走馬灯その5

「……あ、あの……勇君。ふ、不束者ですが、今日からよろしくお願いしますっ」


 ご丁寧にお辞儀をしながら、俺の住んでる安アパートの入り口で挨拶をし始める蘭子。

 そんな彼女の左手の薬指には、俺とお揃いの銀色の指輪がはめられている。


 あれから……俺はカチコチに緊張しながらも蘭子のお義母さんにきちんと挨拶をしに行った。


 彼女も早くに片親を亡くしており、お義母さんはシングルマザーで蘭子を育てて来たそうだ。だけどそんな苦労は微塵も感じさせずに、寧ろそれを笑い話に変えながら俺たちの事を明るく祝福してくれた。


 勿論、俺の父さんにも紹介を無事にすませ、婚約届も無事に提出した俺達は今日から同じ空間で生活を共にする事になった訳だが……


「いや、そんなにかしこまらなくても。見ての通り古いし狭いしで住み心地はお世辞にも良いとは言えないからさ……」


「ふふ、私はそんな事全然気にしないよ? それに狭い方が勇君と一緒に暮らしてるって実感が湧くと思うし、私はこれくらいの方が好きかなぁ」


「まぁそう言ってもらえると助かるけどさ。……と、とりあえずその……今日からまたよろしくな、蘭子」


「……うんっ」


 相変わらずとても可愛らしい満面の笑顔で頷いてくれる蘭子。そんな最愛の奥さんとなった蘭子との生活が、こうして始まった。


 そこからはまさに充実した毎日だった。


 朝、目を覚ますと既に彼女は台所に立っていて、そのまま彼女の作ってくれた朝ご飯を一緒に食べて、一緒に家を出てお互いの学校へ向かう。

 午前中の授業が終わると待ちに待ったお昼休みで、今までのカップ麺生活から究極進化した彼女の愛妻弁当をSNSに載せる日々。

 仕事が終わると真っ直ぐに我が家へと帰り、彼女の作ってくれる愛情たっぷりの晩ご飯を一緒に食べながら、その日の出来事なんかを語り合った。


 休みの日には一緒に食材や生活用品を買いに出かけたり、一人暮らしの時にはほとんどしなかった部屋の掃除をしたりと……とにかくせわしない毎日が過ぎていった。

 だけど、彼女と一緒ならそんな目まぐるしく過ぎていく時間が、日々が、その全てが幸せだと感じられた。

 頑張る事に、意味を感じられた。

 俺は今、ちゃんとこの世界に生きてるんだって……そう、実感する事が出来たんだ。



 やがて、彼女のお腹に俺達の愛の結晶が宿った。



 その時の俺の喜びようはきっと尋常じゃなかっただろう。今まで生きてきた中で一番の勢いでもだえ地面を転がりまくったし、それを笑いながら見ていた彼女と共にその最大限の喜びを分かち合った。


 俺は元々そんなに子供が好きな方ではなかったけど、自分の子供となると話は別……というのはどうやら本当の事だったらしい。

 俺達は早くも親バカっぷりを発揮し、お腹の子の為にとオムツを山盛り買い込み、ベビーカーやおしゃぶりなども着々と準備をし始めて、只でさえ狭い部屋が更に狭くなっていった。


 そして彼女のお腹の膨らみが目立つ頃には……その温もりを感じながら優しくお腹をさする事が俺の新たな日課となっていた。


「……ねぇ、勇君」


「ん? どうした蘭子」


「今日、病院で教えてもらったんだけどね? お腹の赤ちゃん……男の子なんだって」


「おぉっ、男の子かぁ。なら一緒にキャッチボールをやるっていう俺の長年の夢が叶うじゃないか」


「あれ? 私、勇君がそんな夢を持ってたなんて初耳だけど……」


「いや、これはきっと全国のお父さん達が夢見る、息子が産まれたらやってみたい事ナンバー1のイベントだからさ? なら俺も一度はやってみたいなぁって……」


「ふふ、そうなんだ。でも勇君、基本インドア派なのにそういうのはやっぱりやってみたいんだ?」


「そりゃあね。それにもしそれがきっかけでこの子が野球に目覚めてさ、将来二刀流選手としてメジャーで活躍してくれたら、めちゃくちゃ鼻が高いだろ?」


「……そ、それは確かにそうかもだけど。でも私も勇君もあんまり運動神経良くないし、流石にメジャーリーガーは難しいんじゃないかなぁ」


「いや、はたしてそうと言い切れるだろうか?」


「うん、多分言い切れると思うよ?」


「……そうなんだ」


 そんなたわいない会話を紡ぎながら、俺達は二人でゆったりとした時間を過ごす。

 その時間がもたらしてくれるかけがえのない幸福感に満たされながら、俺はふと思い出したようにあの定番の台詞を口にしてみる事にした。


「……あ、そうだ。ならこの子の名前考えなくちゃな」


 どうやら彼女も同じ事を思っていたのか、すぐに同意が返ってきた。


「あ、うん、そうだね。……うーん、男の子だしカッコいい名前の方がいいかなぁ?」


「カッコいい名前か、ん~そうだなぁ……『月』と書いて『ライト』と読む……みたいな?」


「……んー、なんか新世界の神になっちゃいそうだから、それは駄目かなぁ?」


「なるほど、ダメか……」


 即座に却下されてしまった為、そんなおふざけは無しで真剣に考えてみる事にする。が、いざ改めて考えてみると良い名前なんてものは中々浮かばないもので……とりあえず俺は脳内で必死にイケメン俳優やらの名前を挙げていく。


 『拓哉』、『雅治』、『隆史』、……うーん、ダメだ。なんかしっくり来ない。


 俺がそんな苦戦を強いられている中、ふと蘭子からある提案が持ち上がった。


「あっ、なら私達の名前から一文字ずつ取ってみるのはどうかな?」


「ん、俺達の名前から?」


「うん。勇君の名前からは『勇』の文字を取ってね、それで私の名前からは『蘭』の文字を取るの。それで……『勇蘭ゆうらん』っていう名前なんだけど……どう、かな?」


 勇蘭……その名前を聞いた瞬間、俺の中でニュータイプが如く突如鋭い閃光が走る。

 少し女子っぽい感じもしたが、でも蘭子の息子だ……きっと美少年になるに違いないだろうと、そう心の中の俺が確信する。


「……勇蘭、か。勇蘭……勇蘭……うん、良いんじゃないか? よ~し、なら今日からお前は勇蘭だぞ~。よろしくな~、勇蘭」


 そう語りかけながら俺は優しく彼女のお腹をさすり続け、俺に追随するように蘭子自身もお腹を優しくさすり始める。


「ふふ、よろしくね。勇蘭」


 その後も俺達は、早速決まった最愛の息子の名前をお腹の中の彼に届かせるように、何度も何度も呼び続けた。



 本当に、本当に幸せな時間だった。



 だからだろうか、そんな幸せの絶頂にいた俺は浮かれて、舞い上がって、多分調子に乗っていたんだと思う。

 どこか楽観的に、当然これからもこの生活が続いていくものなんだと。

 蘭子と、そしてこれから産まれてくる勇蘭と共に、この幸せな毎日がずっと続いていくんだと……本当にそう、思っていた。



 だけど、違った。



 俺達のこの世界に、永遠なんてものは……なかったんだ。


 幸せな日々も、平穏な毎日も、当たり前だと思っていた日常も、そんなものはなんの前触れもなく突如あっけなく終わりを告げられるものだったんだ。

 よくニュースなどでまるで他人事のように報道される不幸な事故や事件も、それがいつ自分に降りかかったとしても……何もおかしくはなかったんだ。


 なぜなら俺達には、数秒先の未来ですら……どこにも保証されてなどいなかったのだから。


 だからあの日、


 授業中に突然、教頭先生が慌てて教室の扉を開けて


 俺は呼び出されて、そしてーー




 そして俺はその日……全てを失ったんだ。




          ★



 本当に頭が真っ白になるという感覚を、俺は人生で初めて思い知る事になり……その時の俺は、自分がどういう状況に遭遇しているのかを全く理解する事などできなかった。

 ……いや、もしかしたら俺の脳が自分自身を守る為にあえて理解しなかっただけなのかも知れない。

 もし今、この目の前の状況を理解してしまったら、きっと心が壊れてしまう事が……分かっていたから。


 真っ白なベッドに横たわる彼女は、とても穏やかな表情で眠っている。

 一緒に暮らすようになってからずっと見てきた、いつもの可愛らしい寝顔だ。

 だけどその側ではお義母さんが、その表情を両手で覆いながら、彼女の名前を小さく呼び続けながら……ずっと、ずっと泣いていた。


 当然だろう。

 早くにご主人を亡くして、それからは女手一つで育てて来た、大切な……とても大切な一人娘だったのだから。

 きっと俺なんかじゃ想像もつかない様な苦労をしながら、それでも一生懸命に育てて来た……最愛の娘だったのだから。


 そんな病室の光景を、俺は入り口で呆然と立ち尽くしながら……ただ見続ける事しか出来なかった。



 俺の思考は、そこで完全に止まってしまった。



 それでも世界は、そんな俺を放置してずっと回り続けていく。

 ずっと放心状態の俺を他所よそに周囲では着々と彼女の葬儀の準備は進み、そしてお義母さんの意向で家族葬という形で小規模で執り行われる事となった。


 俺は父さんに連れられるまま、ただ漠然とその光景を眺めていた。

 彼女の棺に花を入れる際も、彼女の親類達は泣きながらもきちんと別れを告げていくのに対して、俺だけはこの現実を受け入れる事なく無言のまま、一ミリも表情を変えずに棺に花を添える。

 とても綺麗な顔立ちで、どう見ても眠っているだけにしか見えない、そんな彼女の棺に。


 そしてそのまま葬儀は着々と進んでいき、俺達は最後に火葬場までやって来た。



 車から、彼女の入った棺が降ろされて



 俺以外の皆が一様に最後の別れを告げて



 棺が暗闇の中へと納められようとした



 その瞬間ーー



 彼女の笑顔が、俺の脳裏をかす



 気が付けば俺は、棺に向けて駆け出していた。

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