サバンナにて

知らない人

サバンナにて

「来たの」

 僕が葬儀場にあらわれると、母は目を大きく開けて意外そうにした。

「来いって言われたから。でも本当に来ないといけなかったのか? 場違いな気しかしないんだけど」

 ロビーを見渡してみるとみんな今日の天気以上に湿気った表情をしている。そんな中では僕の無表情はドライヤーのようにやかましく目立った。母のもとにやってきた新たな参列者が、僕の顔を不機嫌そうに一瞥するのも当然のことだろう。

「お足元の悪いなか……」

 僕への返事もおざなりに、母は深く頭を下げて礼をしている。そういうことで、すっかり僕は宙ぶらりんになってしまった。だからといって会場に入って席に着くのも気が重かったから、外に出て雨の風景を眺めることにした。

 しばらく地面に落ちる雨粒を眺めていたけれど、なんとなく手持ち無沙汰になって腕時計に目を向ける。あと十分もすれば葬式は始まるらしい。僕は後悔と共に室内の白っぽい明かりに振り返る。母に見つかったからには今さら帰るわけにもいかない。

「来ないと思ってた」

 ちょうど受付を終えたらしい母が、喪服姿で立っていた。

「来るべきじゃなかったか」

「そんなことないわよ」

 母は頼りなく笑った。僕はため息をついて壁に飾られた黄色い花畑の絵に目を向けた。空は真っ青に塗りたくられている。雨は好きだけど、今だけは絵画の中の抜けるような青空が羨ましかった。

「晴れてたらもう少しましだったんだろうな」

「本当に。でもあの人がなくなった日もこんな日だったわ。きっと泣いてるのよ。みんなが悲しんでるのを見て」

 降り注ぐ雨が涙だとでも言いたげな母の感傷を、僕は不愉快だと思った。涙は涙で雨は雨だ。それだけで十分なはずなのに人間の想像力は無駄にたくましい。

「やっぱ帰ろうかな」

「帰らなくていい」

 か細い癖に切実な声だった。僕は一つため息をついてから、会場に向かうことに決めた。一歩進むと雨に濡れた靴がキュルキュルと面白おかしく鳴いた。僕は目を細めながら、慎重に歩いて静かに母のそばを通り過ぎる。すれ違い際に「そういえばマミのこと知らない?」と声をかけられて眉をひそめる。

「まだ来てないのか」

「そうなのよ。電話もつながらないし」

「探してこようか?」

「ありがとう。行ってきてくれる?」

 僕は頷いた。

 傘を開いて、雨の中を泳ぐように進む。足取りは来る時よりも軽やかだった。


*

 歩道に出ても人は見当たらない。車道も疎らだ。時間帯のせいなのだろう。今は平日昼の十時前で、通勤ラッシュはとっくに終わっている。そのうえバケツをひっくり返したような大雨だ。人の目を気にしなくてもいいほど幹線道路はがらんとしていたから、僕は黒い傘をくるくると回転させて遊んでみたりした。

 そのせいだろうか。ふと小学生の頃を思い出した。

 父がしかめ面で出社する中、僕とマミはテレビ画面の真っ赤に染まった地図をみて、飛び回って喜んでいた。友達と会えないのは寂しかったけれど、煩わしい学業に頭を悩ませず一日中遊びにふけることのできる幸せは、何物にも代えがたかった。大人は大変だなぁと二人で笑い合っていた。


 だけど笑い合っていた過去はもう遠い昔だ。傘を避けて落ちた雨粒が足元を水浸しにする。靴下が足にべっとり張り付いて気持ちが悪い。僕もいつか父のように死んでしまうのだろうか。不意に湧いた解決しようのない不安に足元をすくわれそうになる。

「人生は自転車操業なんだよ。壊れたパーツを修理するために立ち止まれば置いていかれて食い物にされる。まだ子供のお前たちには分からないだろうが、社会なんて本質はサバンナと変わらないんだ」

 楽しい思い出はないけど、深い皺の入った険しい顔立ちと語気の強い脅迫の言葉なら思い出せる。あの人はいつだってサバンナでライオンに追われていたのだ。鬼気迫る態度で毎日を生きていた。

「社会主義が上手くいかなかった理由を知ってるか?知らないなら教えてやる。人は人を蹴落とすときにしか本気になれないんだ。自分を優位な立場に置くためなら、鬼にでも悪魔にでもなれるんだ。だから優劣の存在する資本主義は成功した。人は所詮獣でしかないんだよ。平等だとか公平だとか驕るんじゃないって、その正義ぶった連中を殴りつけてやれ」

 父の言葉に照らし合わせるならば、父は蹴落とされてしまった側の人間なのだろうか。あるいは、自らの死をもって競争から降りることを選んだ究極の平和主義者なのだろうか。どちらにせよ、僕は父のようになりたくなかった。


*

「おーい。無職おにい」

 顔を上げると空と同じ黒色をした傘をくるくる回すマミがみえた。

「なにしてるんだ。もうすぐ始まるぞ!」

 豪雨にかき消されてしまわないように大声で叫ぶ。傘と一緒に一回転したマミは楽しそうに笑った。

「もったいないよー。おにいも回りなよ。こんな大雨の中で、しかも街中で堂々と回れる機会、この先一生来ないかもよー」

 一息の逡巡を経て、確かにそうかもしれないと僕は思った。いい年をした成人男性が回れば、それだけで奇異の視線を引く。でもそういえば、どうして奇妙だと思われてはいけないのだろうか。

 考えながら体を捻って、勢いをつけてから回る。水にぬれた地面は摩擦が少なくてよく滑った。三回転半! フィギュアスケートならなかなかのものだ。「ブラボー!」と駆け寄って来た妹に思ったことを話してみる。

「なんで変なことしちゃいけないんだろうな」

「おにい結構変なことしてると思うけど?」

「無職になったのは俺なりの反逆だよ。金がなきゃ生きていけないのは困りものだけど」

 なにその言い訳、と笑いながらマミは僕の横腹をつついた。

「ちょっとふくよかになった?」

 仕事をやめてまだわずかだけど、確かに腹に贅肉が付いた気がする。反射的に運動しなきゃなと思うけど、次の瞬間にはそういえばなんのために運動するのだろうかという疑問が頭をよぎった。父が命を絶ってからは、まるで脳が改造されて別物になってしまったみたいに、僕はいろいろなことを考える。

「あー。今また哲学的なこと考えてたでしょ」

「いや違う。なんで痩せなきゃだめなんだろうなって」

「そんなの人よりも綺麗になるためでしょ。で、人よりもモテるため。自己満足の為ですって言い張る友達いたけど絶対嘘だよ。男を見るときプレデターみたいな目してるもん」

「その友達強そうだな」

「実際強いと思うよ。めっちゃつよい」

 どっちのことだ? と聞くとどっちも! と明るい声が返ってきて、僕は困惑交じりに笑った。すぐに青ざめたけど。何気なく見た腕時計が葬儀の始まる時刻を指し示していたのだ。僕は「ほら急ぐぞ!」と大げさに叫んで雨の街を駆けだした。この先、街中で走ることなんてあるのだろうか。

 ふと振り返るとマミはずっと遠くで同じ姿勢のまま硬直していた。僕は首をかしげながら大声を出す。

「どうしたんだ!」

 すると同じくらいの大声がやまびこみたいに返ってくる。

「行きたくない!」

 響く声に僕はため息をついた。僕だって行きたくないけれど、母さんに心細い思いはさせたくはない。僕はマミのところまでまた全力で走って戻った。そんな僕をみたマミは、フリスビーを取ってきた犬をねぎらうみたいに笑っていた。

「そんなに面白いか?」

「面白いよ。みんなおにいみたいに面白ければいいのに」

「そりゃ大変だ。毎日筋肉痛になって辛いぞ」

「かもしれないねぇ。だけどきっと今よりはいい毎日」

 傘の陰に潜んだマミの水晶体は光を吸い込んで、夢を見ているかのようにまどろんでいた。瞳の中の楽園でなら、父は死なずに済んだのだろうか? 夢想する僕の後ろで、突然ぴかりと輝くものがあった。マミの頬は真っ白に染まり、数秒遅れでつんざくような轟音がとどろく。

 僕たち兄妹はほとんど同時に全身を震わせた。驚愕に顔を見合わせてから、二人で笑った。

「なんなのその反応。むっちゃびびってるじゃん」

「マミこそなんだよ。面白い顔してさ」

 ひとしきり笑い合った後、マミは切なそうに瞼を閉じて「そろそろ行こうよ」と口にした。僕は「いいのか?」と問いかけたけれど、返事は変わらなかった。僕たちは隣り合わせのまま、走らずのんびり歩いた。道すがらぽつりぽつりと言葉をこぼした。

「悲しむのが普通だから悲しまない人は変になるんだよね」

「らしいな」

「私変な人になるのが怖いんだ。もしかしてお父さんも怖かったのかな」

「俺みたいにやめればよかったのにな。仕事」

「そうだけど、でも、みんながおにいみたいになれるわけじゃないんだよ。普通にやらなきゃだめなんだ。学校とか、勉強とか、部活とか、あと恋愛とかも。いろんなこと全部、たとえ人と競い合うことになっても、それに嫌気がさしても、簡単には放りだせなくて」

 マミは僕の隣で猫背気味になってうつむいていた。歩幅はペンギンみたいに小さくて、晴れの日の街中にあふれてるような社会人や学生たちよりずっと遅い。もしもライオンに追われたなら一番最初に犠牲になるのはマミだろうなと、僕は嫌な想像をしてしまう。

 鋭い爪を突き立てられ、グロテスクに現れる血みどろな人体の内側。野獣の口元から伸びた鋭い牙に引きちぎられる筋繊維の向こう側に真っ白な骨が見える。その奥には決して壊させてはならない大切なものが眠っているのだ。

 奴らは今もそれを虎視眈々と狙っている。


 マミは学校の話をほとんどしてくれないけど、上手くやれているのだろうか。日常みたいな速度で歩いてる今も不安は拭い去れない。

「ねぇおにい。さっきちょっと想像してみたんだ」

 鈴の鳴るような声が聞こえた。僕は穏やかな表情を作ってマミを見つめた。マミの瞳は今にも泣きそうなほど、潤んでいる。

「もしもみんながおにいみたいな楽園でなら、きっと……。私もおにいもお父さんを好きになれたんじゃないかって。お母さんとお父さんとおにいと私、みんな四人そろって笑って、幸せに生きられてたんじゃないかなって」

「どうだろうな。でも少なくとも俺はそんなにいいもんじゃないぞ」

「今のおにいは理想のおにいだよ」

 涙をにじませながらも浮かべた満面の笑みに、僕は反論を諦めた。きっとマミは葬儀場で泣くのだろう。なぜならマミは父の娘で、娘が葬式で悲しむのは当たり前のことだから。だったらせめて、息子である僕だけは泣かないでいよう。人として生物として、欠陥のある個体として扱われてしまうのかもしれないけど、僕を理想と慕ってくれるマミのためにも絶対に泣いてやるものか。親戚たちの雰囲気にのまれて、決意を挫かれそうになってしまうかもしれない。だったら舌を噛んででも、悲しみから逃れよう。舌を噛み切ってしまったなら、目玉を抉りだしてでも父さんを笑ってやるよ。


 父さんもそうしたかったんだろ?

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サバンナにて 知らない人 @shiranaihito

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