五場 死なずの術師

 老不殤ラオブーシャンは振り返ると、手を上げて陳芹チェンチンを起こさせた。体をすっぽり覆う漆黒の装束の袖から覗いた手は若い女子のように白く、細い。こちらに近付いてきた姿は思いのほか小柄で、顔全体が隠れるほど深く被った頭巾が底知れぬ威圧感をかもし出している。

「大人、道士の王仙羽ワンシェンユー殿です」

 陳芹の紹介に合わせて、王仙羽は拱手して頭を下げた。

「お初にお目にかかります。老不殤殿」

「面を上げよ」

 老不殤に言われて、王仙羽は改めて頭巾に隠された顔に視線を向けた。老不殤もこちらをじっと見つめているが、頭巾に隠れた眼光が突き刺さるようだ。

「迷屍陣では見事な立ち回りであった」

 老不殤が口を開いた。

碧雲観へきうんかんから来たと申していたな? 師は誰だ」

「母の琅鴛ランイェンです。碧雲観はもともと母の道観でしたので」

「そうか。して、母君はどうされた」

「身罷りました。ふた月半になります」

 老不殤は王仙羽の返答に「そうか」と言うと、何を付け足すでもなくじっとその整った顔を見上げていた。頭巾の影から向けられる視線に王仙羽が居心地の悪さを感じ始めたとき、老不殤が再び口を開いた。

「して、ここに参った用向きは? 先ほど少し聞かせてもらったが、あれはまことか」

「はい。証拠もございます」

 王仙羽は答えると、袂に手を入れて李知恩から預かった木簡を二つとも取り出した。

「例の官吏から、冥府の文書を特別に託されております。御覧になられますか?」

「……いや。その必要はない。それがこの世のものでないことは一目瞭然よ」

 老不殤は木簡を少しの間見つめていたが、黒い袖をひらりと振って言った。

「して、泰山府君は、何をした者を探しておる?」

 王仙羽は、李知恩とのやり取りをかいつまんで説明した。その死霊術師が自分の命に細工をしたことを話すと、老不殤は感心したようにほうと呟いた。

「三魂七魄に手を加え、冥府の手を逃れようとは。面白いことを考える者がいたものよ」


「あの、老不殤大人」

 すると、それまでじっと黙っていた陳芹チェンチンが口をはさんだ。

「わしは修行も浅いさかい、よう分からんのですが。自分の魂魄を破壊せずに自分でいじる方法なんてあるんですか? わしらの掟に、仲間内では死霊術で争うな、いうのがありますけど、それは死霊術が使えるもんに術をかけると後々面倒なことになるっていうんが理由やないですか。対人で使つこたらあかんもん、自分に使つこてもえらい目に遭うんがオチのような気がするんですが」

「え、死霊術師にはそんな掟があるんですか?」

 王仙羽ワンシェンユーは思わず聞き返した。死霊術師が江湖で疎まれている原因の一つが行き過ぎた功名心だ。同門の仲間に対する競争心も名を上げたいと望むことも決して悪ではないのだが、相手を消してでも名声をもぎ取ろうとする貪欲さは、師弟間や舎弟同士の礼節を重んじる多くの門派から良く思われていない。そんな彼らが身内での果し合いには制約を設けているというのが意外だったのだ。

 老不殤ラオブーシャンは陳芹をちらりと見ると、説明しろというふうに頷いた。

「ええと、これはわしらが絶対教わる、死霊術の成り立ちにも関わる話なんやけどな」

 陳芹チェンチンがあわてて口を開く。

「あんまり詳しくは言われへんねんけど、昔、死霊術師の中でえらい内輪揉めがあってやな。抗争の中で、術をまともに食らって死んでしもた奴がおったんや。ところが、その死霊術師は、どういうわけか棺の中で息を吹き返した。それでみんなビビッてしもて、バケモンや言うてそいつを攻撃した——せやけどそいつは逃げてしもて、どこを探しても行方が分からんまま、死体復活事件はお蔵入りになった。やけど、抗争がおさまって新しく掟が決められたときに、変なバケモン生み出さんためにも仲間内で死霊術使って戦うのが禁忌になったっちゅうこっちゃ。多分やけど、死霊術を使えるバケモンなんか生み出してもロクなことにならんて思わはったんやろうな」

 王仙羽ワンシェンユーはふうんと頷いた。他の死霊術絡みの事件に負けず劣らずおどろおどろしい話だが、内輪の争いで死者が出たというのは正道の門派にもあることだ。継承される術があり、人が集まっている限り、死霊術師たちにそんな歴史があったというのもあり得ない話ではない。

「ちなみに、その死霊術師は何という名前だったのですか?」

 好奇心から尋ねた王仙羽に、老不殤ラオブーシャンが答えた。

「分からぬ。当時の文献を遡っても、姓をワンと言うことしか記録されておらぬ」

「そういえば、道長もワンて言うたな。意外とご先祖様やったりして」

 陳芹チェンチンがおどけて言った。へへへ、と笑う陳芹を一瞥して黙らせると、老不殤は

「生きた人間に対して死霊術を使うのは決して褒められた行為ではないということだ。このワンという古い先輩のように、得体の知れぬ化け物に変化してしまうとも限らぬ。そうなりたいなら話は別だが、諸刃の剣ではあろうな」

 と言った。

「私が預かったその者の記録は、すでに黒く塗りつぶされております。もうすでに、人ならざるものに変化してしまっているかと」

 王仙羽の言葉に、老不殤は静かに頷く。

「あり得る話だ。私としても大いにそそられる……ふむ、良かろう」


 老不殤ラオブーシャンは腕を上げると童僕を招き寄せた。隅の暗がりから童僕が出てきてひざまずき、頭を垂れる。老不殤は何も書いていない呪符を一枚取り上げて、細い指に挟んで言った。

「城府に伝令を。我、老不殤は王仙羽ワンシェンユー殿を客として迎え、陰霊城の何人も彼に手出しすることを禁ずる。そして彼の探す、己に術を使ったという仲間の調査に助力する許しを願いたい」

 老不殤の言葉に合わせて、無地の呪符にスルスルと紋様が浮かび上がっていく。

「それから、蔵書殿への出入りの許可を。案内役は凛冰子リンビンズが良かろう。逆らうようなら首の骨を折っても構わぬ」

 老不殤は童僕の額に呪符を貼りつけると、指を二本立てて最後に一筆書き足した。

「行け」

 命令とともに、童僕の姿は一瞬でかき消える。老不殤は王仙羽たちに向き直ると、

「私は今から城府に行ってくる」

 と告げた。

「陳芹よ。くれぐれもワン殿に失礼のないようにせよ。この件で争いが起ころうものなら、この老不殤が容赦せぬぞ」

「はい、大人」

 陳芹は慌てて答えるとペコリと頭を下げた。老不殤は王仙羽に軽く頷くと、黒い裾を翻して部屋を出ていった。

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