想い人

井上 幸

【短編】想い人

けいくんに逢いたくなった」


ぽつりと放たれた彼女の言葉に一瞬息が詰まる。

卒業を間近に控えた放課後の教室。

クラスメイト達の姿はすでに無く、僕は返却日の迫った本の残りのページを読み進めていた。

動揺を悟られないよう視線は本に落としたまま、殊更ことさらゆっくりと口を開く。


「それはまた、急だね」

「そっかなー? いつも思ってるんだけど」


その声はいつもより少しだけはずんでいて。僕はそっと彼女の表情かおを盗み見る。

それを何と表現すれば良いのだろう。なつかしさと期待、少しの不安と大きな好意が次々と浮かんでは消えていく。

僕は溜息をらさないように、えて冷たく続けた。


「もう、遅いんじゃない? 最後に会ったのって三年も前でしょ」

「むー。たくみはほんと意地悪だよね。圭くんならきっと一緒に会いに行こうって言ってくれるのにー」


むっとした顔でにらまれる。


「僕は圭ちゃんじゃないからね」


奈都なつが会いたいからって相手もそうとは限らないと続ければ、瞳に非難の色が乗る。

けれど僕は見ていないふりをした。本を持つ手に力が入る。

『僕と圭ちゃんは違う』そんな当たり前のことを自分で口にしただけなのに。どうしてこんなにも痛みを覚えるのだろう。

奈都が圭ちゃんに恋をしていたことくらい、ずっと知ってたじゃないか。

圭ちゃんだって ———


「もういい、決めた」


カタン、と音がして奈都が立ち上がる。

何を、とは訊かない。

僕は溜息を吐いて本を閉じた。内容なんてさっぱり頭に入ってこなかった。

ちらりと奈都を見上げれば、期待の見え隠れする眼差しを僕へと向けている。

これを無視できるほどの精神力を、僕は持ち合わせていなかった。


「…… 遅すぎると思うけど」

「! 一緒に行ってくれるの?」


くるりと表情を変え、やったーときらきら輝く瞳に、苦い想いが湧き上がる。

じくじくと痛みだす胸の傷にはふたをして、僕もゆっくりと席を立つ。今度はわざとらしく溜息を吐いた。


「奈都だけじゃ心配すぎて本も読む気になれないからね」

「えー、何その子供扱い! 別に私1人でだって」


じゃあ訊くけど、と奈都の言葉に被せるように僕は問う。


「圭ちゃんの居場所、知ってるの?」


少しだけ語気を強め、視線に力を込めてみる。このやり取りで諦めてくれないだろうかと願いながら。

しかし、返答は予想外のものだった。


「うん。今年も年賀状貰ったし、その住所に行けば逢えると思うんだ」

「は?」


間抜けな声が僕の口から漏れてしまう。


「だから、年賀状の住所!」


キョトンとした瞳で見られるのは何だか居心地が悪い。


「あれ? 拓には届いてないの?」

「…… 僕は書かないから」


ふーん、そうなんだーと言う声を聞きながら、僕はひどく混乱していた。

これまで現実だと思っていた世界が、全く別の次元の物語であったのだろうかと。僕の知らない世界で、奈都と圭ちゃんは幸せな時間を積み上げて居たのだろうかと。

踏みしめていた地面がもろく崩れ落ちていくような錯覚さっかくを覚えた。

だが、そうではない。

現実は、確かに現実だったのだ。


気づくと僕は自分の部屋でベッドに横たわり、混乱する頭で只々ただただ天井を見上げていた。

ふとカレンダーの赤い印が目に入る。

それは明後日の日付、タイミングが良いのか悪いのか日曜だった。

混乱した頭でも、その日付は忘れていなかったようだ。

伝手づてに、圭ちゃんのご両親へ連絡してもらった。

心配そうな母の視線を振り切って、大丈夫だと部屋に引きこもる。


潮時しおどき、か」


こぼれた言葉は誰の耳にも届くことなく空に溶けていった。


それからは努めて普段通りに過ごし、とうとうその日が訪れた。

予想通り、奈都は待ち合わせに遅れてやってきた。


「巧、ごめーん! 待ったよね?」

「だろうと思ったよ。ま、約束の時間には間に合うさ」


僕はこれ見よがしに時計を指差した。


「へ?」

「まさかと思うけど。アポ無しで向かうとか、思ってないよね?」


正しく『考えてもみなかった』という表情で固まる奈都の頭を軽くはたいて改札口へと向かう。

てててっとついてくる弾んだ足音に、何故だか胸が苦しくなった。


目的の場所の近くへと辿り着く。

奈都はそわそわと落ち着かない。僕の半歩後ろを、きょろきょろしながらついてくる。時折不安そうな瞳で僕の横顔をちらちらとうかがっている。

僕は敢えてそれを見ないふりをして先へと進んだ。

最近、いやもうずっと、僕は見ないふりをしてばかりだな。

探していた場所はすぐに分かった。

圭ちゃんのご両親が僕らを待っていてくれたから。


「え? 圭くんのお父さんとお母さん? どうしてこんな所に?」


『こんな所』

周りを見渡せば、四角い御影石みかげいしが整然と並んでいる。

僕はようやく奈都に向き直り、重たい口を開く。


「圭ちゃんは、ここに居るんだ」

「…… え?」


頭の上にたくさんの疑問符を浮かべた奈都の手を引き、行こう、と歩きだした。

理解できないのも無理はない。僕は、いや僕らは今までずっと彼女に隠し続けてきたのだから。

ご両親の居る場所まで辿り着いて手を離す。奈都はしばらく墓石とご両親の顔を交互に見てから、ふらふらとした足取りで墓誌ぼしへと近づいた。

一人ひとりの名前を追う視線が、止まる。


『圭』 ———


刻まれた日付は、一年前の今日。

声もなく、奈都は圭ちゃんの名前を見つめた。

その名前を震える指で辿る。

そっと、確かめるように。何度も、優しく。だんだんと、強く。

ここに刻まれていることが、間違いだとでも言うように。

この文字が消えれば、圭ちゃんに再び逢えるとでも言うように。

何度も、何度も。


「だから、遅すぎるって言っただろ?」


たまらずそう口にした。

奈都の手が止まり、その瞳から大粒の涙が一粒こぼれ落ちた。あとはもう、せきを切ったように。彼女の白い頬を幾筋もの冷たい滴が流れていく。

誰に向かったものかもわからない、少しの怒りと大きな哀しみが襲ってきて、僕の頬にも涙がつたう。

おかしいな。僕はもう飽きるほど泣いたじゃないか。いつまでも枯れない涙に悔しさが込み上げる。

聞いている方が切なくなるか細い嗚咽おえつは、永遠とも思える時間続いていて、圭ちゃんのお母さんがその背中を優しくさすっていた。

僕はただ顔をそむけて、聞いていることしかできなかった。


どのくらい、そうしていただろう。

圭ちゃんのお父さんに肩を叩かれた。

落ち着いた声音こわねで、先に家へ戻っていようと語り掛けられる。

僕は後ろ髪を引かれながらも、その場を後にした。


少し待っていてほしいと言い残し、圭ちゃんのお父さんは二階へと上がっていった。

リビングに一人残された僕は、身をちぢめて柔らかなソファのすみに座る。こぽこぽと音を立てる水槽に泳ぐ熱帯魚、時計の秒針がやけに大きな音を響かせている。

少し奥にはカウンターキッチンが見えて、ちょうどこちらを向くように家族写真が飾られていた。

僕が知っている圭ちゃんの照れくさそうな笑顔がそのままそこにあって。

だからこそ、止まってしまった彼の時間が強く印象付けられてしまう。

また泣いてしまいそうになって、僕は慌てて目をらした。

足音がして、お父さんが戻ってきた。


「圭から預かっていたんだ。これを、君へ」


そう言って僕に封筒を渡して、珈琲コーヒーでも淹れてくるよとキッチンの方へ歩き出す。

その背中に、年賀状はと声にしてしまった。お父さんは振り返ることなく、あの子の願いだったからねとささやいた。


僕は封筒を裏返す。

見覚えのある右上がりの懐かしいくせ字に視界が揺れる。

できるだけ丁寧に封を切った。


そこには僕に対する謝罪と感謝の言葉がつづられていた。

余命宣告を受け、僕や奈都には家の事情とごまかして、大きな病院のある街へと引っ越したこと。

一年と少し前、僕にだけ最期に会ったこと。

僕の気持ちを知っていて、自分の想いを託したこと。

奈都にはなるべく隠してほしいと願ったこと。

最後は、我儘わがままを聞いてくれてありがとう、と結ばれていた。


ぽたり、と音がして、僕は慌てて手紙を遠ざける。

いつの間にかお父さんが近くまで戻ってきていて、僕にティッシュを渡してくれた。

そっと手紙に落ちた水滴をぬぐいとる。

圭ちゃん、本当にこれで良かったのかな。


玄関の方でガチャリと鍵の開く音がした。

お父さんは僕の肩をぽんぽんっと叩いてから、静かにリビングを出て行った。

会話がかすかに聞こえてくる。

奈都は、大丈夫だろうか。

そうだ、僕はこんなことで立ち止まってちゃいけない。

圭ちゃんと最後に話をしたあの日、僕らは約束したんだ。

どんなことがあろうとも、二人で奈都のことを守るんだって。絶対に、幸せにしてやるんだって。


だから、僕は前を向く ———



******


↓診断メーカー様より


「だから遅すぎるって言っただろ?」そういって少し怒ったように泣く。

そんな幸の、悲しくなるかもしれない話のワンシーン。

#shindanmaker #そんなワンシーン

https://shindanmaker.com/580997


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想い人 井上 幸 @m-inoue

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