国賊

山口 実徳

第1話・和賀江島

 今は正元しょうげん元年、南宋なんそうでは開慶かいけい元年としているが、聖人の生年を紀年とする遥か西国の暦にいては一二五九年であると和賀江島わがえじまで耳にした。


 いずれ何かの役に立つかも知れないと頭の片隅に置いておき、宋船から降ろした本を受け取る。

 ちょうど手に収まる厚み、さらさらとした紙の手触り、黒々と艶めき踊る墨、指で弾けば軽快に羽ばたき、新しい世界へといざなってくれる。


 ああ、やはり本はいい。たったこれしきの紙束は海より深く、空の彼方より果てしない。文字の羅列に飛び込めば十万億土、弥勒みろく菩薩が待つ未来にまで連れ去ってくれる。


「失礼を承知で申し上げます。そろそろ日も高くなります故、頃合いではなかろうかと存じます」


 現世に引き戻されて書物を胸に仕舞ったのは、三代にわたり執権を支えた北条実時さねとき。引き戻したのは良観房忍性りょうかんぼうにんしょうという僧である。鋭い目つきを歪ませて自嘲を浮かべる実時を、くたびれた法衣を左前に纏う赤鼻の僧侶は苛立ちもせず、ただ微笑ましく見るのみだった。


「これはすまぬ。伯父上の面通しにと呼び立てたにも関わらず、つい悪い虫が出てしまったわ」

「いいえ、拙僧より勉学に励んでおいでで、羨ましい限りにございます」


 互いの至らぬところを晒し苦笑いを見合わせてから、ふたりは西へと伸びる材木座海岸を歩いていった。忍性はしばらくウズウズとした末、興味深そうに話し掛けた。

「本がお好きなのですね?」

 これを語るのは、自身を語るのと同じことだと実時は遥か昔、幼き頃の二十五年前を思い出して噛みしめるように目を伏せた。


「父の跡を継ぎ小侍所こさむらいどころ別当に就いたのは、十一の頃だ。こんな小倅こせがれに御家人の供奉ぐぶや御所の護りが勤まるものかと、皆に気を揉ませたものよ」

 そんな幼き頃から要職に、と自身の三十一年前を思い返した忍性は驚きを隠せずにいる。そんな様子に実時は、何を恨むでもなくしずしずと話を続けた。


烏帽子えぼし親でもある時の三代執権が推挙してくださったのだ、期待を裏切るわけにはいかぬと本を取り寄せ勉学に励んだ。それが本狂いのはじまりよ」

 忍性は知らぬ苦労を分かち合うように眉をひそめた。しかし実時は、そうして得た今が幸せだと言わんばかりにニヤリと笑った。これには忍性も笑みを返さずにはいられない。


此度こたびは、如何なる本でしょうか」

「南宋より渡った仏の本だ。近頃は、こればかりだのう」

「仏の道に、迷いがお有りで?」


 僧の前で、申し訳ない話をしたと口を結んだ。忍性が言うように、数多ある仏の道から一体どれに帰依すればいいのか迷っていた。

 これから会う伯父、重時しげときの勧めもあって称名しょうみょう念仏を唱えていたが、口に出せない疑念があった。

 病が元で出家して五代執権から身を引いた時頼ときよりは六年前に鎌倉の北、山ノ内に建長寺という大寺院を創建させるほど、熱心に禅を組んでいる。


 ふたりを見れば、それぞれに救われているのがわかる。

 数々の要職を長く務めた重時は、謀反を図った母の実家が父義時によって滅ぼされている。出家した今も、嫡男長時ながときが六代執権を務めており、気の休まる暇がない。安寧を祈り念仏を唱えているのは理解が出来る。

 五代執権の重責を担い、病に伏せる今も実権を握っている時頼である。静寂と閉ざした闇に精神を研ぎ澄ませ、真の光に救いを求めるのも当然と言える。


 しかし実時には、そのどちらも救いにならなかった。

 幼いうちに元服し、すぐさま要職に就かされたのは父実泰さねやすが狂ってしまったからだ。実時が生まれた頃のこと、執権義時亡きあと実母にそそのかされて、兄の政村を推挙する後継者争いに加わり、失敗していた。そのような危うい立場でありながら、兄を飛び越え小侍所別当に任命された。

 それが父の心を次第に蝕み、耐えかねた末に腹を突き切り出家した。それからは、言葉どおりに隠棲している。


 日の出とともに禅を組み、日が暮れるまで念仏を唱えても、父も実時も救われている気にはなれなかった。


 気づけば材木座海岸が終わり、鎌倉の南北を貫く滑川なめりかわの前にいた。ここから先、海岸は由比ヶ浜と名を変える。

 由比ヶ浜には禍々しい空気が淀んでおり、実時は思わず怯み足を止めた。一方、忍性はぐるりと辺りを一瞥し、感心しきって唸りを上げた。

「南を浜、三方を山が囲んでおるのですな。これは守りの強い地だ」


 忍性の僧らしからぬ一言に、実時は思わず片眉を上げた。鈍重そうな身体からとてもそうは見えないが、兵法に長けた僧兵なのかと。

 その視線に法衣を焦がされ、忍性は慌てて取り繕った。

「拙僧は、大和国は伴貞行とものさだゆきという田舎武士の子にございます。父子ともども、仏に帰依しております故」

 左様であるか、と呟いた実時は思索に耽った。


 形だけでも武家ならば、他の僧より御家人への理解が深いだろう。伯父重時の頼みを承って忍性を思い出したのは、やはり順道だったようだ。

 また強固に見える鎌倉の守りは盤石ではない、土地に甘えてしまっては、北条の世を未来永劫にまで繋げることは叶わない。

 この鎌倉を守護するために、鎌倉の苦悩を払うために、そして父と自身が救われるために、この忍性が必要なのだ。


「さて、参りましょうか」

「うむ、潮が満ちてしまう」


 忍性が期待を込めて微笑むと、実時は口を固く結んで由比ヶ浜へと足を向けた。

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