第6話 殺したくない


 光が見えた。


 光は、手を伸ばしても届かないほど遠くにあった。


 俺は足場のない暗闇の中、何かに浮いているようだった。いや、落ちているかもしれない。浮かんでいるかも落ちているかも分からないが、とにかく地面に立ってはいなかった。


 俺は光に近づいているようだった。光が大きくなっているわけではないが、少しづつそれが明るく感じるようになっていたからだ。


 手を伸ばす。手はいつも通りの変わり映えしない肌色のままだ。

 自分の存在を確かめるように、手で体のあちこちに触れる。すると、左腕の付け根から、何やら熱いものが流れ出しているのが分かった。

 いや違う。正しくは、遠くにある光から熱いものが、左腕の付け根を通して俺の中に入っているのだ。うっすらと見える線が幾重にも重なり、俺の中に入ってくる。

 線から伝わる熱さは、あまり心地のいいものではなかった。まるで電気がそこを通っているような、あるいは飛び散る火花を肌で受けているような、そんな熱さだった。

 ちょっと痛いので、線のようなものを引きちぎろうと掴もうとするが、その線はどうやっても千切れなかった。柔らかくて、それでいて絶対に引き離せぬ頑丈さを持っていた。


(これは……何だ?)


 まるで自分の体の一部かのようなその線は、次第に輝きを増していった。繋がれた俺の左腕の付け根に、先ほどよりも強い熱が通る。その熱は左腕の付け根に止まらず、次第にそこから先の体の部位にも到達して_____


 ついには俺の脳髄にまで達し、その瞬間俺の意識が落ちた。





__________






「_____っ……!」


 目が覚めた。一瞬で視界を覆った暗闇と、ほのかに頬を照らす光に気づいた。

 視界がクリアになる。照らしてくれていた光は、炎の光のようだった。灯籠の炎のようなそれは、使い慣れたLEDの電球に比べれば儚い灯りだが、暗闇の中に灯る安心感は格別のものだ。


「目が覚めましたか」


 横から声がかかる。どうやら自分はベッドで寝ているようだ。目を向けると、長い銀髪を垂らし、もう一つのベッドに腰掛ける少女がいた。聞き覚えのある声だった。


「……君は」

「右腕の動きは大丈夫ですか?」


 そう言われて何のことかと思ったが、すぐに自分の身に起こった出来事を思い出した。

 強大な力を持つ鬼の男が襲ってきたこと。直後に、さらに強い力を持った仮面の騎士に追い詰められたこと。

 そして、右腕を切断されたことも。


「_____っ?!」


 思わず右腕に意識を向ける。本当なら、自分はあのまま失血死で死んでいたか、その前に騎士の剣で斬られて殺されていたのではあるまいか?

 だが、腕はなぜか元のままになっていた。だが、腕から流れ出る血の感触は、今でも覚えている。あれが夢であるとは思えない。ということは_____


「私が祈術で治しました。ですが、完璧な治癒ではありませんので、しばらくは無理して動かさないでください」


 誰かが、治してくれていたのだ。恐らく、切断面を祈術でもって縫合したのだろう。腕の神経はしっかり通っていて、細かな指の動きにも問題はない。


「……ははっ、なんでもアリなんだな、祈術って。_____俺を召喚できちゃうくらいだもんな」

「……私のことは覚えていましたか」

「ああ、声と雰囲気が同じだ。名前は_____シルヴィア、だっけ」

「はい、シルヴィア・アールウェインです」


 起き上がると、体のあちこちに包帯が巻かれ、傷の手当てがなされていた。戦いの中で背負った傷はこの一ヶ月ずっと放置していたが、そんな細かい部位にも処置を施してくれたようだ。

 シルヴィアは、俺の問いかけに答えるだけであり、目を向けても自発的に喋ることはなかった。一ヶ月も人の顔を見ていないと人の表情の機敏に疎くなってしまうと思っていたが、どうでもなかったようで安心した。思い詰めたようなその表情は、炎の光に照らされていて、前髪に照った光が作る影の線が、まるで涙を流しているように見えた。


「……君が助けれくれたのか」

「結果的にはそうかもしれませんが、私にあの騎士を追い返すほどの力はありません。なんとか説得して引き下がってもらいました」

「アイツを引き下がらせたのか……すごいな」


 戦った感じ、あの仮面の騎士はそんな簡単に引き下がる甘い相手ではなかった。命乞いをしても、一切躊躇ためらわずに敵を殺すタイプの相手だろう。そんな恐ろしいやつを引き下がらせるとは、一体何をしたのか。


「……君は、ビザント王国の人?」

「はい。ビザント王国の宰相の娘であり、王国に使える上級祈術師です」

「王国はあの後どうなった」


 俺がいる場所は、これまで頼りにしてきた地図を見るに、恐らくビザント王国の辺境域の街だろう。その街が誰もいないもぬけの殻である以上、国がどうなったのかの状況はある程度理解できる。だが、それを自分の頭で理解するだけではなく、誰かの口に言って貰えば確証を得ることができるだろう。


「……王国は完全に崩壊しました。国王陛下を含む政権中枢を担う方々が全て死亡し、統治能力が完全に失われたのです。王国民の多くは北部にある他国に移民として流れています。空白地帯となった南部には、徐々に王国南部に生息していた魔物が進出を始めました」

「…………」


 シルヴィアは、自分のことを王国宰相の娘だといった。統治能力がうしなわれたということは、恐らくは彼女の父親も_____


「父を殺めたかもしれないと思っているのであれば、心配無用です。あなたに呪術をかけたことを決定した人物の中には、私の父もいました。父があなたに殺されるのは、当然の報いと言えるでしょう」

「……いや、そうじゃなくて……」


 もしそうなら、この少女は今親の仇の目の前にいるのだ。俺に対してどんな感情を抱くかなど、想像に難くない。


「私があなたを憎むとでも思っていますか?とんでもありません。あなたは被害者ですし、呼んだのは私です。私にあなたを責める権利などほんの僅かも存在しません」

「……そうか」


 今でも、。我ながらイカれていると思うが、事実だ。でも、目の前の少女が自分を憎むようなことは、嫌だと思っている。人を殺したことに対しては無頓着であるにも関わらず、大切な者を殺された者に対する思いやりは残っている。矛盾した考えを持っていることに、今更ながら気づいた。


「……私が、憎くないですか?」


 シルヴィアが始めて自分から口を開いた。声は今にも消え入りそうなくらい、清流が流れる音のように静かだった。


「あなたを召喚することを国王陛下に提言したのは私です。異世界召喚による召喚であれば、通常の召喚よりも遥かに強い人物を呼び出せるだろうと考えました。そして、祈術でもって召喚の術を行使したのも私です」

「…………」

「その後、どんな結末が待つか考えもせずに、私は己の自分勝手故にあなたを殺戮者にしてしまった。こことは違う世界で、幸せな生活を送っていたはずの、あなたを」


 脳裏に、前の世界の記憶がよぎる。

 優しくユーモアに溢れた父と母、可愛げ満点な妹と弟がいた、家族の記憶。

 常にはしゃぎ回り、学校中の騒ぎの中心として常に一緒だった、友達との記憶。

 告白のために徹底した準備をしていた、好きだった人の記憶。

 それが脳内に溢れて_____


「__________っっっっっっっっっ!!!!!!」


 二度と取り戻すことができなくなってしまったその思い出に、火が灯る。

 火は俺の胸の内で轟々ごうごうと燃え上がり、我慢できない衝動となって体を突き動かした。

 気づいた時には、俺はシルヴィアの首を掴み、ベッドに押し倒していた。


「ぐっ……!」


 シルヴィアが苦悶の声を上げる。逆らえぬ力で首を絞める手を何とか振り解こうとするが、既に人間の域を超えた俺の腕をいくら掴もうが、ビクともしない。足がバタバタと動き、長い銀髪が広がってベッドの縁からこぼれそうになった。


「はぁ……はぁ……!」


 息が上がる。心拍が激しく動き、顔面に血が昇っているのが分かる。もう、冷静な気持ちになどなれなかった。いつ以来か忘れた、強烈な劇場だけが、俺の体内を高速で循環している。


「……ああ、憎いよ。めちゃくちゃ憎いさ。俺がズタズタにした奴らのように、今すぐに挽肉ひきにくにしてやりたい……!そうすりゃ、このクソみたいな気持ちも消えるはずだろうからさぁ……!」


 より一層、絞める腕に力を込めた。シルヴィアの細い音は、メキメキと音を立て始める。意識を保つのも難しくなったのか、抵抗する力が弱まっている。口からは唾液が、目からは涙が溢れ、俺の手先に伝った。


「がっ……あっ……」

「俺の家族がどんな人間か分かるか?!俺のダチがどんな人間か分かるか?!俺の好きな人がどんな人間か分かるか?!分かんねぇだろうなぁ、クソがっ!!!」

 

 涙が溢れるのは俺からもだった。体の中で荒れ狂う熱を逃すための汗であるかのように、ボロボロと溢れるそれは、シルヴィアの整えられた軍服に染みを作っていく。

 もういっそ、このまま殺してしまおう。これまでもそうしてきたのだから。ちょっとでもイラついたやつを殺せば、頭痛はおさまったのと同じように、この熱い気持ちをさせるこの女をズタズタに引き裂けば、同じく熱も消えてくれるはずだ。


「……フゥッ……フゥッ……!」


 指先に力を込め、もはや風前の灯火となったシルヴィアの命を刈り取らんとする。

 _____力が入らない。むしろ抜けていく。

 腕にかける体重を重くし、このまま圧死させようとする。

 _____重さがかけられない。むしろ次第に軽くなっていく。

 握力を強め、このままシルヴィアの首の骨を握り折ろうと試みる。

 _____握力が抜けていく。絞めていた首が、再び呼吸を取り戻す。


 _____結局、俺の手はそのままシルヴィアの首から離れていった。


「ゲホッ、ゴホッ……ゴホッ……はぁ……はぁ……」


 飛びかけていた意識をなんとか引き戻し、閉じられていた気道を取り戻したシルヴィアは、激しい呼吸によって咳き込む。呼吸と心拍が荒く、自分が今まさに生命の危機にあったことを体中が訴えかける。

 俺はシルヴィアの体にまたがったまま_____静かに嗚咽を漏らす。もうそれしか、胸の内を暴れ回るものをしっかりと排出する方法が思いつかなかった。


「……ちくしょう……ダメだ、それは絶対にダメだ……」


 頭を支配していた熱と高揚感に変わり、じんわりと染みる熱が頭の中に入り込んでくる。


「もうこれ以上……殺したくない……!殺したくない……!殺すのは……もう嫌だ……!」


 己の手で今この瞬間、殺しをしようとしていたにも関わらず、紡ぎ出された反対の意味の言葉。ワナワナと震える手で、顔を伝う水滴を払おうとするが、水滴はとめどなく溢れてくる。

 シルヴィアのベッドから離れ、自分のベッドに力なく座り込む。

 _____俺は今、確かにシルヴィアを殺そうとしていた。それは何も、シルヴィアが憎かったからじゃない。憎いと感じるのは本当だが、それ以上に、『憎いやつなんて殺せばいい』という声が自分の心から聞こえたから、という理由が大きかった。


「……あの日から、ずっとそうだ。誰とも会わなかったから消えたと思ったけど、そんなことなかった。『殺せ』って声が消えないんだよ。『ムカつくから殺せ』『イラつくから殺せ』『邪魔だから殺せ』『敵は殺せ』『憎いなら殺せ』_____こんなんばっかだ……」


 その言葉を言われただけなら、断固として抗うだろう。だが、俺は既に知ってしまっている。目の前にいる邪魔なやつを、何の躊躇いもなくズタズタに殺すことの爽快感を、楽しさを_____!


「殺すのが気持ちいいんだ。骨を剣で砕くとスッキリするんだ。溢れる血を見ると気分が高まるし、転がる臓器を見ると安心してしまうんだよ……!でも……それからはずっと悪夢みたいにその時のことを思い出して……思い出す度に吐くんだ」


 シルヴィアは、ベッドに横たわり息を整えながら言葉を聞き続けた。首を絞められた時は思わず抵抗したが、本当は瑛人に殺されようとも構わないと思っていたのだ。 

 だが、殺されなかった。シルヴィアはぼんやりとする頭のまま、横たわったまま瑛人の言葉を聞き続ける。


「……俺は多分、これからも生きている限りずっと何かを殺し続ける。人も、魔物も、関係なく全部殺そうとしてしまう。それは嫌だけど……でも、殺さないと俺が殺されちゃう……」


 瑛人の告白は、単なる罪の告白ではない。腹の底よりもさらに奥から絞り出した_____なけなしの、微かな思いも、含まれている。


「俺は死にたくない……。でも、殺したくもない……!もう元の世界に戻れなくたっていいから……俺は何もせず生きていたい……!」


 瑛人の悲痛な声が、小さな部屋の隅々にまで響く。

 シルヴィアは横たわり上を見上げたまま、瑛人の告白を聞き続けた。


(……私が、彼に共感することなんて出来ない。そんな資格はない)


 シルヴィアには、瑛人が失ったものなど見当もつかない。当たり前にあったはずの幸せを、ある日突然奪われ、生き地獄を味わされることなど、理解できるはずがない。ましては瑛人の苦しみを肩代わりすることも、ほんの僅かな幸せを与えることもできない。孤独に生きてきた人生は、誰かを救う術など少しも教えてくれなかった。


(……でも、私は彼を助けたい。力になりたい。……例え殺されたとしても)


 資格のあるなしと、果たすべき義務は関係のないことだ。できなくとも、やらなければならないことなど、この世界にはいくらでもある。

 シルヴィアは起き上がると、瑛人にそっと近づく。項垂れた瑛人の顔色は、流れる涙のせいでひどい有様だ。

 こんな顔をしている人にしてあげられることを、シルヴィアは一つだけ知っている。慰めの言葉をかけることでもなく、一緒に泣くことでもない。


 _____涙の熱さとは異なる、人間の温かさが瑛人の体を包んだ。


 腕を瑛人の背中に回し、項垂れた瑛人の顔を胸に当てる。そうすることしか、シルヴィアは知らなかった。


「……もう、大丈夫です。誰も殺さなくていい、誰にも殺されなくていい。あなたのことは、私が守ります。あなたの苦しみを背負うことはできないけど……せめて、あなたと一緒に罪を背負うくらいならできます」

「……無理だ。俺はもう正気を保ってられない。またすぐに、君を殺そうとするぞ」

「いいんです。あなたに殺されることくらい、最初から覚悟してます。……それに、もう私、立派な犯罪者ですから」

「……なんで」

「あなたが戦っていた聖騎士に逃してもらうとき、こう言われました。私はあなたの逃亡を幇助した罪で、処刑対象にするって」

「……!」


 自分が処刑対象になるのは分かる。散々人を殺したのだから、当たり前のことだ。だが、シルヴィアまでもが処刑対象となるのはおかしい。聖騎士というのがどれくらい偉いのか知らないが、そんなふざけた冤罪までかけることができるのか。

 いや、もしくは_____


「君は、それでいいのか」


 シルヴィアが、自らそれを認めたのか。


「はい。願ってもありません。このまま知らぬ顔してるくらいなら死んだ方がマシです」


 笑いながら言うシルヴィアだが、その声は本気だった。本気で、命を懸けるつもりなのか。

 _____この、血に塗れた殺戮者に。

 信じがたいその決意に、思わずシルヴィアの抱擁を突き放す。


「……馬鹿なことはやめろ。君のことを俺と同じ目に遭わせる気はない」

「さっき、私のことを憎んでるって言ったじゃないですか」

「ああ、そうだな。でも、こんなやり方でやり返したいわけじゃない」


 今でも、この美しい少女のことは憎い。でも、決して一緒に逃げて欲しいわけでもないし、同じ殺戮者になって欲しいわけでもない。


「君と逃げるのは御免だ。今のハグで十分元気になったから、ついてくるな」


 シルヴィアの肩を掴みベッドに座らせる。そしてそのままドアを開けて出て行こうとするが、その手をシルヴィアが掴む。 

 もちろん、すぐに振り解こうとした。だが、シルヴィアも負けじと掴んでくる。


「ダメです。一人は寂しいでしょう?」


 シルヴィアは、決して強く掴んでいたわけではない。瑛人なら、簡単に振り解くことができる程度の強さでしかないのだ。だが、瑛人がシルヴィアを振り解かなかったのは_____シルヴィアに言われたことに、言い返せなかったから。


「……あなたが本当はいい人であることを知ってるのは、もう私だけです」


 それは逆らうべき誘惑だというのに、振り解くことができない。シルヴィアの手の温もりが、振り解くことを許してくれない。

 その温もりを求める孤独な気持ちが、許してくれない。


「……………………………………………………はぁ」


 またまた溢れそうになる涙を必死に抑え_____俺は、シルヴィアに引っ張られてベッドに座らされた。


「……堪忍しましたか」

「もういい、知らん。勝手にしろ」

「堪忍しましたね。良かった」


 俺は、いつかきっとこの誘惑に耐えられなかったことを後悔するだろう。

 それでも_____この少女の笑顔を見れたことだけは、後悔しないと断言できる。


「あ、すみません。そういえばあなたの名前を聞いていませんでした」

「…………ああ、そういえばそうだっけ」


 思えば、久しく自分の名前など使っていないのだ。多分、漢字で書けと言われたらもう書けない気がする。己を識別する名を呼ぶのは、この世界で彼女が初めてだった。


葉村瑛人はむらえいと。あ、この世界だったら瑛人・葉村になるのかな。葉村が苗字で、瑛人が名だ」

「なるほど、では瑛人と呼びますね。よろしくお願いします」


 久しぶりの、名前で呼ばれる感覚。いちいち色んなことにジーンとさせられてしまい、思わずまた涙が溢れそうになる。

 

「うん……よろしく、シルヴィア」

 

 二人はその後、支度をしてから部屋を出た。





__________





「…………」

「…………」


 部屋を出たはいいものの。

 運の悪さか、はたまた待ち構えられていたのか。

 

 昨日戦った妖鬼が道を塞いでいた。


「出たな、異世界人」

「……気配の正体はあんただったか。外から俺らのことを観察してたろ」

「そんなストーカーみたいなことしねーよ。なんか事情あってその嬢ちゃんと話してたみたいだからな。巻き込まないようにしてやったんだよ」

「そりゃどうも」


 妖鬼は刀を抜き、瑛人はすぐさま荷物を地面に置いて拳を鳴らし始める。


「……あの、もしかして戦うんですか?」

「戦うしかないだろ。アイツ、俺の首取って晒しあげたいって言ってたし」

「よく覚えてるじゃん」

 

 出発早々、大きな試練である。しかも、この鬼は強そうだった。


(なんてエネルギー。恐らくは妖鬼、それも最上級の貴族級だ……!)

 

 妖鬼というのは、人類圏においてはドラゴンと並んで警戒される最上級の魔物なのだ。最上級のものであれば脅威度が4に達し、小国一か国と同等級の軍事力が必要になるほどの強さを持つ。

 それに_____目の前に立つ鬼の姿は、どこかで見たことがあるような気がしている。


「……あれ、もしかしてあなた、『紅蓮鬼ぐれんき』ではありませんか?」

「流石俺、よく知られてるみたいだな。そうだ、俺が例のそれだ」


 バンジは自信満々に胸を張る。殺気立った鬼らしからぬその自信の持ちように、瑛人は思わず首を傾げる。


「……誰?」

「『紅蓮鬼』バンジ。魔物の中でも最上級に強いとされる妖鬼、その中でも特に戦闘能力に優れた貴族級です。妖鬼は魔物の中でも知性に優れているので、魔物にとっての守護者のような役割なんです」

「へぇ……」

「その中でも彼は特別で、人間とも友好的であることで有名です」

「あー……そんなこと言ってたような」

「聖導教は魔物を敵視していますが、全人類が魔物と敵対しているわけではありません。中には魔物に有効的に接する人もいるので、そういう人を彼は保護しているんですよ」

「じゃあいい奴かな?」

「どうでしょう……?癖毛を指摘したら髪の毛を燃やされたとか、自分の悪口を言った人が喋れなくなるように殴ってあごを外したとか、激情家であることでも有名です」

「じゃあ、悪い奴だな」

「……いや、なんでそうなるんだよ。てゆーか脚色がひどいな!髪の毛を燃やしたのは元々髪型が爆発してる奴だし、悪口言った奴を殴るのは当たり前だろうが!」


 他にも、シルヴィアが知っているバンジの噂は他にもある。力が強くて酒のジョッキを乾杯で割ってしまったり、人間のトイレ作法がよく分からず女子トイレに入り込んでしまったり、高級菓子のアイスクリームを出したら温まろうとして店ごと燃やしたりなど_____どれも、『恐ろしい魔物』という言葉とはかけ離れた噂ばかりだ。



「とにかく、いきなり襲いかかってくるような魔物ではありません。まずは会話を試みましょう」

「……分かった」


 バンジはこちらに踏み出してこないが、その気になれば一瞬で距離を詰め、容赦なく俺の首を斬るだろう。油断はできない状況であった。


「おい鬼。悪いが、やっぱり俺は死ねない。あんたの目論み通りにはいかないんだ」

「そうか。別に関係ないけどな。この場で殺せばいい」


 バンジの口調は軽いが、発する圧は本物だ。シルヴィアは、初めて目にする圧倒的な力に、思わず体が震える。

 だが、瑛人は怯まなかった。


「今は俺一人じゃない、味方がいるんだ。戦ったら勝つのは俺だぞ」

「安心しろ、俺は負けなしなんだ。聖騎士ペアが相手でも負けねぇし、お前らくらい余裕だ」


 バンジの自信は本物だ。瑛人とバンジを比べた場合、有する始素の量は同程度である。だが、技量には大きな違いがあった。

 バンジは長きに渡って剣技を磨き続けており、戦闘技能が非常に高い。また、人間の賢さと強さもよく知っているので、例え格下相手でも油断しないのだ。こうした用心深さを備えているからこそ、バンジは無敗の記録を作り続けている。

 瑛人は力は強いものの、戦いなどほとんど経験がない。感覚にものを言わせて戦っているだけであり、技能はほとんど皆無に近いのだ。シルヴィアという味方がいるとはいえ、お互いが本気で殺し合った時の結果はあまりいいものにはならないだろう。


「……なら、交渉だ」

「……瑛人?」

「……?」


 力量を見定めた瑛人は、バンジの動向を注意深く観察しながら、交渉をすることを決めた。


「おい待て、交渉の余地はないはずだが?俺にお前を逃す選択肢はないぜ」

「いいや、その選択肢こそが最適だ」


 今の瑛人とシルヴィアにとって必要なことは、とにかくバンジに引き下がってもらうことだ。その後のことなど_____二人は、何も考えていない。


「俺を殺して首を晒せば、確かに魔物は喜ぶかもな。でも、それで根本的な解決にはならない」

「知ってる。そこから先は俺の役目だと思ってるが」

「もったいないと思わないか?こんなに都合のいいやつが、今後も現れてくれるとは限らないぞ」

「……?何が言いたい」


 バンジは冷静な思考を持っているが、どこまでいっても鬼なのだ。あまり気は長くない。


「簡単だよ」


 だが、次に出た瑛人の言葉には、バンジといえど冷静にならざるを得なかった。


「まだまだ足りない。今よりももっと_____俺が悪い奴になってやる」

「瑛人、それは_____」

「今の俺は、人間にとっても魔物にとっても大悪党だ。でも、まだあんまり強くないから、晒す首としては格が低いんじゃないか?」

「…………お前」

「だから、もっと悪い奴になって、人間と魔物の共通の敵になってやる。俺がうんと悪い奴になった時_____もう一回殺しに来い。そうすりゃ、お前の理想にも叶うはずだ」


 瑛人の提案は、バンジの願いを最大限に叶えてくれるものだ。

 現状、魔物の憎しみは今すぐにでも矛先を向ける相手がいなくてはならない水準に達している。そんな中で、人類との共通の敵を作ることができれば、どうなるか。

 魔物の憎しみは人類に向かず、人類の敵に向かうことになる。そうすれば、一時的とはいえ、のだ。

 だが_____それはつまり……


「……いいのか。お前はもう、単に魔物の敵として晒し上げられるだけじゃ済まないぞ。未来永劫、人間からも魔物からも、この世界全てに憎まれ、はずかしめを受け続けることになる」

「そうだな」

「……悔しいとは思わないのか。嫌だとは思わないのか」

「嫌だね。でも、今アンタが見逃してくれること比べればどうってことない」


 瑛人は、こう言っているのだ。

 今この瞬間を生きることができれば、未来のことなどどうでもいい、と。


(……なんていびつな奴だ。刹那のためなら、永遠の辱めすらいとわないだと?狂ってやがる)


 瑛人の申し出は、あまりにもバンジにとって都合が良すぎた。それが、かえって不気味に感じる。


「それに、アンタになら任せられそうだ。優しい奴みたいだし、死んだ後も名誉を守ってくれるだろ」

「…………」


 瑛人が見せたものは、バンジが辿り着けないところにあった。

 それすなわち_____この世界全てを敵に回す、狂気的なまでの覚悟。


(人間で言えばまた二十年も生きてないだろうに……それでいて、俺よりも肝が据わってるのか、コイツは……!)

 

 そんな瑛人に、バンジは少なからず_____嫉妬していた。

 自分がついぞ持つことのできなかった覚悟を、簡単に持っている少年に。


「……お前、名前は」

「葉村瑛人。葉村が苗字で、瑛人が名だ」

「瑛人、誓ってやるよ。お前がウンと悪い奴になった時_____必ず俺が、お前を殺す」

「……重たい愛の告白だな」

「……やっぱ今殺そうか」


 気づけば、夜が明けようとしている。うっすらと差し込む光がバンジの後ろから伸び、瑛人の顔を照らした。


「嬢ちゃんの名前は」

「シルヴィア・アールウェインです」

「シルヴィア、コイツが変なことをしないように頼む」

「……分かりました」


 陽の光が、同時にシルヴィアをも照らす。今の二人の目には、一片の曇りもなかった。


「ならさっさと行け。次会った時が最後だ」


 そう言って、バンジは姿を消した。





__________





「さて、どうしましょうか」

「……腹が減った」

「じゃあ、どこかで動物を狩るしかありませんね」

「うわっ、めっちゃサバイバル」


 二人は、並んで街道を歩いている。

 シルヴィアの提案で、まずはとにかく西に進むことにした。疲れは溜まったままだったが、昨日までとは異なる道行きだった。なぜなら、シルヴィアがいる。

 この少女が何を考えているかなど、どうでも良かった。今はとにかく、一秒でも長く孤独から解放された喜びに浸っていたかった。

 久しぶりに、瑛人の顔には普通の表情が灯るようになっていた。それは学校で友人とくだらないことをした時のように、妹や弟のいたずらを受けた時と同じように_____穏やかで、和やかな表情だった。


 横を歩くシルヴィアも、なんだか元気があった。ルンルンとステップしながら、瑛人の前を進む。揺れ動く銀色を見ながら、瑛人は密かに決意する。


(_____いつか、この子を、必ず_____)



 _____二人の旅が、始まった。





 


 


 

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