第9話 この世界で


 それからも、二人の旅は続いた。





__________






 ある時はビザント王国内の観光名所として有名だった、水平線の彼方まで続くような巨大な湿原に行ったりした。


「ここは道のぬかるみが激しいので、注意してくださいね」

「シルヴィア、前」

「え?……って、うわわわわわわわっっっ?!?!」


 言った側からぬかるみにはまり泥まみれになったシルヴィアを見て、瑛人は腹の揺れを抑えるのに必死になった。


「遊歩道がちゃんと用意されているので、ここなら安全です。珍しい動物も生息してるので、よく見てみてください。例えば_____ほら、あそこに!」

「何だあれ……カエル?トカゲ?……跳ねてるくせに尻尾ついてるぞ……?」

「あれは『クロン』っていう動物の一種『ハネクロン』です。足に弾力の強い肉球があって、それを使ってあんな風に跳び回るんです」

「へぇ……爬虫類?両生類?」

「……『はちゅうるい』ってなんですか?」

「生物の区分が違うからそういう分けられ方がないのか……不思議だ」


「見てください!ずーっと向こうまで続く大湿原ですよ!」

「すごいな……日本にもこういう場所あったっけ。ラムサール条約とかなんとかで……」

「瑛人の暮らしていた国の名前は『ニホン』というのですか?」

「うん。島国で、お米が美味しい国だよ」

「お米、ですか。この世界だと大陸北部の亜人国家とか、北西部にある列島地域の国でしか食べられませんね。私も食べたことがないです」

「それはマジでやばい。人生損してる」

「そんなにですか?」





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 ある時は、古い遺跡が残る古い街に行ったり。


「ここはウスティーリャ遺跡と言いまして、千年以上前の、ビザント王国が生まれるよりも前にあった国の遺跡です」

「やっぱ歴史はどこの世界にもあるよな……ビザント王国っていつからあったんだ?」

「今から八百年前ですね。中央諸国全てを束ねるような大国があったんですが、その国が滅亡したことで国が今の形に分裂しました」

「なんで滅亡したんだ?」

「『覇王』という、強大な力を持ったこの世界の支配者の怒りに触れたのだとか」

「……『覇王』っていうのは、魔物か何かか?」

「いえ、あくまでも通称であるため、人間にも魔物にも覇王はいます。国際情勢を変えてしまうだけの強大な力を持っている者たちの総称ですね。覇王は複数名いるのですが、そのうちの一人の怒りを買っただけで大国が滅ぶほどです」

「そりゃとんでもないな」


 遺跡は大昔のものとは思えないほどに精巧な建物が並んでいたが、ところどころで大きく破損している箇所があった。それが、国が滅んだ時の名残なのだろう。

 それにしても、『覇王』とは余程すごい存在のようだ。聖騎士といい、この世界にはたった一人で国を壊滅させるような怪物が何人もいるらしい。それは元の世界との大きな違いと言えるだろう。


「あそこの噴水に硬貨を投げ込むと、硬貨の分だけ幸せが巡ってくるらしいですよ!」

「トレビの泉かよ……」

「一緒に投げてみませんか?」


 シルヴィアが持っていた硬貨は、使い慣れた十円玉や百円玉とよく似ていた。通貨制度も、この世界はしっかりとしているらしい。

 二人で通過を泉へと投げ入れ_____各々で、願い事を胸の内に描いた。





__________





 ある時は、国の象徴にもなるような高い山にも登ったり。


「この山……ウルトゥールル山って言うんです……けど……!ビザント王国の……象徴のような山で……標高は……5000メートル近くも……あります……はぁ……」

「大丈夫か?」

「適時……祈術で疲れは取ってるので……登れますけど……はぁ」


 尚、現時点で標高1000メートル付近だ。頂上まで登ろうと言ったのはシルヴィアだが、もう既にかなりバテている。


「無理するなよ。高山病になる」

「うぅ……それに……想像よりも寒いですね……うぅ」


 高地を吹き付ける風は凍えていて、みるみると体温を奪われていく。地元の街で調達した厚手のコートを着込んでいるが、それでもシルヴィアにはかなり応える寒さだろう。

 瑛人は、不思議なことに何の疲れも寒さも感じなかった。寒いことは分かるが、だからといって体が震えるようなことはない。超人とやらに覚醒したせいだろうか。


「そういえば聞いてなかったけど、祈術って何?あと、呪術も」


 ふいに、こんな便利に使える祈術が何なのか聞きたくなった。異世界だから魔法があってもおかしくはないと思っていたが、シルヴィアが使う祈術を見ている限り、火を出すとかそういう派手なものはなく、機械を動かしたりと実用的な使い方ばかりだった。


「祈術や呪術は……元々『魔法』と呼ばれていた、魔族が始素を行使することで使うことのできる術を、人間に扱えるように作り替えられたものです。

 はぁ……『祈術』は、善良な心に基づく祈りの心によって生み出された、神聖な力を持った始素を使って起こす術です。使いこなせるようになれば、火を起こしたり水を凍らせたりすることにも使えます。

 対して……『呪術』は、人を呪い憎む心から生まれた始素を使って行使します。術の使い方は祈術とさほど変わりありませんが、術としての強さは呪術の方が強い場合が多いのです。使い過ぎると自分自身をも呪うことになるので、使うことが推奨されることはありません。聖導教においては、邪悪な術として扱われます」

「ふむ。でも、ビザントにも呪術を使う奴らはいたよな?」

「……彼らは、聖導教には秘密で王国が有していた戦力です。これはまぁ、どこの国でも同じですね。表向きは祈術師をようしていますが、裏では強力な呪術師を多数抱えています」

「なるほどな。確かに、人道的にも良くなさそうな術だしな」

「……そうですね」


 瑛人に戦いを強いたのも呪術だ。自分自身を呪ったことに対してはさしたる反応を見せない瑛人を気遣いながら、シルヴィアは慎重に話す。


 標高も徐々に高くなったものの、徐々に空気が薄くなってくる。それでは、常人であるシルヴィアには登山が難しくなるだろう。いくら祈術があるとはいえ、疲労が溜まるのは良くない。

 この調子では、頂上に着く前にシルヴィアがダウンしてしまうだろう。そう考えた瑛人は_____大胆な真似に出た。


「シルヴィア、今すぐに高山病対策の祈術使ってくれ」

「え?わ、分かりました」


 シルヴィアが服装を整え、自分に高山病から防ぐ祈術_____正確には、気圧の変化が神経系に伝わるのを防ぐ術_____をかける。

 それが済むと_____一人でに、体が浮いた。


「え、ええっ?!」


 目を開くと、瑛人が自分を抱えて猛スピードで山を駆けている。気圧の変化を防げたのはいいのだが、次は瑛人の走る速度に酔いそうになった。

 そして何より_____いきなり密着した体勢を取られたことに仰天している。頭に血が上り、耳が赤くなる。高山の寒さなど関係ないほどに。


「ちょ、ちょ、ちょっと!瑛人、何をしてるんですか?!」

「このままじゃ登るのに何日もかかるぞ。動かないでくれ」


 超人となった今の瑛人の身体能力は、常人の数十倍に及ぶ。人が歩ける道などお構いなしに、大きな岩の柱を跳び移り、深い崖を一っ跳びで超えていったりなどが簡単にできる。


「きゃああああああああああああっっっっっっ!!!?!!!」


 下に視線が行ったことで底が見えないほどの崖の底を覗いてしまい、思わず悲鳴が出る。肌を吹き付ける風は相当な速さだが、突き刺すような痛みは感じなかった。途中から気づいたのだが、瑛人が無意識のうちに垂れ流している始素によってシルヴィアは保護されていたのである。おかげで、急激に標高が高くなっても気分が悪くなることはなかった。 

 最初の方は絶叫を繰り返していたが、次第に慣れてくると瑛人の頼もしさが心地よく、そのままずっと抱えられていたいとも思うようになっていた。目まぐるしく変わる風景にも慣れ、むしろ迫力満点の光景が見られるようになってきた。

 それは瑛人も同じである。力が強くなったおかげで、これまでできなかったようなことに簡単にチャレンジできるようになり、行きたいところに自由に行けるようになったのだ。この時の二人は_____世界で誰よりも、自由に生きていた。


「瑛人!見てください!雲です!雲が下に!」

「見えてる見えてる!すごいな、雲が早く動いてるよ!それよりあそこ!めちゃくっちゃ反ってる崖がある!登ってみるぞ!」

「ええええっっ!あれ登るんですかっ?!無茶です!死んじゃいます!」

「大丈夫!」


 車もかくやという速度で走ることで助走をつけ、そこから勢いよく急斜面を駆け抜けていく。斜面の角度が四十五度を超えてからも、瑛人の走りは続く。そのままさらに登ろうとしたが、顔のすぐ横でシルヴィアが絶叫しながら、思い切り首にしがみついて引っ張られたことで、体勢が崩れた。


「……あっ」


 やばいと思った時には時すでに遅し。崖を駆けていた足は地面を虚しく滑り_____壁面に衝突するとまずいと思った瑛人が崖の地面を思い切り蹴ったことで、二人は空中に身を投げることとなった。落下する感覚によって、今度は瑛人も絶叫を上げるが_____いつしか二人の声は、絶叫から笑い声になっていた。


「うふ、あははは!」

「はは、あははは!」


 何もかもがおかしくて、二人はお互いを見つめながら笑った。

 シルヴィアの祈術と瑛人の頑丈な体のおかげでなんとか無事に落下できたものの、二人はそのまま雪の上に転がることとなる。見上げた空は、雲の上にあるおかげで見たこともないほどに澄んでいる。 

 二人はその光景に感動しながら、雪の上で仰向けになりながら、しばらくの間落ちている時の続きのように笑っていた。


 そうしてしばらくすると、頂上に辿り着いた。見渡す限りの絶景が広がり、ビザントの大地を一望できる。太陽が沈みつつある西の方角を見ると、地平線の彼方にうっすらと海が見えた。


「なぁ、あれ海かな?」

「はい、海ですよ。西にまっすぐいけば、ランドル海という広い海に出ます」

「……行ってみたいな」

「私もです!」


 そうして何度目か分からぬほどにまた二人は目を合わせ、意見があったことを笑いあった。夕焼けの日が頬を照らし、標高5000メートルの高さでも仄かな暖かさを感じることができた。

 そうして二人はちょうどいい大きさの岩に腰掛け_____まだ夕日が出ているうちに下山することにした。





__________





「見えてきましたよ!」


 車の車窓を眺めると、遠くにうっすらと海が見えてきた。瑛人は島国の日本に住んでいるので海は身近な存在なはずだが、海を見るとやはり感慨深い思いになる。やはり海には何か、人を魅了するものがあるのだろうか。

 今乗っている車は、放棄された軍事施設から拝借したものだ。ちなみに、動力には瑛人の始素を使用している。燃料が用意されていなかったため、自前で用意するしかなかったのだ。


「なんか燃料にされるってやだな……」

「仕方ありません。それに、始素を失っても、休んでいれば勝手に回復していきます。運転はやりますから、後ろで休んでいてください」


 運転をしてもらえるのであれば仕方がないと思い手を貸すことになった。最初、始素を抜かれる感覚は一度体験したことのある献血に似たようなものかと思ったが、血液を抜かれるよりもずっと強い喪失感を味わうことになり、思わず気絶しそうになる。そこまで大量の始素を取ったわけではないが、慣れていなかったので気分を悪くしてしまったのだ。そこからは、ずっと車の後部座席で外を眺めている。


 海野すぐそばには砂浜もあった。近くに適当に車を停め、そのまま海へと向かった。久しぶりの海に心が躍ったが、瑛人よりもシルヴィアの方がはしゃいでいた。


「あははは!瑛人、見てください!綺麗な貝殻です!」

「見たことない色だな」

「ヤドカリです!ヤドカリが動いてます!」

「こっちの世界にもヤドカリいるんだ」

「こっちこっち!ウミトラがいます!」

「ウミトラってなんだ……?」


 後で見てみたが、ウミトラとはかに海老えびに似た生き物らしく、八本の足を持ち、ギョロリとした目が特徴的だった。さしづめ、目がついたダンゴムシとでもいったところか。案外可愛かった。

 海は穏やかな波が打ち続け、足を入れると水の冷たさを感じることができる。海辺の周辺にはカモメのような海鳥もおり、鳥の鳴き声を聞きながらしみじみと、瑛人は異世界の海を堪能することにした。

 _____と思ったが、いきなり顔に水がかかった。横を見ると、膝のズボンをまくり海に入っていたシルヴィアが水をかけてきたのだ。口に水が入ると、お馴染みのしょっぱい味がする。

 

「スッキリしましたか、瑛人」

「…………」


 瑛人はそのまま何も言わずに、思い切り水面を踏んづけた。超人の脚力で踏みつけられた水面は勢いよく形を変え、大きな水飛沫を生んだ。その水飛沫は容赦無くシルヴィアに降りかかる。


「きゃああっ!しょ、しょっぱい……!」


 シルヴィアはあたふたと水を避けているうちに、水中に転がっていた石につまずいて転倒してしまった。


「おいおい……」


 急いでシルヴィアの元に駆けつけると、シルヴィアは思い切り尻を水面につけ、服のほとんどがびしょびしょに濡れてしまっていた。


「いててて……」

「気をつけろよ。この砂浜、意外と石が多くて_____」


 手を差し伸べシルヴィアを立たせ、言葉を続けようとして、自然と目がシルヴィアの濡れた全身に行ってしまった。


「…………っっっ〜〜〜〜!」

「……えっと……」


 シルヴィアが来ているのはビザント王国の役人が身に着ける制服であるため、水に濡れたからといってすぐに透けるようなことはない。しかし服自体が重いため、水を吸うと_____服がずれてしまうのだ。

 ずれたことで、シルヴィアの首から下_____胸あたりまでの白い肌が思い切り露出してしまった。


「あわわわわわ……ご、ごめんなさい……!」

「…………」


 色々なことがあったとはいえ、瑛人とてまだ一人の男子高校生。歳が近い女子のはだけた姿を見せられては、流石に色々と意識せざるを得ない。このままシルヴィアを着替えに行かせることにし、とりあえずシルヴィアの先を歩いていこうとしたが____


「……あっ」


 足に何か大きなものが突っ掛かり、瑛人もシルヴィアを笑えないほど盛大に転ぶこととなった。顔面が思い切り水面を強打し全身が水に沈む。


「え、瑛人?!」


 ガバリと起き上がると、全身が重くなったことを感じる。身に纏っていた簡素な布の塊はズブズブに濡れてしまった。

 そしてこれまたシルヴィアを笑えないほどに恥ずかしい格好になっている。布の一部が外れてしまったことで、右肩と右の胸あたりが完全に露出してしまった。中途半端な露出という共通点を抱えた二人は、山登りの時のように笑いあったりすることなく、二人ともやや顔を赤らめて近くにあった小屋に向かった。ここで二人は、はしゃぎ過ぎたことを反省することになる。





__________






 小屋で着替えた後、ちょうどいいからそのまま海辺にあった小屋で夜を過ごすことにした。海風が吹いているが、あまり寒くはないおかげで過ごしやすい環境であった。焚き火の側で火の温もりを感じながら、二人はぼんやりと時を過ごす。


「……海、楽しかったですね」

「……ああ」


 海だけではない。ここ数日は、まるで夏休みを楽しむ子どものように、無邪気になってあちこちを観光した。花畑が広がる大きな庭園、巨大な湖とそれを横断する美しい吊り橋、見たことのない生き物や植物が生きる原生林など。元の世界にすら負けないほどの、本当にたくさんの景色を見た。

 _____そして、本当に美しいものも。


「……瑛人」

「……なんだ?」


 ここまでに経験したことは、本当に価値のあるものだった。瑛人にとっても、シルヴィアにとっても。

 だから、それを失いたくないと、瑛人もシルヴィアも思っていた。


「これから、どうしますか?」

「…………」


 失いたくないからこそ_____それが失われる未来を、憂うしかない。瑛人は、不安を滲ませたシルヴィアの問いに、すぐには答えなかった。

 シルヴィアが質問をしてからしばらく経った後_____ようやく瑛人が答えた。


「……そうだな。どこか……静かなところに行こう」

「……静かなところ、ですか?」

「ああ。ここみたいに、海が近いところがいいな。……人が来なさそうな、穏やかな場所で……人が住めるくらいの、小さな小屋があるんだ。そんなところに行きたい」

「……行って、どうしたいんですか?」


 二人は、顔を合わせることもなく会話を続ける。目はずっと焚き火を向いていて、部屋は静寂に満ちていた。だが、二人の間には、言葉を交わすよりも多くの情報がやり取りされている。


「……………………そこに、家を建てて暮らしてみたい」


 ポツリと告げられた瑛人の言葉は_____遠くを見ているようで、それでいてすぐ目の前に告げられているようだった。


「……そこに住むってことですか?」

「うん。そこで魚を釣りながら、海の波の音を聞きながら、静かに暮らすんだ」


 瑛人の脳裏に浮かぶのは、南国の海の穏やかな光景である。砂浜がついていて、波の音以外に何もない場所である。果たして、そんな場所はこの世界にもあるのだろうか。


「…………いいですね。それ」

「……シルヴィアも、そういう生活は好きか?」

「ええ、憧れます。私は、ずっと人がたくさんいる王都で暮らしてましたから……開放的な場所にずっと行ってみたかったんです」

「…………そうか」


 瑛人も、日本という人口の多い国で、常に人に囲まれながら暮らしてきた。たくさんと人と過ごすのは楽しかったが_____今もまた同じような生活が送れるかどうかでいえば、おそらく無理だ。もう、戻ることなどできない。平和に暮らすことが前提の世界で、人を殺すことに快楽を覚えてしまうような人間が生きる隙間などないだろう。

 ならば、誰もいないところに行けばいい。誰もいないところで、誰かを殺すことなく生きていたい。静かな孤独こそが、今の瑛人の望みだった。

 _____いや、違う。正しくは_____


「なぁ、シルヴィア」


 _____孤独、は正しくない。孤独が好きかどうかでいえば、好きではないのだ。自分が好きなものは_____


「二人で一緒に暮らさないか?」

「…………………………………………え?」


 唐突すぎる言葉に、シルヴィアは思わず思考を停止させられた。理解できないからではなく、理解できるが故に。


「……もう俺もお前もこの世界の敵だ。いつか必ず_____俺は誰かの裁きを受ける。それは聖騎士の連中かもしれないし、バンジかもしれない」


 顔がカァッと熱くなりそうなシルヴィアだったが、瑛人が静かに紡いだ言葉を聞いて、思考を落ち着けた。


「……でも、君と過ごした日々は楽しかった。生まれて初めて、本当の意味で楽しいと思えたんだと思う。だからさ……もうこのまま、二人で静かなところへ逃げないか?いつか誰かが俺を殺しにやってくる、その時まで」


 そういう瑛人の目は、今でもシルヴィアではなく焚き火を向いている。それが一層、瑛人の決意の強さを際立てていた。

 

「…………」


 シルヴィアも、瑛人の言わんとしていることは分かる。目を背けていた現実を、改めて直視しなければならないだろう。

 聖騎士_____イルト・ランバーレッドは、シルヴィアを瑛人の共犯者として定めた。なぜあの時逃がしてくれたかは定かではないが、次はもうないだろう。瑛人が殺される時、おそらくシルヴィアも裁きを受けることになる。

 そしてその時は、おそらくそう遠くない。今この瞬間にも瑛人の居場所を突き止めて聖騎士たちがやってくるかもしれない。聖騎士でなくても、瑛人を殺すことを誓ったバンジが再びやってくるかもしれない。終わりの時は、いつだってすぐ側にあるのだ。だからこそ_____時が止まったような場所に行きたいという気持ちが、より一層強まっだのだろう。


「…………瑛人、ちょっと散歩に付き合ってくれませんか?」


 考えを決めたシルヴィアは、瑛人の手を取り、外へと向かった。





__________






 二人は砂浜を歩いていた。それも、海に向かって。シルヴィアがまた海に入ってみたいと言うためである。


「海に来ると、夜が星が綺麗ですね……」


 上を見上げると、日本にいた時では絶対に見ることのできないような、満点の星空が広がっている。国家そのものが崩壊したことで、明かりを灯す家屋がなくなったことも影響しているのだろう。所々の星の配置は元の世界と異なるようだが、星空が与えてくれる感動は本物だった。瑛人は足が水に浸かりながら、シルヴィアは海風でなびく髪を押さえながら、その星の光景に見入っていた。


 しばらくすると、シルヴィアがどんどんと海の中を入っていく。シルヴィアは服が濡れるのも気にしないように、寝巻きをめくらずにどんどん浜から離れていく。瑛人もその後を追った。

 追いつくと、シルヴィアが瑛人の手を握った。まるで、命綱を握るかのように、深く。


「おい」


 瑛人が呼び止めても、シルヴィアは止まらない。仕方ないので、瑛人は強い力であえてシルヴィアの手を握って引き寄せた。


「何を考えてるんだ」


 その時、既に海水は二人の胸あたりにまで迫っている。もう少し進めば、完全に水の中に入ってしまうだろう。シルヴィアは、ここまで迷わずに進んでいた。


「…………瑛人」

「俺たちはもう長くない。だが人間ならいつか必ず死ぬものなんだから、それが早くなるだけだ。それがなぜ、今死のうとすることになる」


 シルヴィアは今も海の向こうへと行こうとしているが、瑛人の力がそうはさせまいと強く手を握る。


「…………いいえ、違います。私は本来……もう既に死んでいるはずの人間です」

「……どういう意味だ」

「一度目は、王都の広場で。二度目は、あなたと再会した街で。私は既に二回、あなたに殺されかけています」

「だからどうした」


 瑛人は今でも、シルヴィアが自分を召喚したことを許していない。そして自分がビザント王国の王都で大暴れし大量の人を殺したことに対する許しを乞う気もない。だから、自分が殺しかけた話を聞いても、まるで他人事のようにしか反応できない。


「ですが、死に損ないました。私は本来、あなたに殺されているべき人間です」

「…………」

「でも、あなたと旅をして、本当に楽しいことがたくさんあって……私は今、とっても幸せな気分なんです」

「…………なら、なんで」


 なぜ、幸せだというのに死ななければならないのか。


「私たちが殺される時は、タダじゃ済まないでしょう。世界そのものの敵として、できる限り惨たらしく殺されるはずです」

「そうだな」

「私には…………あなたがそんな目に遭うなんて、耐えられない」


 シルヴィアが瑛人の手を握る力が強まる。まるで何かにしがみつくかのように、強く、強く。


「こんなに穏やかな日々を過ごしているのに……この日々がある日突然壊されると思うと…………そんなことが起きてしまう未来が、眠れないくらいに怖いんです」

「…………シルヴィア」

「だったら…………このまま穏やかなまま死んでしまいたい。この静かな海の中で、誰にも知られないまま」


 シルヴィアの瞳が、瑛人の瞳をしっかりと見据える。

 _____その瞳に浮かんでいるのは悲哀と恐怖と、微すかな切望で。

 _____その瞳に浮かんでいるのは芽生え始めたかすかな切望で。


「……それじゃダメだ。バンジとの約束を破ることになる」

「……そんなの…どうだっていいじゃないですか……?なんで自分が死ぬ約束を、あなたは守ろうとしてるんですか……!その約束は……私たちのこの日々を裏切らないといけないくらい大切なんですか……?!」


 シルヴィアの瞳から流れた雫を、海が何事もなかったように受け止める。水の冷たさは、瑛人とシルヴィアから熱を奪いつつ、それでいてその熱を優しく抱擁していた。


「……自分たちだけで楽に死のうとするなんて、悪い奴だな」

「ええ、そうです。人をたくさん殺しておいて、自分だけは幸せになろうとしてる。私は、本当に悪人なんだと思います」


 シルヴィアは、何の迷いもなく、自分を殺戮者だと肯定した。

 海の波は、一際強く二人を引き込もうと、流れを変えて二人を底へと誘い始めた。それに抗うかのように、瑛人は足をより強く踏み込む。そのままではシルヴィアも流されそうだったので、シルヴィアの背中に手を回して抱き寄せた。


「…………悪いけど、俺はこれ以上進めないよ。まだ死にたくないし、殺される時までは生きていたい」

「……ダメです。じゃあ、瑛人だけ戻ってください」

「ダメだ」


 引き離そうとするシルヴィアを逃すまいとより強く腕に力を込める。シルヴィアはそれによって顔を瑛人の胸に密着させることとなった。海の中でも力強いその温もりに_____思わず涙が溢れる。


「うぅ……うっ……うああぁぁぁぁ…………」


 それは、物心ついた時から一度もしたことのなかった、声を上げての鳴き声だった。瑛人の肩を掴みながら、嗚咽を瑛人にぶつけるように、思い切り泣いて、

思い切りわめいた。


「……シルヴィアが死んだら、俺は残りの時間を楽しく過ごせない。俺の我儘わがままに付き合わせちゃうけど……死にたくなっても、俺のために生きていてほしい」


 泣きじゃくるシルヴィアを、岸の方へと引っ張っていく。シルヴィアは、海から完全に出るまで、嗚咽をあげ続けていた。

 二人の距離は、完全なゼロになっていた。いつしか手を繋ぐのも当たり前になり、感情的な意味での距離も完全にゼロになっていたと思う。


 濡れた服を絞るが、塩水で濡れた服と体からは変な匂いがする。改めて体を洗いに、隣の小屋にあった水浴び場へと向かった。奇跡的に貯水庫の水が残っていて、体を洗うことができた。

 体を洗ってからは代わりの服を着て、小屋へと戻った。星の瞬きは、その後も長い間二人を照らしていた。





________






 朝日に照らされ、目が覚める。陽の光だけではなく、波の音も目覚めにちょうどいい。ぐったりとした体を起こし、服を着て水を口に含んだ。

 隣では、シルヴィアが今もすうすうと寝息を立てていた。昨日言いたいことを言ったおかげか、憑き物が取れたかのように、心地の良さそうな寝顔をしている。

 瑛人はその寝顔にそっと手を添え、銀色に輝く前髪を撫でる。


 この小さな少女からは、本当に多くのことを教えてもらったし、見せてもらった。その経験は、瑛人にとってはかけがえのないものになっていた。


 _____だからこそ、決意する。



(_____俺は)


 何よりも強く、強く。こう決意するのだ。



(_____彼女だけは、必ず守ってみせる)



 



 


 

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