epizoda 2 タイェムストゥヴィ  3




 ゾルターンは執事長ヴラディカが先導した場所に微かに目を見開いた。

 そこが自室につながる応接室だったからである。ここに招かれているということなら、相手は彼に相当近しい人物であるということだ。

 皆無とは言わない。

 立場が立場だけあって、知り合いは多い。しかし、この部屋にヴラディカが通すほどに近しい者となると、勢い数が減る。

 ごく限られた者だけとなる。

 ならば誰だ−−−と、心当たりのあるものを思い浮かべてみるものの、特に思い当たる節はなかった。

 応接室へと足を踏み入れたゾルターンの表情に当惑が浮かぶ。

 窓から外を眺めていた少年が振り返った。

 その腕には生まれてそれほどの日数は経っていないだろう赤子が抱かれている。

 この少年が客だというのか?

 ゾルターンは戸惑い、ヴラディカを振り返る。

 長く彼に仕えてきたヴラディカは莞爾と笑み、掌を上にソファポホヴカを彼に示す。

殿ムイ パネ。こちらはアダルベルトさまでございます」

 なにを巫山戯ヴティプている−−−と、咄嗟に返しかけて止まる。

 見慣れぬ白い髪と色素がないゆえの赤い双眸。しかしそれらの色を、白を金に、赤もまた金へと変えてみれば、そこに佇む少年は紛うことなく己の後継。

 数ヶ月前に亡くした、愛しい、最愛の息子。

 理解した途端背筋を舐めあげたのは、不快な冷たさだった。

 ああ−−−。

 わかってしまったのだ。

「アダルベルト。そなた−−−なったスタヴァー セのだな」

はいアノなってスタル ィセム セしまいました父上ムイ オテツ」と。

 凝りついた部屋の空気を、ぐずりはじめた赤子が砕く。

 赤子をあやしながらアダルベルトは穏やかな表情で父親を見つめた。

「そうか。その子は」

 執事の供してくるコーヒーカーヴァに口をつける。

「僕の息子ムイ シンです」

 恬澹と告げられた内容に見せたゾルターンの口元の引きつりはその日最大のものだった。

 マントルオブロジェーニーピースカルブの上にある時計の秒針が百八十度近く移動しただろうか。

 ゾルターンの口から深いため息が吐かれた。

 目にかかる前髪を払い除け、

母親マトカは」

 当然の疑問を口にした。

 その問いを後悔することになるとは想像だにしてはいなかった。

 誰が、想像するだろう。

「なんだと」

 息子の告げる名前を悪い冗談だと思った。

 否。悪夢だと思ったのだ。

 しかしそれが真実であることもまた、アダルベルトの変わり果てたさまを見れば、その瞳の奥深くにたたえられたものをみれば、疑うべくもないことだった。

 なにがあってそうなってしまったのか。

 語らせることも語ることも辛いものであった。

 それでも知らねばならないのだと、ゾルターンは心をザトヴァルディト鬼にしたスルッツェ

 アダルベルトからだけ聴くことは片手落ちネフェールかもしれない。

 しかし、ゾルターンのアダルベルトに対する信頼は元より絶対のものであったのだ。ミルイーテスヴェ馬鹿デーチゆえの信頼ではない。

「それで、これからどうするつもりなのだ」

 赤子を膝に抱きそのやわらかな手を撫でながら、ゾルターンは訊ねた。

 赤子特有の体温に懐かしさを感じていた。

蘇ってフスキィシェニーしまってからというもの、僕はずっとなにかに呼ばれているような気がしているのです。抗いがたい、本能的な、僕の根源にあるなにかがそれに従えと強く命じてくるのです」

 それに抗いつづけるのも、そろそろ限界なのです−−−と。

 ローテーブルニーズキィストゥールの対面に手を伸ばし、赤子の頭を撫でる。

「おそらくはカパラチアの奥深くからでしょう」

 小さな鼻を優しくつまむ。

 つぶらな緑の双眸がアダルベルトを見返してきた。

「今夜、最後の授乳を終え、向かおうと考えております」

 −−−それが長の別れとなるのは明白だった。

 まだ早い−−−ゾルターンの胸に、押し留めたいという想いが湧き上がる。

 まだ、十二歳だというのに、この父から離れるのか−−−と。

 しかし、口にはできなかった。

 代わりにゾルターンは控えていたヴラディカを手招いた。

 小さく何事かを命じると、腰を折った後、部屋を出てゆく。

 扉が静かに閉じられた。

「カパラチアに赤子連れで行くのか。それはいかな蘇ったフスキィシェニーものであれ厳しかろう。お前さえ良ければ私に引き取らせてはくれぬか」

 ゾルターンの灰青の双眸とアダルベルトの朱瞳とが互いを見交わす。

 秋の陽射しの琥珀に染まった室内に、暫し緊迫の時がながれた。

「孫なのだ。後継として育てたい」

 −−−お前の子であればこそ、他を考えることはできない。

「この子は、僕の子です」

「わかっている」

「あの女がいらない、殺すというのなら、殺させません。僕が拾って育てます。僕のものです」

「わかっている」

 異母姉と言わず、ただあの女というアダルベルトの心を慮るのと同時に、娘、オルドリシュに対する愛情が底をつきかけている己の心から目を逸らす。

「それでも、だ」

 硬い声で、ゾルターンが言う。

 謀られ殺されたその身に、この赤子が重なって見えるのだろう。

 互いになにひとつとして罪のない身であるというのに死へと追いやられた、その境遇がゆえに手放しがたいのではないか。

「お前を呼ぶというその声の主が、この子を迎え入れるとは限るまい。その時、お前はどうするつもりだ」

 捨てるのか。

 邪魔だと縊るのか。

 お前ともども、当て所なく彷徨いつづけるのか。

 生まれて間もない赤子にそんな過酷な境遇を押し付けるというのか。

 ゾルターンのことばに、アダルベルトは首をゆるゆると左右に振る。

「なにも、お前から最後のよすがまでもを奪おうというのではない。この子は、お前と私の縁でもあるのだ。この縁があるかぎり、お前は私に会いにこなければならない」

 忘れずに。

 己の血が何につながっているのかを忘れぬために。

「たといこの先私が死のうとも、お前が一度死んだものとは言えども、このアンブロシュ公爵の血脈なのだと忘れるな。私の息子だと、この子の父なのだと決して忘れるな」

 睨めつけるかのように強く、息子を見つめる。

 顔を上げて、アダルベルトは、口角を持ち上げた。

「わかっています。僕はこの先永久とこしえに、父上の子であるのと同時に、その子の父だと忘れません。決して」

 タイミングよくフチャス戻ってきたヴラディカの手にする銀盆から何かを取り上げる。

 ローテーブルニーズキィストゥールに置かれたそれらに、アダルベルトは手を伸ばそうとはしなかった。

「死んだ身には、不要のものです」

 首を横に振る。

「馬鹿者めが。この父の思いを無下にするでない。餞別だ。私の死後にお前が得るはずであったものに比べれば微々たるものだが、あって困るものではない。いずれの国の銀行からであれ引き出せよう。その名義を名乗るがいい。今は絶えた分家の名だ。旅券も用意させた。お前に必要かどうかはわからぬがな」

 ゾルターンにそこまで言われてなおも己を貫くほど、アダルベルトは意固地ではない。

「父上のお心をありがたくいただきます」

 手を伸ばし、確認する。

 旅券と銀行券とに記された名前を確認する。

「バルトロメイ・ズヴァローグ………これが新しい僕の名前」

「その名で十年後に訪ねてくるがいい」

 思わぬ提案に、アダルベルトはゾルターンを見た。

「この子にもその時、会うといい。父子の名乗りをあげるかどうかは、お前にまかせよう。私はこの子に跡を継がせるつもりだが、結果どうなるかはこの子しだいでかまわない」

 アダルベルトが震える。

「僕は、もはやひとではありえない。化け物ですよ」

 こみ上げてくる涙を、それに伴う熱を、彼は抑えることができなかった。

「それでも、お前は、私の息子だ。アダルベルト・ルドヴィク、いや、バルトロメイ」

 青灰色の一対を涙にかすむ視界に捉えて、バルトロメイ・ズヴァローグの名を得たアダルベルトが深く首を垂れた。

ありがとうデクイーございますムノホクラート

 腿の上に握りしめた銀行券と旅券とにバルトロメイの涙が落ちた。

 ゾルターンは、バルトロメイが落ち着くのを見計らい、

「最後にひとつ、大切なことを決めてほしい」

 感情の昂りを昇華させた後の望洋とした表情をゾルターンに向けたバルトロメイに、

「この子に名を」

 熟睡しているのだろう赤子を軽く撫でながら言った。

「………マヌエレ、マヌエレ・ミクラーシュと」

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