第14話・蒲里谷

 朝夷奈あさいなはこんこんと湧き出る水が緩やかな斜面を滑り降り、土が泥濘ぬかるみ岩は艶めいている。深々と茂った木々は朝日を遮り、それらを乾かす隙もない。ふと気を抜けば足を取られてしまいそうになってしまう。

 幾度となく通った道で、手を加えられていない山を越えるよりは容易いものの、切通しはやはり険しい。往来と守りを兼ねているのだと、改めて気づかされる。


 実時と忍性は黙々と歩みを進め、長い朝夷奈を越えていった。それから六浦むつらに至る白山道しらやまみちを分け入って、向かった先には館があった。

 六浦道を往来するたび目についていたものの、醸し出される近寄り難い雰囲気と、実時が足早に立ち去ったので、忍性は今まで触れずにいた。


 その館の前に、今はいる。

 実時は硬い表情を一切崩さず、中の使いの者を呼び出した。そばの忍性も緊張して、舌の根までもが乾いてしまう。

「これは……」

 慎重にほんの少しだけ扉が開くと、迎えた使いが目を見張り、それから沈痛な顔をして、感謝と労いを込めて深く頭を下げていた。

蒲里谷かまりや御殿に、ようこそおいでくださいました」

「任せてしまって、すまぬ。恩に着る」


 使いは、何も言わずにふたりを中へと導いた。するとすぐさま苦悶に歪む唸り声と、それを必死に抑え込む吐息が聞こえた。

 奥へと進む実時、そして忍性はそれぞれの覚悟を決めて、固く閉ざされたふすまの前へと座った。


 が、破裂音を伴って襖が倒れた。使いが慌ててそれを押さえて脇へと寄せる。

 その襖には引っ掻き傷が無数に走り、残った上貼りは汚されて、ただならぬ異臭を放っていた。

「板戸にせよと申したであろう」

「申し訳ございません。それでは……お館様の爪が剥がれてしまいます故」

 実時の叱責も使いの弁明も、忍性の耳に届かなかった。解き放たれた光景に言葉を失い硬直してしまっている。

 実時は向き直り、忍性の目に映る光景を見て、呼吸を整えてから強く短く言い放った。


「父だ」


 布団を剥いで唸りを上げる実泰さねやすは、世話人に両の手首を押さえつけられていた。

「いけませぬ、古傷に触れてはいけませぬ」

 我を失った実泰は、渾身の力で痩せ細った四肢を暴れさせていた。それからは意志も思考も感じられず、ただ本能に任せているのみである。


 堪らなくなった忍性は汚れた床を踏み鳴らし、実泰の胸ぐらに飛びついた。そしてすぐさま、矢を受けた馬のように暴れ狂った両の手首を押さえ込む。

「危のうございます、ちこうございます、お館様に噛まれてしまいます」

 身を案じながらもオロオロとするだけの使いをよそに、忍性は目の焦点を失った実泰を真正面に捉えていた。

「大事ない、案ずることはございませんぞ、息をゆるりと吐いてみなされ」


 実泰の呼吸を掴んだ忍性は、時間をかけて息を吐き出す。それを耳にした実泰は、吐息の調子を忍性に委ねた。

 そうするうちに落ち着きを取り戻した実泰は、木偶のように力なく布団に身体を沈めていった。

 ころりと首が転がって、目についたのは嫡男の実時。虚ろな瞼がくわっと開くと布団から跳ね、安堵していた忍性はもろくも弾き飛ばされた。


「越後……」

 使いの者がそう言いかけたとき、実時の襟首には実泰が掴みかかっていた。殺される、そう思い急いで引き剥がそうとしたものの、実泰は激しく震えて涙をこぼした。

 もう聞き取ることの叶わない、うわ言のように繰り返される実時の幼名。それに実時は胸をえぐられ、ふいと目を背けてしまう。


 実時はその横顔に母の面影を見て、襟にかけた手をわなわなと離し、すべてを歪めて嗚咽した。「母上、何故」と切れ切れに漏らした声が自身の身体に浅く、幾重にも刻みつけられていく。

 その隙に使いの者が引き剥がし、みっともなく顔を濡らす実泰を布団に寝かせてかぶりを振った。

「恐れながら、お側におられますと障ります故、今日のところはお引き取りください」


 実時は謝罪も労いも発せずに、忍性を伴い部屋を出た。閉ざした襖の前に立ち、目を伏せて忍性と向かい合う。

 忍性は実時の頼みを悟り、表情を凍らせたまま膝をつき、両手をついて頭を下げた。

「これまでの働きをご覧頂き、お父上を救えると白羽の矢を立ててくださったと存じます。しかしながら……」

「わかっておる、すまなかった」

 口惜しく見上げると、寂寞とした笑みが浮かんでいた。息子だとわかってくれただけ、まだよいとでも言っているようでもあった。


 忍性は床に拳を突き立てて、襖の正面へと向き直った。法衣を整え、金剛杵こんごうしょを取り出し、数珠を指にかけて合掌した。

「即席で申し訳ございません。お父上の病が少しでも癒えるよう、祈祷をさせて頂きます」

 実時は、忍性から一歩ほど離れて同じように腰を下ろした。

「すまぬ、良観房」

「いえ、これしきのことしか出来ませぬ故」


 医者にも、実時の蔵書をってしても敵わない実泰の病に、忍性は経を上げて対峙した。祈りよ届け、仏に届け、実泰の心の芯に届けよと。

 襖の向こうのうめき声はそのうちついえて、安らかな寝息へと変わっていった。

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