第4話 妖鬼と聖騎士
もはや生命の名残すら消え失せた、とある街の一角にて。
ここがどこなのかは分からない。東に向かって歩いたので、もしかしたらルートとビザント王国の国境付近の街なのだろうか。
錆びれた街の中で僅かに残っていた食べ物を漁り、偶然発見できた水場で体を洗ったり、人の生活の名残が残る家屋に入って眠りに入ったりを繰り返しながら、一ヶ月が過ぎた。
何か恐ろしいものに襲われることもなく、ただ時間だけが過ぎていった。当然だが、誰かと会話をしたりはしていない。例え会話できる存在がいたとしても、恐らく無理だろう。
体を洗う中、しきりにゴシゴシと体中を洗ったこともあった。眠りに入れない中、羊を五百匹くらいまで数えたこともあった。
だが、拭えない。自分に染みついた死の香りは、一向に消える気配を見せない。それはたまらなく不快だったが、同時に生きていることを実感できる感覚でもあった。
一度、もううんざりだと考えて自刃しようと考えたこともあった。そこら辺を適当に漁れば刃物の一つや二つは簡単に見つかる。
だが、それをする気にもなれない。やっぱりまだまだ死ぬのは怖いと思うし、やり残したこととかがいくつもある。腹一杯になるまで満漢全席を食うとか、札束のプールに入ってみたいとか、そういったことが頭の中に浮かんだ。
_____浮かぶ度、吐き気を催した。お世辞にも美味いとは言えない、この世界のパンを丸ごと吐き出した。
自分はなんと、皮膚の厚いやつなのだろう。これほどまでに血生臭く、孤独だというのに、一体何を望んでいるのか。
向こう側の世界で何を望んでいたかなど、とうに忘れてしまった。ここに来る前、自分が何をしていたかも忘れてしまった。そうしているうちに_____自分が誰なのかも、うろ覚えになってきている。
適当な椅子に腰掛け、もう一度自分という存在を確かめる。それをしていないと、自分が本当に存在しているのかを確信できないでいた。
_____名前は葉村瑛人、恐らく十七歳。性別は男で、女が恋愛対象。
続いて、自分の体を見る。ここ一ヶ月で、自分の肉体に大きな変化があったことを確認していた。
_____特別得意なスポーツはないし、トレーニングを積んでいたわけでもない、平均的な男子高校生の体つきのはず。だけど、最近はやたら腕が太くなってて、腹回りの贅肉が少ないように感じる。どれだけ歩いてもほとんど疲れることがないし、軽く片足で跳べば建物を飛び越えることだってできてしまう。
最初の頃は自分の力の強さに驚くこともあったが、最近はもう慣れてきた。五感も研ぎ澄まされていて、空を飛ぶ鳥の羽の枚数や、遠くで鳴いている鳥の羽数を数えることができたりする。
以前、広場で強い力を持った十一人の人間と戦った時、彼らから感じた『圧』のようなものについても、最近は理解できるようになっていた。自分からも同じものが流れているし、感覚を凝らすと大気中にも微量ながらそれと同じものが漂っていることが分かる。少し力を入れると、力を入れた部位にその『圧』のようなものが集中して、一気に力が高まることもあった。
向こうの世界にいた時にこんなものは見なかったので、この世界特有の現象なのかもしれない。
そして次に、自分の精神に目を向ける。自分が今何を考えているのか、自分はどうしたいと思っているのか。
(_____倦怠感、倦怠感、倦怠感。とにかく疲れて、疲れて、疲れた。安心できるようになりたい______寂しい、孤独だ、誰かと話したい、触れたい_____諦観、冷笑。もう何もかも手遅れだ______憤怒、の感情はない_____)
瞑想を終えると、いつもと同じ眠気が襲ってくる。ここ一ヶ月は、まともに寝れていないのだ。目を閉じれば、いつだって血と肉の香りと感触が自分に覆いかぶさってきそうだったから。
「__________ん?」
不意に、妙な気配を感じて立ち上がる。ここ一ヶ月感じることのなかった感覚がす る。その感覚は、どこからともなく自分に近づいているようだった。
ボロボロの布を纏ったまま、とにかく高い場所へと移ることにした。高いところに行けば、目視でのその気配を探れるかもしれない。
建物の上で再び感覚を研ぎ澄ますと、僅かに空気に漂う力の流れに変化があった。じわじわと、その気配は近づいてきて_____
「死ねっ!!!」
次の瞬間、気配の持ち主が横から猛スピードで突っ込んできた。刀を振り抜き、立っていた家屋を一刀両断にする。凄まじい切れ味に驚くが、今はそれどころではない。とにかく距離を取りの家屋の屋上を跳び回る。
斬りかかってきたのは、以前戦った者たちより、さらに強い『圧』を滲ませ、鬼気迫る表情でこちらを見据える男の姿だった。その頭部には立派な角が生え、大きな体からは力が漏れ出ている。
「……鬼?」
その姿は、物語で目にするような『鬼』そのものであった。刀を持ち、憤怒を浮かべた表情の恐ろしさも、目にした『鬼』そのものである。
鬼は自分の攻撃が外れたことを気にせず、すぐに次の行動に移る。刀を構えた瞬間、その姿が消え失せた。
(早い……次に来るのは____)
鬼は瑛人の立つ家屋の前に立ち、そのまま上を見上げて刀を振るった。
「
神速で振り抜かれた刀からは、青い色の炎が立ち込めた。炎は一瞬にして斬撃となった家屋を木っ端微塵に砕く。瑛人が立っていた場所には、もはや何も残っていない。間一髪でそれを跳躍して躱すが、鬼に男はすぐさま追いつき、刀を振るう。刀の動きを目で追うことができるようになったおかげで、とんでもない速さのその動きを見切ることができるようになったのは、強くなったお陰だろうか。
「ちっ……ちょこまかと……!」
どうやらこの鬼は、俺のことを激しく憎んでいるようだ。最初から一切躊躇いのない太刀筋、そして防御・回避・反撃のことを考慮せずに前のめりになっている攻撃の姿勢からして、激情に駆られていることが分かる。
それが少し、以前自分が切り裂いた者たちに似ていて、少しだけイラッとした。鬼は刀を振るうのをやめ、左手をかざして何か唱えている。
「もう逃さん。
鬼が唱えると、周囲に炎の輪がいくつも出来上がり、周りを囲むようになった。俺を逃さず、ここで仕留めるためだろうか。
「……はぁ」
もう、この鬼に思うところなど何もない。こいつも、所詮は自分の前に立ちはだかった敵だ。敵をどうしたらいいかは、一月前にたっぷりと習った。
「……最後に聞いておきたい。お前は、召喚された英雄なのか?」
鬼は、漏れ出る殺気を隠さないまま、問いをかけてきた。話す気はなかったようなのに、一体何を考えてのことだろう。
「……そうらしいな。運悪く異世界に召喚された、どこにでもいる男子高校生だよ」
「……異世界に召喚だと?……まさか、貴様は『異世界人』なのか?」
「へぇ、そっか。こっちだと俺が『異世界人』なのか」
それに、この世界では『異世界』という存在が実在するものとしてあるらしい。この鬼も、俺を召喚した時にいた術師も、俺が異世界から来たことを大真面目に話していた。
「……学園のマドンナに告ろうとしてたら、なんか知らぬ間にこっちにいたんだよ。笑えるよな」
「……貴様を召喚したのは、ビザントの術師か?」
「知らねぇよ。呼び出したのはそっちだろうが」
久しぶりの会話だったからか、思わずどうでもいいことまで思い出してしゃべってしまった。告ろうとしていた女の子の名前は_____何だったっけ?
「そうか。ではこちらの世界の人間が失礼をしたな。だが、だからといってお前を許すわけにもいかんのでな」
「そうだろうな。お前魔物ってやつだろ?やっぱり、俺のこと嫌いか?」
「ああ、憎い。仲間を何人も殺されてるし、同じ国の同胞も何十万と殺された。絶対に許せない。だが、お前が理不尽な目に遭ったことも理解した」
「……へぇ」
ずっと襲いかかってくるもんだからこのままどっちかが死ぬまで殺し合いを続けると思っていたが、存外に会話の通じるやつだった。仲間を殺された憎しみの元凶を目の前にしても、こうして会話できるのは、非常に優れた精神の持ち主なのだろう。
「お前が自分を召喚した人間まで皆殺しにしたところを見るに、大方呪術で支配でもされていたんだろう。それで、あんなに大暴れしたわけだ。ならばルートの魔物たちが恨むべきは、お前ではなく既に殺されたビザントの連中ということになる。だがな、それで魔物たちの憎しみが消えるとでも思うか?」
「……何が言いたい」
「魔物たちの、人間に対する憎しみはもう限界に達している。今すぐにでも人間を殺したくてウズウズしてるやつが大勢いるんだ。そいつらはビザント王国が滅んでも大人しくなることなどない。自らの手で人間を叩き殺さなければ、絶対に収まらないだろう。_____俺は同胞にそんなことはさせない。人間と魔物が一緒に暮らしていける世界に、憎しみを持ちませはしない。
だから、お前の首を晒すことで、魔物たちの憎しみを霧散させる。自分たちを殺した人間の首を見れば、彼らの憎しみも薄れる」
鬼の言うことは、大方筋が通っていた。確かに、このままでは人間を憎む魔物たちが、再び人間に対して戦争を仕掛けるかもしれない。この鬼の男は、人間との戦争をしたくないからこそ、人間の象徴になりうる俺を殺すことで、魔物たちの憎しみをある程度解消しようとしているのだろう。
確かに戦争を起こさないためには、俺を殺す必要があるだろう。だからといって、むざむざ首を差し出す気にはなれないが。
「……あのな、今から殺しますって言われて、むざむざ殺されると思うか?一応、俺だって死ぬのは嫌なんだけど」
「ああ分かってる。これは俺なりのケジメだ。俺は人間とは仲良くしたいと思っていてな、あんまりお前を殺したいとも思ってないんだ」
「じゃあ_____」
「だが、これは俺がやらなきゃいけないことだ。お前ほどの強者を殺せる魔物は、俺くらいしかいないだろうからな。だから悪いが_____ここで死んでくれ」
鬼は言葉を終えると、周囲を囲む炎をより一層強め、最後の一撃となる構えを取った。刀を鞘にしまった状態からの、抜刀術。それが俺を殺すための最後の技なのだろう。逃げられない状態で、俺を一撃で仕留めるつもりだ。
「……はぁ」
久々に、腹の奥から込み上げるものがあった。ここ最近空理返し続けてきた吐き気とは異なる、流れ出るマグマのような熱いものが。
「……いい加減にしろよ」
鬼と同じく、瑛人も鬼をすかさず殺す気でいた。言葉を交わす訳でもないし、相手に言い聞かせる気もない。だが、この言葉をここで口にしたいという衝動が、それらの意志を上回った。
「なんで俺が、こんな目に遭わなきゃいけないんだ!!!」
この世界に落ちてから、初めての激情。
その激情に応じ、全身から力が噴き出す。噴き出した力を拳に集め、鬼を迎え撃つ。鬼も応ずるかのように動き出し、流麗な動きで刀を抜刀しようとする。鬼の刀が俺の首を、そして俺の拳が鬼の頭へと向かい______
突如、間に割り込んだ光によって、斬撃と拳は弾かれることとなった。
「「?!?!」」
瑛人と鬼は即座に反応してその場から跳躍する。次の瞬間、対峙していた屋上の遭った家屋のが光に飲まれて崩壊していった。
「やれやれ、例の異世界人がいると思ったら……こりゃ妖鬼じゃないすか。しかも戦闘身分の。厄介だなぁ」
「関係ありません。標的の異世界人と、脅威度4に匹敵する上位の妖鬼が揃っているのであれば、まとめて処理すべきでしょう」
「……お前たちは妖鬼を。私が異世界人をやる。いいな」
「「了解」」
「……聖騎士か!」
鬼の男は白い甲冑を身につけたものたちを見るなり、露骨に顔を
「うわ、あいつアレですよ、『
「戯言を。どんな魔物であれ、我々の敵ではありません」
鬼の男_____バンジと相対することになったのは、ジオとフェリスの二人である。二人が抜いた剣は光り輝き、そこから溢れんばかりの始素がこぼれ出ている。
「ちっ……魔物殺しの剣か」
「あんたの刀だって、神聖な力に対する特攻効果持ってるでしょ。バレバレだぜ」
聖導教の教えとは、神の存在する世界への回帰を謳うものである。そのために、人類が一丸となって神の世界への回帰を祈る必要があるという教えだ。そのため、教会には祈りの力を使う祈術に関する教えが多数存在しており、祈術に対する信仰も生まれている。
だが、その中に魔物は含まれない。魔物の多くは、祈術を使えないためである。強き者に従うという絶対のルールが存在する魔物には、存在するかも分からない神の世界への回帰という考えがまるで理解できないのだ。そこから、人類を庇護する聖導教と魔物の関係は悪化し、現在では完全な敵対関係となってしまった。魔物は人類の敵であるとされ、脅威度に分けられ発見し次第処理されるようになってしまったのである。
並の人間では叶わない強力な魔物や、中には一国の軍事力に匹敵する強さを持つ魔物もいる。そういった強大な魔物に対処するのが、聖騎士の重要な役割なのだ。それ故に、魔物を滅ぼす力を纏った剣を使うこと求められる。
魔物殺しの剣を携えたジオとフェリスは、一切躊躇のない動きで、すぐにバンジの目の前に現れた。あらかじめ避ける気満々だったことが幸いし、跳躍することでそれを回避するが、戦い慣れた聖騎士はこの程度では終わらない。
「
フェリスが唱えると、周囲に纏ったドーム状の光が包む。
「魔物の出入りを封じる結界です。ここで諦めたらどうですか?」
「逃さないってか。本当にセコい奴らだよ、全く……!」
かつて聖騎士と戦った経験のあるバンジは、その異常なまでの強さをよく知っている。人間でありながら上位の魔物以上に強大な始素量を有し、魔物を殺すことに特化した数々の術を使うその戦い方は、まさしく魔物殺しのエキスパートそのものだ。
「俺は人間とは仲良くしたんだがな。聖騎士は魔物の言葉なんて聞いちゃくれないか」
かくして、バンジとジオ&フェリスの戦いが始まる頃、瑛人は全身を白い鎧に包んだ聖騎士_____イルトと対峙していた。
(これは……やばいな)
妖鬼とかいう種族の男_____バンジが来た時にも強い力の波動を感じていた。だが、その力の圧は自分には及ばない程度のものであり、本気で戦えば大きな損耗もなく倒せると考えていた。
しかし、目の前の鎧の騎士は違う。白い鎧から発せられる圧力は、他の白い騎士や妖鬼などとは比べ物にならないほどに強い。この世界に来てから初めて出会う、自分よりも強い圧倒的強者であった。
「貴様が召喚された異世界人か。なるほど、強いわけだ。召喚されたばかりで既に『超人』、それもに覚醒しているとはな」
「ははっ、殺す気満々じゃねぇか」
鎧の騎士は穏やかに言葉を紡義、そよ風のように軽やかに地面を歩くが、そこから漏れ出るのは禍々しさを滲ませた強力な殺気だ。今の瑛人の目には、騎士の周囲の空気が騎士の発する圧力によって
「一体どうやって呪術から逃れた?貴様にかけられた術は召喚された側がどうにかできるものではないはずだが」
「知るか」
「そうか、残念だ。では世界の敵として、早々に死ね」
まるで残念だと思っていない、無機質な声。そしてシャリンッ、という美しい音を立てて抜かれた美しい剣が姿を現す。剣は純金の色に彩られ、神々しい光を放っている。放つのは光だけではなく、神々しい覇気もだ。
(あの剣はやばい。鬼野郎の刀とはワケが違う……!)
威圧に押され、思わず一歩足が下がる。『蛇に睨まれた蛙』という言葉は、この時を表現するために作られた言葉なのだろう。
「……悪いけど、まだ死にたくないんで_____ね!」
そんな相手とは、戦わないことが一番だ。間合いを詰めて斬ってくる前に、地面を強く踏んで土埃を巻き上げ、それを煙幕として距離を取る。すかさず家屋の上を跳び回り、とにかく距離を取ることに終始するのだ。
「無駄だ」
俺の策を嘲笑うかの如く、突如目の前に仮面の騎士が現れた。それに反応する間も無く、純金色の剣が振り抜かれる。軋むほどに体をよじることでなんとかそれを回避するが、掠ったことで右腕を覆っていた布が破れ、小さな切り傷から血が流れ始める。
「くっ……!」
全力で逃避したにも関わらず、一瞬で詰められた間合い。どうやってこんな芸当を実現させたかなど、まるで理解できない。だが、理解の及ばないやり方であるという時点で、対処方法など存在しないことが明らかになったのだ。逃避は無理であると考え、なんとかしてこの騎士を無力化するかに全力を注ぐことを決めた。
騎士_____イルトは躱されたことにはさしたる気も向けず、すかさず攻勢に出る。今度は避けられぬように、可能な限り早く剣を振るう。剣の切れ味は振った先の空気を斬り、その先にあった建物すら切断するほどに鋭い。一発でも擦れば致命傷になる中、瑛人は懸命に回避し続ける。
(めちゃくちゃ早い上に強い……!けど、対応できないほどじゃない。ギリギリ見える!)
騎士の剣は確かに恐ろしいが、振り終わった後は慣性によって必ず動きが若干鈍る。斬撃それ自体は全く見えないが、剣の振り終わりと、次に続く振り始めを見ることができれば、躱すことはできる。
あとは、隙を見つけて力一杯殴るか蹴飛ばすかである。力を拳に集め、回避に緩急をつけることで動きを惑わせ、隙を作る。そして作り出した僅かな隙を狙い、一直線に拳を_____
「甘いな。やはり戦闘経験は浅いようだ」
拳は空を切る。放たれた拳圧はその直線上にあった家屋の外壁を砕くことに成功する。だが肝心の騎士の鎧を砕くことは叶わず_____
ボトリと音を立て、赤い色の液体と主に突き出した拳ごと、右腕が滑り落ちた。
「_____え?」
右腕を動かそうと脳から信号を送るが、反応はない。その代わり、さらに赤い液体が切断面からドロドロとこぼれ落ちた。切断面を見ると、一本の太い骨が丸見えになっていた。見てはいけないものを見てしまったことによる嫌悪感、そして燃え上がるような激烈な痛みが一気に襲いかかった。
__________
「があっ、あああああああああああああ!!!」
痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い!
生まれて初めての、身体の欠損。噴き出る血を塞ぐことも、目の前に殺しにかかってくる敵がいることも忘れ、その場をのたうち回るしかなかった。
幼い頃に一度、高いところから落ちて足を骨折したことがあったが、それ以外特に大きな怪我はしていない。十数年生きてきた中でも一度も体験したことのない、強烈な痛みが、久しく忘れていた恐怖心と涙を瑛人に思い出させていた。
_____死ぬ。このままでは確実に死ぬ。失血死で死ぬかもしれないし、それより先に騎士に斬られて殺されるかもしれない。
_____痛い痛い痛い痛い。我慢できぬほどに痛い。のたうち回っても、大声を上げても痛みは消えない。腕がない腕がない腕がない。腕がそこに落ちてしまっている。
_____怖い怖い怖い。騎士が怖い。生々しい自分の傷跡が、あり得ないほどの流れる自分の血が怖い。次第に体を包み込む寒さが、寒さと共に足音を立てて近づく暗闇が怖い。
「ああ、あああああああ。あああぁぁぁ……」
頭の中が
痛い痛い痛い痛い死ぬ死ぬ怖い怖い怖い怖い死ぬ痛い痛い怖い痛い痛い死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ怖い怖い怖い怖い怖い痛い痛い怖い怖い怖い死ぬ死ぬ死ぬ痛い怖い痛い死ぬ痛い痛い怖い怖い痛い痛い痛い痛い痛い怖い死ぬ死ぬ怖い怖い怖い痛い痛い痛い死ぬ死ぬ怖い怖い死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ怖い怖い怖い痛い痛い痛い痛い_____
頭の中を、三種類の言葉が埋め尽くす。もはや、冷静な思考を保つことなどできなかった。
「……無様だな。英雄とは腕を斬られようが戦うものだ。貴様は、ただ力に溺れていただけの、愚かな子供だ」
イルトは瑛人に侮蔑の言葉を投げかけ、すぐにその首を刎ねようと剣を振るう。剣とは、元から敵を斬るために生まれたものだ。イルトが握る剣_____聖王剣の力は、ありとあらゆる防御を貫通し、斬るべき対象のみを完全に消滅させる効果を持つ。教皇領に伝わる最上級の聖遺物の一つであり、序列一位の聖騎士しか扱うことのできない世界最高位の剣なのだ。
「聖王剣の錆となれることを誇りに思え」
そうして純金の剣が流れるように首筋目掛けて振り下ろされる。瑛人は迫り来る剣を眺めながら、次第にスローになっていく視界の中でぼやけた考えを働かせた。
(……なんだこれ、すごいな。走馬灯ってやつか)
痛みはまだ感じてはいるが、それよりも濃厚な『死の気配』が体中を覆っている。それがどんなものかなど、理解できるはずもない。
(……そりゃそうか。あれだけ人を、魔物を殺したんだ。報いを受けるのは当たり前だよな)
さっきの妖鬼も、俺に殺された仲間の敵討ちのためにここに来ていたみたいだった。彼には、悪いことをしたと思っている。この騎士たちも、大方そんな感じだろう。人類を守るために、俺を殺そうとしている。
筋が通った話だ。俺だって、彼らの立場なら俺を殺そうとするはずだ。だから、これは受け入れるべき話で_____
(_____なわけない)
受け入れる?何を言っている。受け入れてたまるか。
俺はまだ生きていたい。皮が厚いと思われるだろうが、どうでもいい。ここで俺が死ぬべきだと思うやつなど死んでしまえばいい。
そもそも、悪いのは俺じゃない。俺を召喚した奴らだ。俺から失い難い日々を奪っていったのは、この世界の人間なんだ。
_____いや、それは嘘だ。俺だって悪い。呪術が解けても、俺をこんな目に遭わせた奴らに同じ思いをさせてやろうと
_____でも、生きていたい。死ぬべきだとは思う。でも、『べき』とか『しないといけない』とか、そういう話じゃないんだ。そんな道筋だった、優等生なことを言いたいんじゃない。
俺はただ、ただ、まだたくさんの未練がある。ただそれだけなんだ。
____念じるなら、ここが瀬戸際だ。もう今を過ぎたら死ぬんだ。やるならやるで、後悔が残らないくらい、醜く呪いに満ちた言葉を吐いてやる。言葉のチョイスは、至極単純に決まっていた。
(_____生きて、いたい)
_____赤ん坊は、生まれた瞬間に誰かの庇護を求め、産声を上げる。おそらくこの瞬間が、人間が最も醜く生きている瞬間だと言えるだろう。葉村瑛人が心の中で呟いた言葉は、まさしく生まれたての赤ん坊の産声のように純粋だった。
_____奇跡など、起きない。それが世界の鉄則だ。本来あるべき理を歪めるようなことは、あってはならないのだ。だが、『奇跡のように思えること』は存在する。視点の違いによって、奇跡としか思えぬことはどこかの誰かに起きうるのだ。
_____葉村瑛人は、普通の人間だ。召喚される前は、平均的な能力しか持たぬ男子高校生だった。召喚され呪術による支配と強化を受けたことで強さは変わったが、魂としての人間の本質は変わらないのだ。そして、魂も普通のものである。何ら高尚な意志など持たず、特異な因子を持つこともない、異世界であろうとも普通な魂だった。
_____一つだけ例外があるとするならば、それは
_____彼が世界中全ての人間を足しても追いつかぬほど、徹底した『人間』であることだろうか。
聖王剣が瑛人の首を刎ねる直前、甲高い音を立てて止まった。
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