幕間

幽明のはざま

 王仙羽ワンシェンユーがまだ幼かった頃、ふもとの村で子どもが一人、川でおぼれて命を落としたことがあった。母の琅鴛ランイェンが葬儀を執り行うことになり、王仙羽は彼女について村へと下りた。


 そこで王仙羽は、生まれて初めて鬼を見た。


 それは、川に向かってぼうっと立っている一人の少女だった——王仙羽は彼女が一人でいるのを見つけて、何の警戒も抱かずに声をかけた。だが、その子がゆっくりと振り返った途端、王仙羽は背筋が凍る思いがした。その子は、自分が死んだ場所で冥府の迎えを待っていたのだ。逃げようとした王仙羽は足を滑らせて川に落ち、ひどい風邪をひいて寝込んでしまった。


 その後琅鴛は、王仙羽に白い一字巾をくれた。床を引きずるほど長い、護身の呪文を三遍にわたって縫い込んだ布を息子の頭に巻きながら、琅鴛はこう語った。

「仙羽。川はね、向こうの世界に通じているの。だから不用意に近づくと、特にあなたのように陰の世界に近い子は簡単に向こう側に連れ去られてしまうわ。あの子は人に害を成せるような強い怨念は持っていなかったけれど、川辺にいる鬼のほとんどはあなたを溺れさせるつもりで近付いてくる。川辺でなくても、彼らは生きている人間を陥れ、魂を奪おうとあの手この手で試してくる。だから気を付けて。あなたの目の前に現れる人をよく見極めなさい——」





 母の言葉が終わらないうちから、瞼の裏が次第に明るくなる。王仙羽ワンシェンユーが目を開けると、白く濁った曇天が視界いっぱいに広がっていた。



 ここはどこだろう。仰向けに寝転がったまま、王仙羽はぼんやりと考えた。せせらぎの音と揺れる床の感覚から察するに、どうやら舟に乗っているらしい。だが、いつの間に乗り込んだ? 

 起き上がろうにも体がひどく重い。空を見つめたまま、かすかに眉をひそめる王仙羽の耳に、足元の方から低い声が聞こえてきた。

「目が覚めたか」

 肘をつき、どうにか体を持ち上げて声のした方を見ると、船べりに一人の男が腰を下ろしていた。くすんだ色味の衣を着、背中には一振りの長剣を渡している。くすんだ黒髪を後頭部で一つにまとめており、それをとめている髪飾りが唯一の装飾品だ。逞しく精悍な顔つきの、いかにも江湖の剣客といった男だった。

「横になっていろ。その傷ではまだ動けん」

 男は立ち上がると、王仙羽の傍らに膝をついた。大の男が立ち上がったというのに、舟は変わらず穏やかに水面に漂っている。

 それにしても、どこか知っているような雰囲気の男だ——王仙羽はそう思って男をじっと見つめた。男の方も何か思うところがあるのか、王仙羽を不思議そうに見つめている。

「……お前、名は何という」

 男が尋ねる。王仙羽はとっさに

ラン、仙羽です」

 と答えた。

「琅? それは父親の名か?」

 目を丸くして聞き返した男に、王仙羽は小さく頷く。男は何やら考え込むように眉をひそめていたが、

「母親は何という名だ」

 と尋ねた。

王鴛ワンイェンといいます」

 王仙羽のこの答えにも、男はすんなり反応を返さない。相変わらず何かを訝しんでいる様子だったが、やがてそうかと呟くと

「奇遇だな。俺も姓をワンという。王叙鶴ワンシューフーだ」

 と名乗った。

 今度は王仙羽が驚く番だった。まさかこの男が、探すなと言われ続けていた父親だというのか?

 突然顔色を変えた王仙羽ワンシェンユーを、王叙鶴は怪訝そうに覗き込む。王仙羽は慌てて、幼い頃にワン英雄の話をよく聞いたと言ってごまかした。彼が本当に王叙鶴その人なら、ここで唐突に息子だと打ち明ける方が怪しまれると思ったのだ。



 王叙鶴ワンシューフーはそれ以上の追及はせず、王仙羽の手首に指を二本添えた。どうやら彼が助けてくれたようだが、それにしてもなぜ舟の上にいるのだろう——そのことを聞くと、王叙鶴は

「俺の話を聞いているなら、俺が死んでも生き返ることは知っているな」

 と王仙羽を起こしながら言った。

「人が死ねば魂は陽間から陰間に渡るが、俺の場合は違う。死ぬと必ずここに来る。必ずこの川の、この舟の上にいる。……おそらくここは、陰と陽の中間にあたる世界なのだと思う。目が覚めると夢のようにぼんやりとしか思い出せないし、詳しいことは俺にも分からないのだが。ただ、一つはっきりしているのは、時が来るまでこの舟を降りることはできないということだ」

「他に誰か、ここに来る人はいるんですか?」

 王仙羽が尋ねると、王叙鶴は首を横に振った。

「いいや。ここに入ってきたのはお前が初めてだ」

 突然、背中から熱いものが流れ込んできた。経脈を通って全身に行き渡るそれは、王叙鶴の内功だろう。同じ熱さでも陳芹に飲まされた酒とは全く違う。体が芯から温められ、体内に残っていたしこりが溶けてなくなっていく。長く息を吐くと、冷気が細い煙となって口から出ていった。

「本来ならば、これほどの仕打ちを受けて助かることはない。しかし魂魄に作用する毒とは、悪辣にもほどがある」

 王叙鶴は独り言のように言いながら、王仙羽ワンシェンユーに注いでいる内功に変化を加える。

「毒? 私が飲まされたのは、酒のはずですが」

 王仙羽が首をかしげると、王叙鶴はどういうことだと聞き返した。

「なんでも、不死長生の秘訣だとか」

「不死長生だと?」

 熱の流れが止まり、王叙鶴が背中から手を離した。王仙羽が振り返ると、その顔は呆れと怒りの色がありありと浮かんでいる。

「邪道の術で真の不死長生が得られるわけがない。大方そいつは、その毒が地上にとどまり続けて冥府から逃げ回る手段に過ぎないのを聞こえが良いように言っているのだろう。現にお前も、その毒手にかかって死にかけているではないか。ここに迷い込むだけで済んだのも、ひとえにその一字巾の護りの呪文によるものだ。それがなければ、今頃どうなっていたか知れたものではないぞ」

 王叙鶴は、怒りを鎮めるようにため息をついた。

「とにかく、お前は助かる。魂魄が十分な休息を得たら、帰るべき時はおのずと分かる」



 王叙鶴ワンシューフーは、王仙羽の向かいに腰を下ろしてあぐらをかいた。すっと背筋を伸ばし、目を閉じて深呼吸を繰り返す。程なくして、その体が内側から淡く光り始めた。王仙羽は目を丸くして、その様子に思わず見入っていた——これほど内功の造詣が深い者は見たことがない。



 王仙羽も座り直して姿勢を正すと、目を閉じて深く息を吸った。丹田から全身へ、ゆっくりと内功を巡らせる。すると、肉体があるときと同じように、全身の経脈に熱の流れが生み出された。外の世界が溶け始める。かすかに聞こえるせせらぎの音は体内を巡る熱と一体となり、己は消え、一は万となり、万は一となり、永遠に切れない輪の中で変化と循環を繰り返す。





 そのうちに、ひどくぼやけた光景が見えてきた。薄青い衣を着た人影が、地面に横たわる白い人影を介抱している。王仙羽ワンシェンユー、王仙羽と呼びかける声にどうも馴染みがある——





 そう思った瞬間、分散していた自己が急速に収縮した。舟の上に戻ってきた王仙羽は、静かに息を吐いて目を開けた。向かいに座る王叙鶴ワンシューフーも調息をやめてこちらを見ている。

「時間か」

 王叙鶴が短く尋ねた。王仙羽は無言で頷くと、立ち上がって拱手した。

「ありがとうございました、王英雄。このワ……琅仙羽、先輩の御恩は決して忘れません」

「覚えていなくとも良い。俺もこの場所も、抜け出した魂が見た夢に過ぎないのだ。お前がどう思おうと、ここはそういう空間だ」

 そう言いながら、王叙鶴も立ち上がった。

「これからどうするつもりだ?」

「私をここに送り込んだ死霊術師を探します。邪悪の徒を討たなければ」

 王仙羽はきっぱりと答えた。敵は姿を現した。やるべきことは明確だ。

「では、近いうちにまた会わないことを祈っている。ここはそう頻繁に来ていい場所ではない」

 王叙鶴の返事に力強く頷くと、王仙羽は深く息を吐いた。右手を胸、左手を下腹の位置に置き、再び全身に内功を巡らせる。充満する気を両手の間に集めると、その体からかすかに湯気が昇り始めた。

「最後に一つ、頼みごとをしてもいいか」

 王叙鶴に呼ばれて、王仙羽は目を開けた。景色が歪んで見えるほど強力な内功の向こうに、嬉しそうな、しかし申し訳なさそうな王叙鶴の顔がある。

「……王、仙羽。琅妹ランメイ……琅鴛ランイェンに、お前の母に、俺の代わりに伝えてくれ。よくやった。そして、すまなかったと」


 ——この人、気づいていたのか。

 そう思うと同時に、鼻の奥がつんと痛くなる。だが、ゆっくり感慨にふけっている時間は残されていなかった。





 手の中で限界まで圧縮された気が一気に膨張し、視界が一面の白に包まれる。光が薄れ、五感が戻ってくるにつれ、王仙羽は自分が固い地面に寝かされていることに気が付いた。

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