epizoda 2 タイェムストゥヴィ 2
公爵である父ゾルターンに知られるわけにはいかない。貴族令嬢としては過ぎるほどに奔放なオルドリシュのことを、かの公爵は父性による憐憫と最大限の自制心とで受け入れているのだ。それは、オルドリシュにだとて理解できることだった。なにかひとつ、ゾルターンの心を憐憫へと傾かせている比重が狂ってしまっては、自分のこの奔放な生活は終了を迎えるだろう。その理由として、妊娠は充分すぎる。だからこそ、この時ばかりは不在がちであることを幸いだと、オルドリシュは思った。
しかし、誰に相談する?
自分ひとりで抱えるには、彼女にとって不安すぎる現実だった。
オルドリシュはまだ十七歳である。たとえ、
公爵家の血縁である医師に知られたということは、すなわちゾルターンに報告が行くということである。
血の気が引く思いであった。
口止めをしなければ。
とっさに口止めをしてはいるのだが。それでも、不安は拭えない。
「恥を知れ」と、バルナバシュがアダルベルトを糾弾する。
こんな時に頼れるのは、ゾルターンの弟であるシェンク伯バルナバシュ・ヴィート・ミハリクだけなのだ。彼は、オルドリシュに泣き付かれ、立場逆転の嘘を信じたのだ。もしくは、信じたふりをした。
曰く、オルドリシュこそが被害者であり、アダルベルトこそが加害者であるのだと。
ゾルターン不在ということもまた、間が悪かった。もしくは、オルドリシュにとっては、好機であった。公爵が不在の時の当主代理がバルナバシュであったためである。
バルナバシュはこの出来の良い甥が嫌いだった。その甥を貶める好機を見逃すはずもなく、この時とばかりに、思いつく限りの罵詈雑言をアダルベルトに浴びせ尽くしたのである。
自分の子を彼女が身篭ったという事実が、アダルベルトの心を崩壊へと追いやる。ただでさえ、彼女自身が仕掛けたとはいえ肉の罠にむざと嵌ってしまった無様さを後悔するよりも先に、追い詰められていたのだ。
その上に、この痛罵である。
もはや限界だった。
聡明と言われるアダルベルトであったが、この時、彼は、まだ、十二歳に過ぎなかったのである。
よろよろとその部屋から逃げるアダルベルトは、バルナバシュとオルドリシュによって殺されることになる。
ただしその死を、ふたりは自殺に偽装した。
それは、ゾルターンが王都より戻る前夜のことだった。
オルドリシュの手に、あの夜の感触が蘇る。
抵抗するアダルベルトを抑えることはオルドリシュには不可能なことだった。代わりにバルナバシュが拘束した。彼が殺してくれさえすれば簡単であったものを、自殺と見せかけるためにオルドリシュはその手を汚したのだ。
アダルベルトの流した血の熱と
それは未だ生々しく残る。
彼女が己の嫋やかで白い手を汚した忌々しい記憶であった。
*****
赤児の鳴き声が聞こえたような気がしてオルドリシュは周囲を見回した。
あの忌々しい赤児の鳴き声。
弱々しく今にも死にそうに聞こえた。
あんなにも自分を苦しめたのだ。
罰として死ねばいい。
生まれ落ちたばかりの生命に向けることばではなかった。
それでも、それこそが彼女の本心であった。
だから、バルナバシュにそう言ったのだ。彼はオルドリシュにとても甘い。どんな無理な願い事でも叶えてくれる。
そう。
婚約者に裏切られ自棄を起こした彼女を”女”にしてくれたのも、彼だった。
だからこの間も。
今度も。
助産婦もいない。
誰にも内緒の出産だった。
苦しくて痛くて死んでしまいそうだった。
あんなにも血が流れ出た。
悲鳴が迸った。
叔父さま−−−と伸ばした手を握ってくれたのは彼だった。
「これを、殺して」
かすれる声で、より直接適な言葉で伝えた。
いつもと変わることのない
弱々しく母のぬくもりを求めて泣く嬰児を躊躇いなく抱き上げた。
あれは今日の昼の出来事だった−−−と、オルドリシュが思い返したその時、再び蝋燭の炎が音立てて伸び上がり揺らいだ。
なにとも知れない。
そんな感情に囚われたオルドリシュの目の前に、それは現れた。
息を呑む。
喉の奥で声が強張りついた。
明るさと暗さとが慌ただしく入り混じるその視界の先に−−−。
ひゅうと喉が鳴った。
全身が震える。
鳴き声が聞こえてくる。
死んだはずの忌々しい、赤児。
それを抱いているのは、やはり忌々しい、異母弟。
死んだはずなのに。
バルナバシュが押さえ込むその手首を容赦無く切り裂いたのは、他ならない彼女だったのに。
なのに、なぜ?
オルドリシュの目の前で、”それら”が動いた。
薄明かりにその淡い色は判然とはしないが、憎いあの女と同じやわらかそうな薄い金だろう髪と、同色の瞳に違いない少年。
その腕に抱えられた嬰児は血にまみれて泣いている。その血が、蝋燭の光にぬらぬらと光り闇に溶ける。
声が喉の奥に詰まる。
血の気が引くとはこのことか−−−と、熱の失せてゆく感触を遠く感じる。
後悔も憐憫も、毫ほどもありはしなかった。
オルドリシュにとってはただいやでたまらないものを追い払ったに過ぎなかったのだ。
だというのに。
目の前の怪異に、涙がこみ上げ全身が震える。
恐ろしいのだ。
確かに目の前のふたりは殺した。
バルナバシュがオルドリシュを謀るはずがないのだから。そこには、絶対の信頼があった。
だから、日の高いうちに自分が産んだ赤児もまた、死人のはずなのだ。
なのに。
ゆらり−−−と、アダルベルトが近づき、彼女の目の前に佇んでいた。
白金のはずの髪が、白く色を失くしているのに、何故だか気づいた。
ゆっくりと、アダルベルトの口角が持ち上がってゆく。
ゆらゆらとふたりの影が灯火に揺らいだ。
ひたりと。
冷たい掌が強張りつくオルドリシュの額に当てられた。
大きく、彼女の全身が弾けるように震えた。
まさか−−−−−−。
これまで話でしか聞いたことのないあの存在を思い出した。
怖気をふるう”あれ”である。
公爵家の城がある街は強固に守られている。その中でも、中心に位置する居城はことに強い聖なる灯をたやすことはない。が、目の前にいるのは、正に、
これまでに伝え聞いたさまざまな所業がオルドリシュの脳裏を駆け巡る。
ぞわりぞわりとこみあげる恐怖と屍と対面し剰え触れられているという現実に、その白く滑らかな
そこまで、わずかに瞬きひとつにも満たない間のことだった。
気がつけば振り払っていた。
振り払ったのだ。
確かな手応えがあったというのに。
それなのに。
伏せたまぶたを開いてみれば、そこにはなにも存在してはいなかったのだ。
「今もまた聞こえる」と。
権高く気丈なはずのオルドリシュの声が夜気をかき乱す。
赤児の泣く声だった。
空腹であるのか。
母親を求めるのか。
オルドリシュの白くまろい乳房が痛いほどに張った。
怖気に震える。
幾夜、訪なう死者の求めに応じ、夜衣の胸を寛げただろう。
夜衣を濡らし白くしたたるそれは違うことない母性の証であった。しかし、オルドリシュの心に母性の湧くことはなかった。
あるのはただ恐怖ばかりであった。
逃げなければという考えは浮かび上がるたび浮かんだ泡が割れるかのようにすぐさま消えた。
気怠く、頭が動かない。
気づけば火影にふたりがたたずむ。
異母弟の双眸に見据えられて手が自然と夜衣の胸元をくつろげる。
すでになじんだ重みが腹部に乗りあげてくる。
きゃらきゃらと不思議に響く笑い声が、全身に脂汗を溢れさせた。
それが乳首に吸いついてくるその痛みが、これが悪夢などではありえないと伝えてきた。
−−−あなたと僕の罪の証。神の御許に迎えられることのない、哀れな我が子にせめてもの施しをなさってください。それでも僕とあなたとの罪は毫ほども雪ぐことはできませんけれど−−−
淡々としたその声に、乳房に吸いつく赤子の重みに、オルドリシュの気が遠くなってゆく。
そうして気づけば次の朝になっているのだった。
そんな日がすでに一週間も続いていた。
*****
「男など」
吐き捨てる声さえも力ない。
相談できるバルナバシュが自領へと出向いて四日になる。その前日にゾルターンは帰城した。
まさに
彼は床に臥せるオルドリシュを見舞うや自身居住する翼へと向かい、以降顔を合わせてはいない。
尤も、見舞っただけでもゾルターンがアダルベルトの葬儀後はじめて、ほんの少しとはいえ彼女に歩み寄ったということであった。
しかし。
彼女の妊娠は住み込みの医師により結局は伝えられていたのだろう。所詮、雇い主は公爵であるゾルターンであるのだ。
見舞いの折の短いやりとりで『死産だったためにバルナバシュ叔父上が埋葬してくださった』と伝えればそれ以上は深く問いただしてはこなかった。結局あの赤子はそれだけの存在でしかなかったのだ。そう思い安堵したオルドリシュはしかし、その際の、
『年長者のお前が弟を諫めずにいたなど』
静かな怒りをたたえた灰青色の瞳に見下ろされて告げられたことばに、実は全てを知っているのだと、思い知らされた。
『殿方の力には』
言い募ろうとしたオルドリシュに、
『いかな男とはいえ、アダルベルトは十二のこどもであったろう。お前が本気で抗いさえすれば敵わぬわけもなかろうが』
言外に淫奔と言われた気がして、
『ひどい』
咄嗟に両手で顔を覆った。
そんな彼女に、
『あれには弁解の
吐き捨てるような口調だった。
歩み寄ろうと努めながらも、ゾルターンの心はどうしても、オルドリシュを許すことができなかったのに違いない。
最愛の女が産んだ後継を亡くした喪失感とそれが自殺であるという苦しみに濁っていた彼の、娘に向けるために幾分か和らげていた双眸は、丁度同席する羽目になったバルナバシュの取りなしにあからさまな拒絶をあらわにしたのだ。
『お前がいながら! なにをやっていたのだ。ただ留守居をするだけなら、執事も家令もいるのだ』
言外に不要だと言い放たれて、顔を青ざめさせたバルナバシュはそのまま領地へと戻っていったのだ。
そう。逃げたのだ。
「嫌いよ」
叔父さまもお父さまも。
最後に交わした会話を思い出して、オルドリシュが吐き捨てる。
「いつもいつもあれの肩を持って!」
「肝心な時には、逃げるなんてっ!」
男なんて。
男なんて。
「みんな死んじゃえばいいのにっ!」
からだがつらくなければ、枕に当たっていただろう。
オルドリシュは怒りの持って行き場がないことに、ただただ苛立つのだった。
そう。
オルドリシュが結局いつもゾルターンに相対した後に感じてしまうのは、怒りだった。
彼女が先に父親である彼を見限り、母親とバルナバシュにのみ心を開いたのだ。それでも、実の父親であるのなら、娘の心を慮るべきだとの強い怒りばかりが心の中で煮えたぎるのだ。
だからこそ、オルドリシュとしては父親に相談などしたくはない。
どんな
オルドリシュは他人よりも感情的であるという自覚があった。激昂の挙句何を口走るかしれない自分をよく知っていた。
ともあれオルドリシュは居城しているゾルターンが今何をしているのか何を考えているのかなど全く知りはしなかったし、知りたくもなかったのである。
*****
帰城したその足で、城に入る前にゾルターンは霊廟に向かった。
正確にいうならば、その脇に自生する
彼が手にした細やかな花束が白い花弁を揺らしていた。
「アダルベルト………」
小さく息子の名を呟く。
自殺とあって、彼を一族が眠る霊廟に安置することは叶わなかった。
たとえ彼が息子の自殺を信じてはいなくとも、状況は自殺と受け取られるものであったからだ。
あれから離れに暮らすユーリアは心を閉ざし、何も感じてはいないかのように息をするだけになった。
長年の苦痛を静かに耐えつづけてきた彼女にとって一人息子の自殺は強かな一撃となったのだろう。
ゾルターンは眉間を親指と人差し指とで揉み解した。
墓碑がわりの白膠木の根方に白い花束をそっと横たえる。
その時、ゾルターンの灰青色の双眸が鋭くなった。地面の一部がまるで一度掘り返されたのちに元に戻され踏み固められたかのように見えた気がしたのだ。
手袋の片方を脱ぎ地面に触れる。
やわらかいような気がした。
「まさかな」
希望的な観測を否定するために首を左右に振り踵を返した。
出迎えた
「変わりは」
訊ねることはいつも同じ。返されるのもまた常と変わるまいと思っていた彼に執事長が告げてきた内容に、眉間の皺が深くなる。
声なく首肯く彼に、
「お待ちの方がおられます」と、ことばを繋げた。
それに誰とも約束はなかったはずだと、ゾルターンは記憶を
「客人を先に、後ほどオルドリシュを見舞う」
そういうと、ゾルターンは階段を上って行った。
*****
蛇足的な言い訳
社交界=アリストクラツィエとルビをつけておりますが、アリストクラツィエは正確には貴族社会となります。英語だとファッショナブルワールドが社交界らしいのですが、個人的に違和感がありますので貴族社会の意味であるアリストクラツィエを使用しております。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます