第23話・江ノ島

 鎌倉はかわきに苦しんでいた。取り囲んでいる山の裾から湧き出る水が頼りであったが、ここに幕府が置かれて以来、活況とともに人が増え、支えきれなくなっていた。

 谷戸の中腹に隠された松葉ヶ谷の草庵から麓へ下りた日蓮は、以前掘り当てた井戸の様子を覗き見ていた。


 底が見えてしまいそうだ、雨が降らねば名越も渇きに苦しめられる。


 それでも、名越にとっては大切な井戸である。法華経に帰依する衆中は、日蓮を生き仏のように拝んでいた。

「名越においでになった折、この井を当ててくださったことは、感謝の極みにございます」

「しかし、底が下がっておる。渇きに苦しんではおらぬのか」

 心配する日蓮を安堵させるためだろうか、ある者が感謝を込めて口を開くと、名越の谷戸が戦慄した。


「良観上人が掘らせた井戸もございます。ご心配なさらずとも、このとおり潤っておりまする」


 日蓮が掴みかかった。その者に恨みがあるではない、言葉に恨みを抱いていたのだ。


「良観!? 良観房忍性か!?」


 その凄まじい勢いに躊躇いながらも答えざるを得ず、震える声で日蓮に事実を伝えた。

「関米や木戸銭をせしめる国賊と申されますが、それを用いて貧者に施し病者を癒し、橋を渡して井戸を掘り、飢えや渇きに苦しむ我らを満たしてくださったのは、まことのことにございます」

 日蓮と居並ぶ信者たちが、怒りを露わににじり寄る。取り囲まれる、逃げなくては、立ち込めた暗雲に身構えたそのとき、ぽつりぽつりと地面が濡れた。


「雨だ……」

「雨が降っておる」

「これは当分、降り続けるぞ」

 日蓮も、信者たちも空を仰いで顔を濡らした。口に飛び込む雨粒は、喜びのあまり甘露のように感じられた。

 そこへ、先の者が逃げ腰で今生の別れを吐いて捨てた。

「良観上人は江ノ島にて、祈雨きう祈祷をされておった。やはり良観上人は衆中を救う生き菩薩なのだ!」


 雨にぬかるむ地面を蹴って、名越を走り去っていった。日蓮は浴びた雨を沸かすほどわなわなと震え、ついに耐えきれず地面に杖を突き立てた。

「忍性の救済など、まやかしだ! 巻き上げた米や銭を浄地じょうじに蓄え、戒律を守れと宣うか! 真に衆中を救うならば祈雨などせずに井戸を掘れ!」

 雨が点々と濡らす杖の先から、じわりじわりと水が滲み出してきた。水が湧いた新たな井戸だと沸き立つ声は、法華経への危機感を募らせる日蓮の耳には届かなかった。




 それから二年が過ぎた文永八年、遥か西の暦によれば一二七一年のこと。

 鎌倉は再び、渇きに苦しめられていた。握った土は砂のように流れ落ち、馬は水を与えられず横倒しで虫の息、根付かぬ畑は放棄された。


 その最中、祈雨祈祷を担う忍性は空を覗い風の匂いを感じ取り、固唾を呑んだ。

「良観上人の祈雨法は評判だのう、此度こたびもと執権殿も期待しておる」

 不敵な笑みを浮かべて追い詰めるのは、時宗に遣われて極楽寺を訪れた、平頼綱。これが実時であったなら、あり余る智慧や蔵書から進言を得られるだろうにと唇を噛む忍性である。


 極楽寺の西、七里ヶ浜から江ノ島へ足を向ける忍性を、張り裂けんばかりの声が止めた。

「極楽寺良観! 祈雨法の対決をせい!」

 振り返った僧のひとりが、忍性に代わって日蓮をあしらった。

 しかし日蓮は、そう簡単には引き下がらない。僧を掻き分け押し退けて、忍性の赤鼻を目の前にして食い下がる。


「持戒や念仏が正しいならば、天が応じて祈雨が叶うことだろう。ならば極楽寺が正しいと認めるが、もし降らねば法華経に帰依するがよい」

 鼻先にまで迫る日蓮を無視出来ず、疎ましさを溜飲してから忍性は淡々と答えを返した。

「争いのための祈雨ではない、これは衆中を救うための行事だ。帰依せよと申されるが、西大寺流では法華経も尊んでおる故、拙者に争う理由などない」


 ふたりの間に割って入ったのは、頼綱だった。

「これは執権殿の依頼である、良観上人の行く手を阻むなら捕縛せねばならぬぞ」

 噛みつく日蓮を押し戻し、帰れと促す。奥歯をギリギリと噛み鳴らし、日蓮は切通しを越え由比ヶ浜へと帰っていった。

「良観上人を不逞の輩に煩わせたこと、何と申し上げればよいか」

 頼綱から温度のない詫びを受け、忍性は狼狽えながら腰を折りつつ寒気を感じた。この不気味な男は何者なのだ、一体何を考えているのか、と。


侍所さむらいどころの務めとして、あの日蓮なる僧を追わねばなりませぬ。江ノ島までの案内は他の者にさせましょう」

「いいや、それには及びませぬ。極楽寺総出で、江ノ島までは慣れた道のりにございます故」

 忍性の言葉を受けると、頼綱は頭を下げて日蓮のあとを追いかけた。それが切通しを越え消えるまで、見送るでもなくただ呆然と見つめてから、忍性は僧を伴い七里ヶ浜へと向かっていった。


 海が開け、長く伸びる浜辺の先に浮かぶ江ノ島に目を奪われる。言葉にするのも困難な美しさであったが、祈雨に挑む忍性にとっては戦いの舞台にほかならない。

 戦うべきは、僧でも経でも法論でもない。飢えや渇き、貧しさや病、人を蔑む心なのだ。

 しかし、今回ばかりは分が悪い。晴れ渡る不穏な空が、視界に収まらぬほど広がっていた。

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