

 そして語るに忍びない姿となった珍念和尚だったのです。


 暗中、入口に背を向けて僧侶の死体を見下ろしていたのは……甲羅を背負った巨躯きょくの化け物ではありませんか。幸彦の喉が痙攣けいれんし、現実を認められずヒューヒューと吐息だけが唇から漏れ出ています。



「なんだよ! これ!!」



 ゆっくりと怪物が振り返りました。

 その顔は長い髪を生やした泥亀どろがめといった風貌で、割けた口からは二股の舌がチロチロと出ていました。

 肌はヌメヌメした緑色、二足歩行の亀人間は両手に餅つきのきぬを持っており、それこそが珍念を撲殺した凶器に違いありませんでした。


 その口から発せられるのは獣じみた咆哮ほうこうだけです。

 あらゆる前置きを無視して、亀は振り上げたきぬを幸彦めがけて振り下ろしてきました。


 どうにか頭をかばうも、右肩に打撃を受けて幸彦は床に転がりました。廃墟の朽ちかけた床板はそれだけできしんだ音を立てていました。

 倒れ激痛にもがいていると、亀の尻尾がゴミでも払うように振るわれて幸彦の体は部屋の隅まで吹き飛ばされたのです。

 幸彦の背骨がミシリと嫌な音を立てました。


 ―― 殺される! 死んでしまう!


 咄嗟とっさに思いついた避難場所は薄汚れたソファーの下でした。潜り込んで震えていると、不思議なことに亀人間はノシノシ歩き回るばかりで何もしてきませんでした。

 どうやらこちらを見失ったようです。


 ―― もしかして目が悪いのか?


 ふと思いついて幸彦はポケットをまさぐりました。

 そこには先輩とやるつもりだったネズミ花火とライターが入っていたのです。


 ネズミ花火に着火し隠れ場所から放り出すと、その効果はてきめんでした。

 動く物に反応して亀人間は何度も得物を振り下ろし、床を傷めつけたのです。

 その結果は言うまでもなく……。


 三階の床は見事に破れ、怪物は腐った木材やコレクションと共に二階を突き破って一階まで転げ落ちたのでした。


 タフガイのように血を吐き捨てながら、幸彦は崩落の穴を覗き込みました。

 どうやら泥亀は白煙の中でまだ生きている様子です。



「人間様の恐ろしさを知れ! 化け物」



 幸彦が隠れていたソファーを引っ張り穴から蹴落とすと、狙い通りにソレは怪物の後頭部を直撃したのです。


 勝利の余韻よいんに痛みすらも忘れて、思わず幸彦はガッツポーズを決めていました。


 勇敢で機転も効き、怪物すらも打ち倒す真の男。

 そう自惚れた幸彦は武勲ぶくんを確かめるべく、一階へと向かうのでした。その足取りは軽く、先輩がどんなに喜んでくれるかを想像しただけで心臓が高鳴りました。


 予想だにしていなかったのです。

 階下で取り返しのつかない悲劇が待ち構えている事など。


 崩壊のほこりが収まり、真実を照らす無慈悲な月光が差し込んだ時。

 そこで幸彦が目にしたのは、ソファーに潰されて瀕死の織戸姫香でした。

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