国賊
山口 実徳
第1話・和賀江島
今は
いずれ何かの役に立つかも知れないと頭の片隅に置いておき、宋船から降ろした本を受け取る。
ちょうど手に収まる厚み、さらさらとした紙の手触り、黒々と艶めき踊る墨、指で弾けば軽快に羽ばたき、新しい世界へと
ああ、やはり本はいい。たったこれしきの紙束は海より深く、空の彼方より果てしない。文字の羅列に飛び込めば十万億土、
「失礼を承知で申し上げます。そろそろ日も高くなります故、頃合いではなかろうかと存じます」
現世に引き戻されて書物を胸に仕舞ったのは、三代にわたり執権を支えた北条
「これはすまぬ。伯父上の面通しにと呼び立てたにも関わらず、つい悪い虫が出てしまったわ」
「いいえ、拙僧より勉学に励んでおいでで、羨ましい限りにございます」
互いの至らぬところを晒し苦笑いを見合わせてから、ふたりは西へと伸びる材木座海岸を歩いていった。忍性はしばらくウズウズとした末、興味深そうに話し掛けた。
「本がお好きなのですね?」
これを語るのは、自身を語るのと同じことだと実時は遥か昔、幼き頃の二十五年前を思い出して噛みしめるように目を伏せた。
「父の跡を継ぎ
そんな幼き頃から要職に、と自身の三十一年前を思い返した忍性は驚きを隠せずにいる。そんな様子に実時は、何を恨むでもなくしずしずと話を続けた。
「
忍性は知らぬ苦労を分かち合うように眉をひそめた。しかし実時は、そうして得た今が幸せだと言わんばかりにニヤリと笑った。これには忍性も笑みを返さずにはいられない。
「
「南宋より渡った仏の本だ。近頃は、こればかりだのう」
「仏の道に、迷いがお有りで?」
僧の前で、申し訳ない話をしたと口を結んだ。忍性が言うように、数多ある仏の道から一体どれに帰依すればいいのか迷っていた。
これから会う伯父、
病が元で出家して五代執権から身を引いた
ふたりを見れば、それぞれに救われているのがわかる。
数々の要職を長く務めた重時は、謀反を図った母の実家が父義時によって滅ぼされている。出家した今も、嫡男
五代執権の重責を担い、病に伏せる今も実権を握っている時頼である。静寂と閉ざした闇に精神を研ぎ澄ませ、真の光に救いを求めるのも当然と言える。
しかし実時には、そのどちらも救いにならなかった。
幼いうちに元服し、すぐさま要職に就かされたのは父
それが父の心を次第に蝕み、耐えかねた末に腹を突き切り出家した。それからは、言葉どおりに隠棲している。
日の出とともに禅を組み、日が暮れるまで念仏を唱えても、父も実時も救われている気にはなれなかった。
気づけば材木座海岸が終わり、鎌倉の南北を貫く
由比ヶ浜には禍々しい空気が淀んでおり、実時は思わず怯み足を止めた。一方、忍性はぐるりと辺りを一瞥し、感心しきって唸りを上げた。
「南を浜、三方を山が囲んでおるのですな。これは守りの強い地だ」
忍性の僧らしからぬ一言に、実時は思わず片眉を上げた。鈍重そうな身体からとてもそうは見えないが、兵法に長けた僧兵なのかと。
その視線に法衣を焦がされ、忍性は慌てて取り繕った。
「拙僧は、大和国は
左様であるか、と呟いた実時は思索に耽った。
形だけでも武家ならば、他の僧より御家人への理解が深いだろう。伯父重時の頼みを承って忍性を思い出したのは、やはり順道だったようだ。
また強固に見える鎌倉の守りは盤石ではない、土地に甘えてしまっては、北条の世を未来永劫にまで繋げることは叶わない。
この鎌倉を守護するために、鎌倉の苦悩を払うために、そして父と自身が救われるために、この忍性が必要なのだ。
「さて、参りましょうか」
「うむ、潮が満ちてしまう」
忍性が期待を込めて微笑むと、実時は口を固く結んで由比ヶ浜へと足を向けた。
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