Epizoda 2 タイェムストゥヴィ 1
「困っているこどもと聖職者を見捨てられるおつもりなのでしょうか?」
いきなり殊勝げなことばと態度に取って代わられたところで、本来ならばどうということもない旅人であるのだが、確かに累々と転がる屍が再び動き出さないという確証などないのだ。
何しろ、歩く屍というのはなりたてならばなりたてほど執拗という厄介な存在なのである。
できることならば、完璧にとどめを刺しておきたいというのが人情なのであろう。しかし−−−旅人とて目的のある身である。そうそう道草を食うわけにはゆかない。あらかじめ余裕を持って動いてはいても旅というものは、たった今がまさに”そう”ではあるが、何が起きるか知れたものではないのだ。
だからこそ一度は「断る」と切って捨てたのであったが。
それへの返しが、あの台詞である。
「まったく聖職者というやつは」
思わず本音を口にしてしまうほどに忌々しいと、旅人は聖職者を見返した。
目的はあっても特段急いでいるというわけではない。
十年前の約束など、相手が覚えているかどうか怪しいというのに−−−と、旅人は思う。
それでも、それに囚われている己に、自嘲がこみ上げてくるのを止めることはできなかった。
覚えていて、囚われて、それで逢いに行こうとする自分がどうかしていると思う。だから、それは彼の怯懦が頭を出したが故のことだった。
神父の二度目の頼みに渋々とはいえ首肯づいたのは、そのためだったのだろう。
十年前、まだ少年だった頃のことを、旅人は思い出す。
あれは古い時代から使われつづけている霊廟近くでのことだった。
未だその場所から去り難く、馴染みの
その枝に寝転び空を見上げていたのだ。
深紅に染まった葉の匂いとしんとした大樹の匂いとが混じりあった空気が、彼の胸を満たしていた。
悲しみと絶望とを助長するかのように、黄金の木の紅に染まった葉が微かな音を立てて舞い散る。
彼の心のうちとは正反対に、空は皮肉にも蒼く、そよぐ風にながれる雲は白くたなびく裳裾のようだった。
遠方に見える赤い円錐型の屋根を帽子のように被った白い尖塔は、
その城の住人たちとて滅多に近づくことのないこの場所ににひとの気配がしたのである。
当時はまだいたいけな−−−と、言っても謗られることはないだろう少年であった旅人は、体勢を入れ替えて下を覗き見た。
途端、
「バルナバシュ!」
呻くようにその名を紡ぎかけ、慌てて口を塞いだ。
それは、四十がらみの大柄な男だった。茶色味の強い金髪を撫でつけたいかにもな洒落者を気取っている口髭が、その性格を表している。
豪奢な刺繍の施された絹の服を惜しげもなく着たままで、バルナバシュと呼ばれた男は少年のいる巨木の根本に蹲み込んだ。
なにをしているのか−−−。
見下ろすものの、よく見えない。それほどまでにこの木は巨大であり、この枝は霊廟の屋根の高さを超えているのだ。
微かに聞こえてくるのは、バルナバシュが地面を掘っているらしい音とそれに混じる微かな動物の泣き声のようなものだった。
バルナバシュが去るのを待って、彼は枝から飛び降りた。”あれ”からこれくらい造作もないようになったのだ。
「この辺りだったような」
まだ声変わりしていない少年の声が呟く。
白い髪が風に嬲られ長い前髪の下から血の色のままの双眸が現れた。まだ華奢な指先が掘り返された形跡も生々しい地面に触れた。
そのまま地面を掘った彼が見つけたのは、箱だった。
少年がひと抱えできるほどの
悪趣味なあの男が生きたままで埋葬したのか−−−と、蓋を開ける。
開ける前には、わかっていた。
中にいるなにかの正体など。
それは、まだへその緒もついたままの、血と胎盤も生々しい。
「オルドリシュ」
呪詛を編むかのように、少年は、母親違いの姉の名前を叫んでいた。
その意味を誰かに教えられるまでもなく、彼は悟っていた。
十二歳にしてそちらの方面に聡いのは、彼の生まれの複雑さ故だろうか。そうと生きるよりなかったからなのか。どちらにせよ、まだ少年である彼には、悲しく酷いことであったろう。
くちびるを噛み破るほどに引き結び、彼は赤子を抱いたまま城の方角へと消えていった。
*****
その夜、オルドリシュ・アンブロジョヴァは未だ床から起き上がれないでいた。
十七歳のうら若き公爵令嬢の寝間にしては艶かしさの漂う赤を多用した部屋の寝台のうえに、青白い顔に疲労の色も濃く横たわっている。
安息香の香りが立ち込めている室内は、暗く、寝台横の銀の燭台に立てられた蝋燭だけが光源であった。
灯った炎が揺らめいている。
その揺らめきがふいと大きくなった。
冷たい風にオルドリシュの青白いまぶたが持ち上がる。
豪奢な寝台の上、上半身を起こしたオルドリシュの豊かな栗色の髪が枕のうえにとぐろを巻く。
眠りの中とも現実とも判然としない意識の中で、ぼっと大きな音を立てて蝋燭の炎が伸びあがった。
薄明るい室内に家具の影が踊った。
寝台の帳は束ねられたまま、なんとも言われぬ緊張に囚われたオルドリシュの視界の隅に映る。
ゆらゆらとした炎が次第に激しく踊り狂う。
影が動いた。
オルドリシュはそう思った。
遠い
なにより自分は、きっとまだ夢を見ているのにちがいない。
しかし。
頬を撫でる風の冷たさが、彼女が目覚めていることを問わず語りに教えてくる。
いったいなにが?
まだ下半身が痛む。
あんなものが。
あんな汚らわしいものを産み落としたせいだった。
望みもしなかった、忌むべきもの。
大嫌いな異母弟を貶めるために−−−それは彼の母親を貶めるのと同義であると彼女には思われたのだ。
たった十二歳。
まだ社交界に出てもいない彼の、彼女の母よりもより高貴であった母親似のあの美貌と落ち着きをはじめとしたなにもかもが妬ましく且つ憎たらしく、誘惑した。父親が同じだということなど、問題ではなかった。
なぜなら。
オルドリシュは、彼の母親、かつてその美しさで王国の薔薇と讃えられた、現国王の異母妹の身に降りかかった災を知っていたからである。
オルドリシュの父、ゾルターン・アンブロシュが唯一愛した許嫁であるユーリア・ロートリンジュシュカ。
拐かされ、行方不明となり、発見されたのはとある娼館であったのだという。その流転を、面白おかしく語るものはいない。ただ、ひそやかに、陰で語り合うだけである。それでも、元王女の転落の半生を、貴族のほとんどは知っている。それでいながら、声を大きく語らないのは、現国王がどれほどユーリア王女を慈しんでいたか知らないものがいないためである。
それでも。
オルドリシュは、多くの男たちの慰み者となっていたユーリアをそれでも愛した父ゾルターンが憎かった。
正妻はオルドリシュの母−−−それだけの年月、王女の行方は知れなかったのだ−−−であったというのに、父はユーリア王女をプリュミスル公爵家に迎え入れたのだ。
オルドリシュは、母の嘆きや呪詛を子守唄がわりに育ったようなものだった。
とまれ。ユーリアは、月足らずで弟−−−アダルベルト・ルドヴィクを産み落とした。
オルドリシュの母は、アダルベルト・ルドヴィクはゾルターンの子などではないと、頑なに彼女に囁きつづけたのだ。その生命が儚くなってしまうまで。
そう。
アダルベルト・ルドヴィクとは血など繋がっていないのだ。
あの人形のように美しいアダルベルト・ルドヴィクは、どこの誰とも知れない男の子に違いないのである。
いいや、違う。
母のためにも、そうでなければならないのだ。
ならば、誘惑したところでなにが悪かろう。
五つ年下の美しい少年を自分の虜にすれば、さぞや心地よいに違いない。
そうして、まんまと彼女の手管に落ちたアダルベルトを思うさま蹂躙した。
泣いて嫌がるアダルベルトのさまを堪能しつくした。
所詮は男−−−と、彼女の中にある侮りのままに、肉の快楽に抗おうとして適わず最後には泣きながら腰を打ち付けてくる美貌の少年の様は、オルドリシュにとって憎ければ憎いほど愛しいと思えるものであったのだ。
そうなってはじめて、異母弟を愛しいと思ったのだ。
けれども。
あれは、誤算であったのだ。
まさか、彼の子を妊娠してしまうなど。
*****
章のタイトル「タイェムストゥヴィ」は日本語で「秘密」という意味です。
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