第31話・金沢文庫

 ふたりきりなると、忍性の身を案じるように実時は口を開いた。

「かつて、良観房を国賊と宣った僧がおったのう」

 忍性はすぐに思い出した、日蓮だ。法華経へ帰依する思いが、身体の穴という穴から吹き出すような力強さを、忘れることなど出来なかった。

 祈雨祈祷の対決を迫られ、平頼綱により送られた龍ノ口へと駆けていき、戒律への誓いを改めたのは西大寺流の僧として、ひとつの契機になったのだ。


 それを実践し、評価されたからだろうか。得宗家の信任を得て、摂津多田院の再建を果たし、極楽寺忍性の地位は揺るぎないものとなっていた。

 貧者病者への救済や、尼僧への授戒は医王如来と称される良観房忍性に任せればよい。そのためならば和賀江島の関米も、切通しの木戸銭も好きにしてよいと、幕府の誰もが口を揃えた。

 しかし、それではまるで──


「国賊と呼ばれても、仕方のないことでしょう」

 自嘲する忍性に、実時は慌てて詫びを入れた。

「良観房を国賊などとは思うておらぬ。触れるも目にするも憚る癩者に躊躇いなく手を差し伸べた良観房を、非難など出来ぬわ」

 鎌倉入りしてから、いや、六浦を訪れてから忍性を気にかけていた実時だから、その言葉に嘘や偽りなどないと信じられた。


 忍性は緩む頬を奥歯で噛み締め「もったいないお言葉を」と頭を下げた。実時は上った血を諌めてから、自らの胸を鎮めて慎重に口を開いた。

「だがのう、良観房。おのが願わずとも拒もうとも、担ぎ上げた者どもに呑まれるのでは、国賊にされてはおらぬか、そう危惧しておるのだ」

 忍性は薄暗い霧中にいるのだと思い知り、光明の差す実時を凝視した。喉元を締められたような息苦しさに、言葉のひとつも湧き上がらない。


 ひとりでも多くを救うため、少しでも大きな力を求めて掴み取った信頼が、大きくうねり忍性を取り込んでいく。幕府にとって欠くことの出来ない忍性は、もはや幕府の一部であった。

 そうしてしまった契機を作り、止められなかった実時は、忸怩たる思いを刃のような視線に変えて、忍性の膝小僧にぶつけていた。

「これが我らの望みではなかった、互いの望みではなかったはずだ」


 微かに震える実時に救いの手を差し伸べようと、忍性は膝をついて行き場なくくうを掴んだ。

「衆中を救うためにございます、それが拙僧の願いにございます。それがためなら国賊となろうとも、無間地獄に堕ちようとも構いませぬ」

 それほどか、と固唾を呑んだ実時に、忍性はころころと笑いかけた。

「地獄の亡者も、拙僧が救ってみせましょう」


 それを聞いた実時は笑わずにはいられなくなり、緩んだ目尻をおのが膝へと向けていた。

「この俗界の地獄を極楽にしたのだ、良観房ならば容易かろう」

 しかしすぐさま顔を上げ、だがな、と続けた。

「地獄は永遠であろうが、この俗界は未来永劫まで在りはせぬ」

 冷めた実時の眼差しに、忍性の臓物が凍りつく。


「この鎌倉とて、いずれ終わりのときが来る。博多に誰がおるか知らぬとは言わせぬぞ、六浦の湊より参るのは、本ばかりではない。幕府の庇護のもととあらば、命運をともにする」


 実時はたまらず、忍性の手を掴み取った。硬い拳を固く握り、身体の芯から思いを伝えた。

「この救済が潰えてよいのか!? 西大寺が、極楽寺が、良観房がせねば、誰が手を差し伸べる!? 我ら北条に頼らず、立て!」

 かすれた声は、消え入った。和賀江島を返しては施粥の米が手に入らなくなる、切通しの木戸銭を手放しては施薬の薬を買えなくなる。幕府と密に支え合う極楽寺には、断ち切れるとは思えなかった。


 忍性は握った手をふわりと緩め、優しく強く労るように実時の手を握り返した。

「我ら西大寺流が潰えても、いずれ救いの手が伸ばされましょう。文殊菩薩の化身にございます故」

「千年かかるやも知れぬぞ」

「千年のときを経ても、消えぬ思いがございます」


 時が止まるような思いがした。

 時を越えるような思いがした。

 実時と忍性は、千年先を見た。


 忍性はふっと緩んだ笑みを浮かべて、遥か未来に実時の夢を見たような気がした。

「本の話をしましょうぞ、鎌倉を描くとは楽しみにございます。骨を埋めるつもりなれど、まだ知らぬことばかり故」

「しかし、どうかのう。長き話だ、骨子のみで潰えてしまうやも知れぬわ」

 身を案じ胸に触れる実時に、忍性は大きな赤鼻を突き出してきた。実時は少し驚いて、仰け反る身体を揺らしていた。

「書き上げてくだされ、その本は千年といわず未来永劫にまで残りましょう」


 静寂の時が漂った。しばらくすると実時は止めた身体を揺さぶって、高らかな笑いを上げはじめた。

「それほどまでに読みたいか」

「拝読しとうございます。文庫ふみくらの一冊に、是非とも貴著を加えてくだされ」

「命に変えても筆を執ろう。ならば次は庭の話だ、これはひとりでは決められぬ。良観房、審海を呼んではくれぬか」


 称名寺を如何にするか話し合い、日が傾いた頃に忍性は極楽寺へと帰っていった。

 文庫に入った実時は文机を出して墨を擦り、筆を執ると『吾妻鏡』としたためた。

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