発散、つかの間
午前六時四十七分、特急しらさぎ、出発。窓の外の景色が移り変わり始める。リュックから朝ごはんの入ったレジ袋を取り出す。前の座席背面のテーブルを展開させて、そこに袋から取り出したチョコクロワッサンと明太子おにぎりを置く。お茶をひと口飲んでから、くぼみにはまるように置いた。チョコクロワッサンの袋を開けて、先端を少しだけ袋から出す。そのまま、ぱくりと口に入れる。パリッと、チョコが折れる音がした。咀嚼するたびに、チョコが細かくなっていき、口の中に甘さが広がる。パン生地が、上手く味を調節する役割を果たしている。
午前六時五十七分、本来なら、そろそろ学校に行く準備を始める時間だ。でも、今日は違う。みんなが車道すれすれの道で必死こいて自転車を漕いでいる中、私は住んでいる市を離れ、隣の市からも離れようとしている。そう考えると、なんだか面白くなってきた。間もなく、事情を知って協力してくれている親から、学校のほうに今日は欠席するという連絡が入る頃だろう。私は、表向きは風邪を引いたことになっている。背徳の味がするチョコクロワッサンの、最後のひと口を放り込んだ。
午前六時五十九分、お待ちかねの明太子マヨのおにぎりを食べている。やっぱり美味しい。最後にとっておいて大正解だった。幸せの味を噛み締める。
午前七時二分、そろそろ北陸トンネルに入るらしい。そこを通過する七分ほどの間、電波状況が悪くなるそうだが、私にとっては、外の景色が見えなくなることのほうが問題だ。景色をぼーっと眺めるのが好きなので、それがしばらくできないとなると、どう暇をつぶそうか悩みどころだ。
午前七時十分、北陸トンネルを出た。七分ぶりの外の景色だ。窓を通してさらに眩しくなっている太陽の光に、目を細める。さて、暇のつぶし方だが、とりあえず電光掲示板に流れるニュースや案内を眺めていた。内容が二周くらいしたが、わりと暇をつぶすことができた。まもなく、敦賀駅に到着する。この次が、乗り換え先の米原駅だ。
午前七時二十二分、次の駅と言っても、三十分以上ある。きっと、私がしらさぎに乗る間ではこの区間が最長だと思う。グミをひとつ食べる。レモン味だ。グミは、レモン、ソーダ、コーラしか買わない。強いて言わなくても、これらの味が好きだからの一言に尽きる。さっきからチョコも食べていて、口の中が甘ったるくなってきたのでお茶を飲んだ。そろそろお茶も無くなりそうだ。
午前七時二十五分、そういえば、この車両には私しかいない。そもそも今日は平日なので、利用客が少ないのだろうか。まあ、人が多いと窮屈に感じてしまうので、このくらいのびのびできる方がありがたい。せっかくリフレッシュするための計画なのに、ここでも窮屈なんだったら意味がない。
午前七時四十七分、米原駅に到着。特急を降りて、新幹線の乗り場へと向かう。案内板を見ながら、改札を通ってホームに入る。停車している新幹線の表示と切符の表示を照らし合わせる。“ひかり 638号”。この新幹線だ。
午前七時四十九分、発車まで時間があるので、車内に入る前にすぐそこの自販機で飲み物を買った。みかん風味の天然水だ。その近くの売店で、ポテトのスナック菓子を買い足した。用事も済んだので、新幹線に乗りこむ。
午前七時五十三分、出発を待っている。ちなみに、席は四号車の7列A席。特に指定したわけではなかったのに、特急も新幹線も窓側の席に座れてラッキーだ。みかん水で祝杯をあげる。乾杯、私の旅路に幸あれ。
午前七時五十七分、新幹線が米原駅を出発した。これで、私は誰にも止められない。新幹線のスピードが上がっていくほどに、私の気持ちも高揚していく。学校は、そろそろ始業の時間だろう。同じ時間を過ごしているのに、私だけ違うところにいる。そう考えると、本当に不思議な感覚だ。背徳のみかん水が美味しい。
午前八時二十分、車内販売が回ってきた。食べる物もさっき買っているし、別に買わなくて良いかと考えて、通り過ぎるワゴンを見送ろうとしたが、ふと、あることを思い出した。慌てて声をかける。
「すっ、すみません……! “シンカンセンスゴイカタイアイス”ください……!」
ワゴンを押していた乗務員の女性は、振り返ると一瞬きょとんとした表情を見せたが、すぐに笑顔を作り直して私に尋ねた。
「バニラと抹茶がございますが、どちらにいたしますか?」
「抹茶でお願いします」
お金を渡し、クーラーボックスから出てきた抹茶アイスを受け取る。これが、巷で噂の“シンカンセンスゴイカタイアイス”……。名前の通り、“スゴイカタイ”らしい。テーブルに置いて、早速蓋を開ける。先ほど一緒にもらったプラスチックのスプーンで、恐る恐る表面に触れた。固い。本当に、固い。何度かつついてみるも、深くまで刺さっていかない。さすが、“シンカンセンスゴイカタイアイス”だ……。ちなみに、この“シンカンセンスゴイカタイアイス”という名前は、正式名称ではないみたいだ。
午前八時三十分、シンカンセンカナリヤワラカクナッテキタアイスを食べる。美味しい。普段食べているアイスよりも、味が濃厚で滑らかな気がする。これは、帰りにバニラも買わなければ。
午前九時、シャッター音が聞こえ、外のほうに向けていた顔を正面に戻した。何かと思ったら、通路を挟んだ右側の窓から富士山が見えた。スマートフォンで写真を撮ろうと思ったが、電線や家などが映り込んでしまってなかなかシャッターチャンスが訪れない。ようやく、富士山を遮るものがなくなって良い感じの風景が現れ、待ってましたとばかりにスマホを構えてシャッターを切ったが、ひどくぶれた写真になってしまった。もう写真は諦めて、澄み渡る青空の中にそびえ立つ日本一の山を、窓越しに目に焼き付けることにした。
午前九時五十四分、新横浜駅に停車。窓から見える景色も、都会になってきた。次の品川駅の次が東京だ。ポテトスナックをつまみながら、その時を待つ。
午前十時十二分、東京駅に到着。家を出てからおよそ四時間。すっかり、日も高くなった。新幹線を降りた先のホームの広さに驚いた。横に、どこまで続いているように感じるくらいだ。
午前十時十六分、なんやかんやで、ホームの端から端まで歩いた。割と楽しかった。迷っているわけではない。とにかく、なるべく早く改札を出てしまいたいところだ。迷っているわけではない。
午前十時二十二分、なんとか脱出に成功したようだ。さて、これからの予定についてだが、今日は別に観光に来たわけではない。ここまで来た理由は、なんとなくだ。強いて言うなら、やってみたかったから。両親にその旨を話すと、たまには思いきった息抜きも大事だということで、嫌な顔ひとつされずに速攻で許可が下りた。
しかし、やっぱり女子中学生が一人で遠くまで旅行に行くのは心配だということで、メッセージアプリで状況を報告すること、という条件が付いた。今どこどこの駅に着いただの、今何を食べているだの、割と頻繁に状況を送っていた。時折、母からスタンプや絵文字で返信が来る。先ほど撮影したブレブレの富士山の写真も記念に送信したのだが、その後には涙を流して笑っているスタンプが返ってきている。それを見て、思わずクスッと小さく笑い声が出る。スマートフォンを閉じてふと顔を上げた先に、“地下街”の文字が見えた。ちょっと、行ってみることにした。
午前十時三十分、地下街をぶらぶらする。帰りの切符を買うお金は最低でも残しておかなければいけないので、あまりたくさんの買い物はできない。なんとなくお店を眺めながら進んでいると、一つのお店が目に留まった。キャラクターショップの並びの、私が入ってきた方向ではいちばん遠いところに位置する店だ。ふわふわとした絵柄で描かれた、丸いペンギンのキャラクター。その可愛らしさに釘付けになり、気づけばショップ内に入っていた。
午前十時五十三分、ショップでの買い物を終えた。やっぱり、可愛いグッズがたくさん売っていた。普段使いもできるクリアファイルか、通学リュックにつけられるキーホルダーか、部屋に飾るぬいぐるみか……。どれを買おうかすごく迷ったが、最終的には大きめのぬいぐるみに決めた。リュックに微妙に入り切らないくらいの大きさなので、抱えて移動をしないといけない。お値段は八千円。旅の仲間ができた気分だ。それに、この子には、旅以外の場面でもお世話になりそうだ。これからよろしく。ぬいぐるみの頭を優しく撫でる。
午前十一時、東京駅の外に出た。見回すと、そこらじゅうに建っている高いビルが目に入る。福井県からたった四時間ほどで、こんなに景色が変わってしまうのに驚いた。駅の外に出てみたものの、この後どこに行く予定もない。この旅で私がやりたかったのは、“一人で鯖江から東京まで行ってみる”ことだった。東京観光が目的ではない。そんな調子なので、外に出たはいいものの、意味もなくその場に立っている。急に強く吹きつけた風に凍えないように首を引っ込め、抱えているぬいぐるみをぎゅっと強く抱きしめる。
午前十一時七分、ゆっくりと伸びをした。こんなに気持ちの良い伸びはいつぶりだろう。誰もが慌ただしく歩いている街の中で、私の時間だけがゆっくりと流れているような気がした。誰も私のことを知らない街。人が多いところは苦手だけど、なぜか、今は窮屈に感じない。ここでずっとこうやっていたいけれど、戻らないといけない。
午前十一時十分、少しずつ暖かくなってきた十一月で肺をいっぱいにする。腕をだらりと下ろし、ぬいぐるみを抱え直す。ふぅ、と息を吐き出してから、つぶやく。
「じゃ、帰るか」
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