第三幕 仙羽、悪を討つ

一場 氷漬けの過去

 体の下に広がる地面の固さに目を開けると、とうの昔に破れた窓と壁、崩れ落ちた屋根の残骸が飛び込んでくる。王仙羽はきょろきょろと周囲を見回し、布団の代わりに掛けられている自分の上着を取って起き上がろうとした。

「いっ……!」

 肘をついた途端に胸に痛みが走り、王仙羽は思わず呻いた。肌着の前を開けると、丁寧に巻かれた包帯が目に入る。荒い息をつきながら傷ついた体を眺めているうちに、記憶がはっきりしてきた——陰霊城に僵屍が攻め込んだあの夜、陳芹チェンチンに裏切られて重傷を負ったのだ。誰かが助けて介抱してくれたらしいが、今はゆっくり寝ている場合ではない。


 王仙羽は痛みをこらえて立ち上がると、机の上に畳んで置いてある服に手を伸ばした。傷口は丁寧に繕われ、汚れもすっかり落とされて、重傷を負ったとは分からないほどきれいに手入れされている。長靴を履き、衣を身に着け、上着に腕を通して身支度を整えていると、ふいに戸口から声がした。

王仙羽ワンシェンユー!」

 振り返ると、扉のない戸口に凛冰子リンビンズが立っている。凛冰子は王仙羽に駆け寄るといきなり腕を掴み、手首の内側に指を置いた。突然肌に触れた死の冷たさに、王仙羽はびくりと身を跳ねさせる。だが、凛冰子はすぐに安堵のため息をついて王仙羽を解放した。

「もう大丈夫だ……だが、胸の傷がまだ癒えきっていないだろう。まだ寝ていた方がいい」

「私は平気です。それより、なぜ先生が私を? ここはどこなんです? 陰霊城の中ですか?」

 王仙羽の質問攻めに、凛冰子はやめろというように閉じた扇子を振った。

「待て、そう焦るな。まず第一に、ここは陰霊城ではない。路地裏で倒れていたお前を見つけて、急いで連れ出したのだ。……一応聞くが、誰にやられた」

「陳芹です……胸を刺されて、ひょうたんの酒を飲まされました。そこから先は覚えていません。……私が、無警戒でした」

 心底嫌そうに聞いた凛冰子に、王仙羽は正直に答えた。今思えば、最初に協力すると言われたときから、何か裏があることを疑うべきだったのだ。所詮は死霊術師、他人の善行をも己のために利用する、悪知恵頼みの蛇蝎の徒だ。

「それで、奴は今どこに?」

 王仙羽が尋ねると、凛冰子は苦虫を嚙み潰したような顔で首を横に振った。

「逃げられた。お前が眠っている間にあいつの隠れ家をしらみ潰しに探して回ったがどこにも姿がない。陰霊城にもいなかった」

「私はどのくらい眠っていたのですか?」

「今日で七日目だ。始めのうちは七魄が消えかけていたが、三日ほどで回復した……全く、強運なのは良いことだが、無茶だけはしてくれるな」

 王仙羽ワンシェンユーはわずかに目を見開いて、それから小声で「すみません」と謝った。



***




 その夜の食事は凛冰子リンビンズが作った粥だった。王仙羽は、差し出された椀を礼を言って受け取りはしたが、頭の中では眠っていた間のことが引っかかっていた。白く濁った灰色の世界と、背中に剣を背負った男。名は何と言ったか、知っている人物であることはたしかだがどうにも思い出せない。

「どうした。食欲がないのか?」

 ぼんやり粥を見つめている王仙羽ワンシェンユーを、凛冰子が怪訝そうにのぞき込む。王仙羽はいえ、と答えると、

「ちょっと、考え事をしていて。眠っている間に夢を見ていたんです」

 と言った。

「夢?」

 凛冰子が聞き返す。王仙羽は頷くと、

「気が付くと、舟の上にいたんです。水墨画の中に入ったような、灰色の景色が広がっていて……それから、舟には先客がいました。その人が治療をしてくれたんです。何でも私は陳芹チェンチンに、魂魄に作用する毒を盛られたとか」

「おい、その男は何者だ。何故奴の酒が毒だと分かる?」

 凛冰子が低い声で問う。

「分かりません。ただ、そう言って私を治療してくれたというだけで。陳芹のひょうたんの中身は、本当に毒酒なのですか?」

 王仙羽が聞き返すと、凛冰子は重々しく頷いた。

「ああ。私がこうなったのも、あいつの毒酒のせいだ……これでも昔は、まっとうな修行を積んだ道士だった」

「それがいつのことか、お聞きしても?」

 思いがけない告白に、王仙羽は目を丸くした。凛冰子はため息をついて、

「もう一甲子は経っている」

 と答えた。

「あの頃の武林は、死霊術師と正道各派との対立が今より激しかった。我々正道の各派は同盟を結び、陰霊城を落とそうと皆が殺気だっていた。その中で私は、幾人かの仲間とともに斥候として陰霊城に行くよう命じられた。迷屍陣のことはその当時から知られていたし、でき得る限りの策を講じて踏み込んだのだが……我々は僵屍の襲撃に遭い、力及ばずに捕らえられた」

 凛冰子リンビンズはそう言うと、手に持った扇子を静かに開いた。その目はどこか遠くの暗闇を見ている。

「我らは城内の獄に繋がれ、奴らが目と鼻の先で我らの扱いをこれ見よがしに相談しているのを聞いていた。すると、守衛の一人が来て、良い案があると申し出た。それが陳芹チェンチンだった」

「陳芹が?」

 王仙羽ワンシェンユーは思わず声を上げた。凛冰子は静かに頷いて先を続ける。

「そうだ。あいつは連中に面と向かって、傀儡を生み出す新しい方法があるから是非とも試させてほしいと言った。奴は城外の出身で、遅くから修行を始めたということ以外にあまり素性を知られていない。おまけに当時は牢獄の守衛だ。実力もない者の提言だから、皆気が進まないようだった。

 だが老不殤ラオブーシャンは、奴の言う新しい方法に興味を示した。あの女が賛成したとなると、あとの連中はそのまま引き下がった。奴は陣を敷こうとしたが、陳芹はそれを拒否すると、酒の壺と杯を取り出した。長老たちが見守る中、奴は牢に入ってきて、酒を注ぐと我々の一人に飲ませた……彼は、杯を飲み干すなり、血も吐かずに倒れてそれきり起き上がることはなかった。二人、三人と続けて飲まされたが、皆その場で倒れてしまった。私も倒れたが、なぜか意識は残ったままだった……それまでのどんな怪我や病よりも辛い時間だった。体が内側から燃えているような痛みが昼も夜も続いて、ついに何も感じなくなった頃には私一人が残されていた。牢の前では、老不殤と陳芹が話し込んでいた。聞けば、他の仲間は皆僵屍になって陳芹の配下に下ったという。私は老不殤に引き取られ、破壊された七魄の代わりに紛い物の魄を入れられた。こうして天下に唯一の生きた傀儡が生まれたというわけだ」


 凛冰子ははあとため息をつくと、扇子を閉じてパンと手を打った。

「これで分かったか? あいつは仲間の仇、私のこの運命の仇だ。奴のせいで受けた数々の屈辱も、全て清算させるまでは死んでも死に切れぬわ」 

 王仙羽ワンシェンユーは返す言葉が見つからず、代わりに粥を一口すすった。凛冰子はそんな悲惨な体験をした場所で、むごい仕打ちをした本人たちに囲まれながら六十年もの年月を過ごしていたのだ。その目に宿る暗い光は、王仙羽にはとても手が届かないような闇の奥深くでくすぶる正義の心の燃え残りだった。

 王仙羽は無言のまま粥を食べ続けた。凛冰子も何も言わず、床の一点をぼんやり見つめたまま物思いに沈んでいる。



 ふと、王仙羽はあることに気が付いた。特殊な肉体を持っているわけでも抜きんでた実力があるわけでもないのに、陳芹チェンチンもまた異様に長い時間を生きているのだ。さらに、凛冰子の話から察すると、陰霊城に来て死霊術の修行を始めた時点で決して若くはなかったはずだ。凛冰子が囚われた頃には、何年か修行を積んでいたはずだ。そこから一甲子というと、中年に見える陳芹は、実は百年近く生きているのではないか? 

 陰霊城の裏路地で、飛びかけた意識の中で聞いた「捕物劇は悪党の勝利」の言葉と七魂を害するという毒酒。酒の入ったひょうたんは、陳芹が常に帯から提げているものだ。本人がそこから酒を飲んでいるところも何度も見た。

 もしも、この毒酒が陳芹の言うところの不死長生の秘訣なのだとしたら。彼の言う不死長生が、昇天して神仙に列せられることではなく、わざと七魄を損なって三魂の抜け出せない体になることを意味するのだとしたら。

「……そうか、そういうことか!」


 王仙羽ワンシェンユーの呟きに、凛冰子がふっと顔を上げる。王仙羽は興奮気味に立ち上がって言った。

「冥府が探しているという、己の寿命に手を加えた死霊術師は陳芹チェンチンです。そう考えると全部辻褄が合います! 先生がそうなった理由も、私が死にかけた理由も、奴の持ち歩く酒が魂魄を害する毒だというのも。それに奴は実際にあの酒を飲んでいます。自らあの毒を飲むことで、三魂が離れない肉体に作り替えていたんですよ!」

 この言葉で、凛冰子リンビンズも合点がいったらしい。低い声で「そうか」と呟くと、

「となると、お前が飲まされたものは私が飲んだものよりも弱められているということになる。不死長生を求めて毒を飲むなどという馬鹿な真似もするまいし」

 と続けて言った。

「一甲子もあれば改良を重ねることもできたでしょう。陰霊城の外で効果を試し、仲間に悟られずに不死長生の毒を完成させていた可能性は大きいですし、その中で命を落とした者を……先生と共に囚われた先輩方のように、使役していても不思議ではありません」

「なるほど。一理ある。しかし、心当たりはあるのか?」

 凛冰子が尋ねる。王仙羽は、最初に陳芹と会った時のことを思い出して答えた。

「あいつには酒鬼の飲み仲間がいます。連中の酒盛りを見たことがあるのですが、ひょうたんの酒と同じ匂いがあたりに漂っていました」

「つまり、実験も兼ねて城外で地盤を固めていたということだな」

 凛冰子は扇子の端をあごに当てて呟いた。それから視線を上げて王仙羽を見る。

「して、これからどうするつもりだ?」

 もちろん、答えは決まっている。王仙羽は凛冰子を見つめ返して宣言した。

「陳芹を討ちます。奴に然るべき引導を渡さねば」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る